旅記事連載の途中だが、タイムリーな話題として、この映画のことも触れておこう。
物語の舞台はロンドン。
主人公はプロのミュージシャンを夢見ながら、路上演奏で日銭を稼ぐという明日をも知れぬ日々を送るジェームズという青年。
両親の離婚を経て、母はオーストラリアへ。父親は別の女性と再婚し、女の子を2人なしている。10代の頃から麻薬に手を染め、親に見放され、孤独な日々を送る。遂にヘロインに手を出しては病院に担ぎ込まれ、福祉担当のヴァルからは、更生するには最後のチャンスと、今や見放される寸前だ。
ジェームズの友は愛用のギター1本きり。
ヤク中仲間の誘惑に耐え、今度こそとヴァルに誓う。
ヴァルはジェームズに部屋を用意。
水が飲める、風呂に入れる、何より雨風がしのげることに感激するジェームズ。
ある日、そんな彼の元に1匹の茶トラの猫が迷い込む。
近所の誰かの飼い猫が迷い込んできたのだろう。
ジェームズは猫を抱いて、飼い主を探して歩く。
だが飼い主は見つからず、追い出しても、追い出しても、猫はジェームズのところに戻ってくる。
同じアパートに住むベティと猫をきっかけに口をきくようになる。
ある日猫は怪我を負って帰ってきた。
ベティに福祉の獣医を教えてもらい、ジェームズは猫を連れて動物病院へ。
そこには大型犬に小型犬、ウサギなど様々な動物たちがいて、飼い主たちは皆、高い診療費を払えないが、動物を見殺しにはできず、こうして診療費無料の福祉病院へ彼らを連れてきているのだ。
いつしか猫はボブという名に反応し、そのまま名前はボブになった。
気が遠くなるほど長い時間待たされ、漸くボブの番が回ってきた。
ボブを治すには抗生剤が欠かせないが、薬代はタダにはならないという。
ジェームズは悩んだ挙句、自らの乏しい生活費の全てをボブの薬代に充てた。
ボブは不思議とジェームズによくなつき、ジェームズもボブに親友として向き合った。
ジェームズは路上演奏で生活費を稼がねばならない。
同じロンドンに住む父親と道でばったり出会ったことがあったが、今の妻はジェームズのことを毛嫌いし、息子に僅かばかりのカネをそっと手渡すのが精一杯。そのお金も底をついた。
街へ出るためにバス停に並ぶジェームズ。
ボブは彼を慕い、ついてくる。
ジェームズはボブに危ないから戻るよう語りかけ、ボブは辺りの草むらに戻って行った。
2階バスに乗り込むジェームズ。
その時、ボブが走ってきて、バスのステップに駆け込んだ。
思わぬ珍客に、乗客たちは口笛を吹いて歓待する。
やがてボブは2階席へ階段を上り、ジェームズを見つけると、その膝に飛び乗った。
ボブの登場に驚きながらも、ジェームズはボブにロンドンの街を案内するように語りかける。
やがて女車掌に見つかるが、ボブの愛らしさ、大人しさに、車掌もボブの乗車を咎めようとはしなかった。
ジェームズは路上演奏で自作の歌の弾き語りを披露する。
ボブがその首筋に襟巻のようにじっと巻きついている。
その可愛らしさに聴衆たちは引き寄せられ、投げ銭も普段より遥かに多くの額が集まった。
ボブはジェームズにとって幸福を招く存在となった。
路上演奏に磨きがかかり、毎回演奏を聴きにきてくれる老婦人も現れた。
彼女はボブに小さなマフラーを編んで、プレゼントしてくれた。
ベティとの仲も順調で、ガールフレンドとなり、行き来するようになった。
ところがある日、路上演奏で犬を連れた男がジェームズに非礼な振る舞いをし、聴衆たちが男と一悶着起こすこととなった。
ジェームズは手を出してはいないと警察に認めてはもらえたが、路上演奏は禁止されてしまい、ジェームズは生活費を稼ぐことが出来なくなってしまった。
更に悪いことは重なる。
薬局でヘロイン中毒から抜け出るために、弱い麻薬を日に3度処方される姿を、ベティに見られてしまった。
自分を騙していたのね、と激しく拒絶するベティ。
暫くジェームズに心を閉ざしたベティだったが、彼は今、更生に取り組んでいる最中であると、閉ざされたベティの部屋の扉越しに静かに語り、やがてベティはジェームズに自分の身の上を語り始めた。
彼女は、兄を薬物中毒で失い、心に傷を負っていた。
今、彼女の住んでいる部屋も、元々兄が住んでいた部屋だったという。
ジェームズは「ビッグイシュー」を売って、生活費を稼ぐことにした。
勿論ボブも一緒だ。
