早や2週間が経ってしまったが、今年のフランス映画祭は6/24(土)と25(日)の両方に参戦。
かつては日本公開未定作品だらけだったが、今や大半が、数ヶ月待てば劇場で観られるものばかりとなり、“トークショー付先行有料試写会”の様相と化している。
あまり無理せず、気になる作品を選んで観に行くことにする。
気に入ったものは劇場公開されてからも行くが、例えば昨年このイベントで観た『モン・ロワ』は、この春に有楽町でやっていたが、身勝手なモジャモジャ野郎が女を振り回すだけにしか思えず、“『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』から30年”などという惹き文句が、寧ろ「片腹痛い!」と思わせ、一気にリピートする気が失せた。
さて、今年は唯一公開未定の『パリは今夜も開演中』を先ず観に行こうと決める。これはレイトショーである。24日朝からずっとフランス映画漬けにしてもよかったが、この日初回の『セザンヌと過ごした時間』は、画家と作家の交流を描いた、如何にも嘗ての文化村ル・シネマが好みそうな芸術家を題材とした作品で、有楽町朝日ホールの狭い椅子で、続けて観るには絶対居眠るという“自信”があった。それで、パス。実際、9月にル・シネマで公開されるようだから、そちらで落ち着いて観るとしよう。
日曜日の作品をどうしようか迷ったが、『ポリーナ 愛を踊る』の主役のバレリーナのスラブ系女子は、整った顔立ちの美形で、下世話な理由だが、美女に魅かれて、これは観たい。
アラン・ドロンの旧作『チェイサー』は、強いてここで観なくても…という気がする。レイトショーの『Raw』は、カニバリズムがテーマのグロい内容のようなので、未練はない。
『ポリーナ』だけのために日曜日を使うのは勿体ない気がしたので、この日は早起きして『エタニティ』も観ることにする。
そんなわけで、今回は次の5作の前売りを調達した。
『愛を綴る女』 (2016 仏=ベルギー)
『夜明けの祈り』 (2016 仏=ポーランド)
『パリは今夜も開演中』 (2016 仏)
『エタニティ 永遠の花たちへ』 (2016 仏=ベルギー)
『ポリーナ 愛を踊る』 (2016 仏)
思いがけず土曜が昼まで空いたので、鉄道雑誌のための恒例神保町詣を強行。その後、有楽町へなだれこむことにした。結構歩き詰めて足に来たけど、大丈夫かな?!
最初は『愛を綴る女』 (2016 仏=ベルギー)。
客席は狭いし、飲食禁止である。逆にロビーの椅子は不必要なほどゆったりゴージャス仕様なので、開場後も可能な限りここへ居座り、上映が始まる5分前に席に向かった。
すると、寸前に体調不良で来日取りやめと載っていたニコール・ガルシア監督の代役として、この人も確か映画監督と言っていたような気がしたが、薬缶頭のおっちゃんが上映に先立ち壇上で挨拶していた。

“来られなくなったニコール・ガルシア監督に、皆さんの様子を写真に撮ってきてくれと頼まれたんです!”と、おっちゃん、クルリと後ろを向き、スマートフォンを掲げてすかさず自撮り。なかなかお茶目な人であった。
なごむ会場。本編が始まる。
主演は『TAXi』のヒロイン役で一躍有名女優の仲間入りを果たしたマリオン・コティヤール。
冒頭、夫婦と息子が車で田舎道を走り抜け、やがて街へとやって来る。
ふと通りの名を目にした妻は、突然車を停めてほしいと言い、後で合流すると言い残し、車から降りて単身街中へ消えていった。
ここから時間が逆戻りする。
南仏の小さな村に暮らすガブリエルは、愛ある結婚を夢見ながらも、現実はうまく行かず、親の決めた正直で働き者というのが取り柄のスペイン人労働者と結婚。愛のない結婚生活を始める。
やがてガブリエルの腎臓結石が判明。彼女はアルプスの療養所へ転地。
そこでインドシナ戦争で負傷した帰還兵アンドレと巡り会う。
激しく惹かれあい、ガブリエルは“これぞ真実の愛”とばかりに溺れてゆく。
というのが大筋。
アンドレはやがて退院していき、彼女も療養所を出て、家に戻る。
軍に戻ったアンドレへ、何通も何通も熱烈な愛の手紙を綴っては送るガブリエル。夫のことは眼中になく、アンドレからの返事を心待ちにする日々。だが愛する人からの返信はなく…。
最後、アンドレがとうに亡くなっていたことを知らされ、絶望して入水自殺を図ろうとするが、そんな妻を抱き留め、全てを受け容れ、生きてくれと叫ぶ夫。
…うーん、なかなかあそこまで辛抱強く、自分以外の男にずっと秋波を送っている妻のことを許し、認め、それでも愛していると言えるほど、人間が出来た男はいないなぁ…。自分には無理だ。妻を女王様のように一方的に崇め奉っている関係ならともかく、対等な夫婦関係でこれはきつい。
物語は妻側の視点で終始進むので、ガブリエルのことを何があっても受け入れる「男の包容力」素晴らしい!感動した!という流れになるのだろうが、裏を返せば随分と身勝手で不誠実な女に振り回され、耐え続けた男は気の毒だということになる。
山岸凉子作品あたりなら、最後、夫にも子供にも見捨てられ、全てを無くして呆然とし、途方に暮れるか、もっと酷いしっぺ返しがヒロインに来ることになるだろう。
現実には、ガブリエルのように行動を起こせず、或いは敢えて起こさず、秘めたる想いをひっそりと胸にしまったまま、人生を過ごすことが女性、男性問わず大勢で、そういう思いを美しく代弁してくれるからこそ、本作が感動を呼び、受け入れられるのだとは思うけれど。
実際に行動に移してしまうと、何かとしこりが起こるのが現実だから。
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長い間隔が開き、多くの観客が下の階へ降りて行く。
入れ替え制の会場ロビーに僅かに据えられたフカフカのソファー争奪戦に勝ち残り、暫し惰眠を貪る。
お次は『夜明けの祈り』 (2016 仏=ポーランド)。
第2次大戦終戦直後のポーランドが舞台。赤十字の施設で負傷兵の治療にあたる若きフランス人医師マチルド(ルゥ・ドゥ・ラージュ)。
そこへ見知らぬシスターが助けを求めてやって来る。一度は管轄外と断ったマチルドだが、凍てつく寒空の下、いつまでもひたむきに神への祈りを捧げ続けるシスターの姿に心打たれ、遠く離れた修道院へ出向く。
そこで彼女が目にしたものは、ソ連兵の蛮行によって身籠り、身重の体になった幾人もの修道女たちの姿。孤立無援の中、神への信仰と、やがて生まれてくる生命という現実の間で苦悩し、なすすべもなく祈るのみ。
マチルドは生命を救うという使命感から、激務の合間