猫を連れたビッグイシュー売りは話題となり、ボブと記念写真を撮らせてほしいという人や、猫を連れた人から雑誌を買いたいという人々まで現れた。
ビッグイシュー売りは、互いの縄張りを侵してはならない。
目立つジェームズは、またしても妬みを買うようになり、他のビッグイシュー売りから縄張り荒らしと訴えられ、1ヶ月の謹慎処分を受けることになる。
またしてもジェームズは日々の食費を心配する生活に逆戻りを強いられることになってしまった。
心配するベティを宥めつつ、警官の目を盗んでは路上演奏で日銭を稼ぐジェームズ。
クリスマスの日、ジェームズは父親宅を突然訪ねる。
ボブを伴い、何とか自活し、ヘロインもやめている。
頑張っている姿を認めてもらおうと、酒壜を手に父と祝杯をあげようと思って来たのだ。
ところが、年の離れた腹違いの妹たちは、突然の“兄”の出現に驚き、上の娘は母親から聞かされているのか、兄のことを“ジャンキー”と蔑んだ。
妹たちは猫アレルギーのためボブを追っ払おうとし、脅えたボブは逃げ回り、クリスマスの飾りを滅茶苦茶にしてしまう。
情けない思いでジェームズは退散するしかなかった。
傷ついたジェームズの心を癒してくれるのはベティの優しさであった。互いにクリスマスプレゼントを贈りあい、細やかなお祝いをする2人。
やがてビッグイシュー販売禁止処分も解け、再び街で雑誌を売るようになった。
相変わらず猫を連れた雑誌売りは人々の人気を一身に集めたが、ジェームズは奢ることなく、前に諍いを起こした別のビッグイシュー売りからも雑誌を買ってくれるよう呼びかける。
そんなある日、ジェームズの元に綱を振りほどいた犬が襲い掛かった。弾みでボブがジェームズの肩から街へ逃げ去り、そのまま行方知れずとなってしまった。
懸命に街中をあちこち探し回るジェームズにベティ。
諦めて部屋に戻るジェームズ。
その心はぽっかりと穴を空けてしまったようだ。
ボブがいなくなり、何もする気力が湧かない。
部屋にじっとひきこもり、思い詰めた表情のジェームズ。
部屋の窓の外の路上では、麻薬の売人たちが闇取引をしている。
ジェームズは部屋を出て彼らのもとへ近付いた。
売人たちはジェームズに、天国へ連れて行ってくれるブツなら沢山あるぜと声を掛ける。
思わずヘロインに手を出しそうになるジェームズだったが、グッと堪え、猫の行方を尋ね、彼らの前から立ち去った。
ボブは戻ってこない。
激しい絶望感に苛まれるジェームズ。
生きる気力を失っても、日はまた明ける。
ある朝、ジェームズがのっそりと起き上がると、そこにはボブがいた。
初めてボブが部屋に迷い込んできた時そのままに、何でもない様子でボブは再び彼の部屋に帰ってきたのだ。
ジェームズは一大決心をする。
日に3度、処方を受けている弱い麻薬をも、完全に絶つことにしたのだ。
ヴァルにその決意を打ち明け、ベティにも麻薬断ちのため、暫く会えなくなると告げる。
そしてジェームズの苦しい日々が始まった。
激しい禁断症状にのた打ち回り、もがき苦しむジェームズ。
その傍で、ボブがじっと様子を伺い、ジェームズを見守っている。
何もせず、ただジェームズの傍にいて、見守っている。
そして遂にジェームズは勝った。
ヴァルは我が事のように喜んでくれた。
麻薬と完全に袂を分かったジェームズは、再び父を訪ねた。
父親は家の前で息子と相対する。
父親は財布の中から、ジェームズの子供の頃の写真を取り出して見せ、「息子を忘れたことはない」と告げた。
飛行機恐怖症のため、ロンドンを不本意ながら離れることはできない。
そう言い続けてきたが、それは嘘だ。
そうも告げた。
家の奥から、妻が「何してるの?」と声を荒らげる。
父は自信に満ちた声で、「今、息子と会っているんだ」と答えた。
猫を連れたビッグイシュー売りとして、新聞がジェームズを取材に来たことがあった。
その記事を見たとある出版社が、ジェームズに、その経験を本にしてみないかと誘いかけた。
戸惑いながらも手記を書き始めるジェームズ。
ある日ベティが部屋を出て行くという。
ジェームズとお別れになってしまうが、悲しい別れではない。
兄のことを克服し、人生を踏み出そうとする、前向きな引っ越しである。
ジェームズは彼女の旅立ちを心より祝福し、互いに再会を誓った。
遂にジェームズの手記が本になった。
サイン会が開かれることとなった。
出版社の担当者に導かれ、会場入りするジェームズ。
そこには彼のサインを求める読者たちが待っている。
その中に、ベティの姿があった。
再会を喜ぶ2人。
そしてあの最初の路上演奏の時、ジェームズに声を掛け、ボブにマフラーをプレゼントしてくれた老婦人の姿も。
父親の姿も。そして今ではジェームズのことを認めた父の再婚相手も。
人々に挨拶するジェームズ。
勿論、その肩にはいつものようにボブが襟巻のように乗っかっている。
ジェームズはボブを親友だと紹介し、これから先も永遠に親友だと、目を輝かせて言った。
そしてナレーションが入る。
ジェームズはその後、路上演奏で日銭を稼ぐ生活から抜け出したこと、部屋を出て家を構えられるようになったこと、本がベストセラーになり、思いがけない収入を得たが、現在、麻薬中毒患者の更生のために尽力していることなどが語られる。
そしてジェームズ本人とボブの、“本物の”姿がフィルムに映し出された。
そう、この話は実話である。
エンディングが流れる。
「Don't give up!(諦めるな)」
何度も何度も、優しく語りかけるような口調で、ジェームズの声が響く。
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今の“猫ブーム”に乗っかったわけではなく、昔から猫好きの猫贔屓だから、これは致し方ないのだが、映画館の暗闇で、何度も相好を崩し、だらしない顔つきになっているのが自分でわかる。
茶トラのボブが、いつもジェームズに寄り添い、じーっと見ている。
犬みたいに必死に愛情表現するではなしに。
ボブはジェームズの足元にすりすりしたり、猫じゃらしで遊んでもらったりしない。
「ぐるっ」と喉を鳴らすくらいしか、ボブのジェームズへの愛情表現は見られないが、それで十分なのだ。
ジェームズもボブのことを“猫ちゃん”ではなく、最初から対等に扱っているように見える。同じ“宿なし”の境遇にあった者同士、共感を示す。
部屋の窓の隙間から入り込み、ジェームズの貴重なシリアルをむしゃむしゃ卓上に乗って貪り食っているところを見つける。
最初はどこかの部屋の飼い猫だと思い、ボブを抱っこして、あちこちの部屋を訪ねて回るが、飼い主はどこにも見つからない。
とうとうジェームズはボブと共に暮らし始めることにする。
飼うというより、一緒に暮らすというほうが合っている気がする。
本作を見ていてものすごく感じたのは、外国人が猫に寛容だということである。
ジェームズが街へ出るために、ボブに「付いてきちゃダメだ」と言い、一旦は草むらへと帰って行ったのに、ジェームズを追って動き出したロンドンバスのデッキに飛び乗る場面がある。
懸命にジェームズを探すボブ。
乗客たちは思わぬ闖入者に歓迎の意を表し、指笛さえ吹く。
まるでヒーロー扱いだ。
螺旋階段を上り、漸く2階席の先頭にジェームズの姿を見つけ、膝に飛び乗る。
ジェームズは驚くが、トラファルガー広場のライオン像や、ビルの群れを指さしては、ボブにあれこれ語りかける。
おばさんの車掌に見つかるが、彼女も最後はボブを認め、下ろせなどとは言わない。
日本だと、汚いから、引っ掻いたり、嚙みついたりして怪我させられるかもしれないから、などとすぐクレームが出て、ジェームズはボブを連れてバスを降りる羽目になることだろう。
ひと頃、抗菌グッズが矢鱈と流行ったことがあった。
そういう向きには野良猫なんて不潔以外の何物でもない。
自分も動物で、生きている以上、決して無菌状態でいることなどあり得ないのだということを忘れてしまっている。人間がどれだけ清潔だというのだろうか。
NHKBSの岩合氏の番組を見ていると、台湾の漢方薬屋で、野良猫がいつしか居つき、看板猫として店番をしている様子が描かれていた。
イタリアかどこかのカフェの屋外テーブル席で、寄ってきた野良猫に、食事中の客が、自分の食べ物を手に取って、足元でやっていた。
自分にも経験がある。
随分昔、ギリシャの小さな島に降り立った時のこと。
船着き場の様子を見ていると、小さな漁船がやってきた。
するとどこから湧いてきたのかと思うほど沢山の猫たちが、大きいのも小さいのも、中には目やにで碌に見えていないのではないかと思われる猫や、毛並みが悪く栄養失調気味の猫もいた、それらの猫たちが一斉に船に駆け寄っていく。
漁師は俗に“外道”と呼ばれる売り物にならない魚を次々と猫たちに放り投げてやる。猫が群がる。
日本だとまず考えられない。
野良猫に餌をやろうものなら、居つくから駄目だとクレームがつく。はなから厄介者扱い。自分の視界から消えろといわんばかりである。
そういう外国人の、猫に寛容な態度を目にするにつけ、我が国のせせこましい料簡の狭さがとても恥ずかしく思える。
恐らく我が国では、ジェームズは浮浪者扱い。ボブは「シッシッ」と追い払われ、共に野垂れ死にしてお終い。そんなところだろう。
この物語は実話であると上で述べた。
実話と知るや、少なくともボブは英雄扱いされ、持て囃される。
ところが有名になる前の、単なる野良猫のボブは「シッシッ」と追っ払われる。
それが今の日本と言う国だ。
あんまりこんなことばかり書いていると、情けなくなる一方なので、この辺にしておくとして、ジェームズの肩に襟巻のように巻きつき、街中で不特定の聴衆が集まる中でも落ち着いていられるボブは、本作においてさぞかし人慣れしたタレント猫が演じているのだろうと思っていたが、この映画に出てくるボブは、その大半が本物のボブがそのまま出ているそうだ。
よくパニックに陥って逃げ出さないな…と感心する。
野良猫はそう簡単に人間の肩や膝に乗ってはこない。抱っこもされない。
それがどういうわけかボブはジェームズに対し、最初から随分と好意的だ。
ジェームズにどこか親しみを覚える何かを感じたのだろう。
実際、ジェームズは腹違いの幼い妹からも“ジャンキー”とバカにされ、薬物中毒に溺れ、命さえ落としかねない境遇だが、彼を支えるヴァルがいる。
ヴァルに部屋をあてがってもらった後、アパートではベティというガールフレンドもでき、話し相手も出来る。
父親も同じロンドンにおり、ジェームズとばったり会うと、今の妻に気兼ねして、随分きまり悪そうな冷たい素振りを見せるが、言葉は交わすし、息子に少ないながらもお金を持たせている。最後には決して息子を見捨ててはいなかったのだ、陰ながら見守り、心の中で声援を送っていたのだということさえ判る。
実社会の上で、ジェームズ以上に悲惨で救いようのない境遇にある人は山ほどいることだろう。
ジェームズはまだ少なくとも交流する人には恵まれているのかもしれない。
彼の素直で親しみやすい人柄、人を憎んだり恨んだり妬んだり決してせず、何とか自力で生きて行こうとする姿勢が、彼の理解者を生み出していった気もする。
動物は信じられる人間を、独自の嗅覚で逸早く見抜く。
上辺だけ猫撫で声をかけても、嫌なことをする人間には、決して気を許したりはしない。ボブはジェームズを選んだのだと言うこともできるだろう。
自分だって今日の食費を心配せねばならない境遇なのに、怪我を負って帰ってきたボブを、放り出さず、何時間も待って病院で手当てを受けさせ、自分の食費を削って、ひもじい思いをしながらも、ボブのために薬代を払う。
この物語は、「猫の恩返し」とか、福猫が舞い込んだ話とか、そのように捉えられがちだが、ジェームズの人間の誠実さ、ひたむきさが招いたのだと思える。
「ヨシッ、ボブ!ハイタッチだ!」
ジェームズの掛け声と共に、しゅたっと片手をジェームズの指にタッチするボブの可愛らしいこと。
本作は『英国王のスピーチ』制作陣が携わったということである。
個人的には『英国王のスピーチ』には大して感興を覚えはしなかったのだが、本作には大いに心動かされた。
「諦めるな、諦めるな…」
エンディングで何度も響いた、実際のジェームズの優しい歌声に、劇場を後にしながら、もうちょっとこれまでよりも、小さいもの、弱いものに優しく、寛容な気持ちになろう。そう思った。
心が折れそうになっている人、この世から消え去りたいと思っている人、どん底に落ち込み、救いようがない状態だと自らのことを思っている人…もしかしたら、少しは希望の光が一筋ばかり見えてくるかもしれない。
そんな物語である。
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『ボブという名の猫』
(2016 英)
監督:ロジャー・スポティスウッド
主な出演:
ルーク・トレッダウェイ(ジェームズ)
ルタ・ゲドミンタス(ベティ)
ジョアンヌ・フロガット(ヴァル)
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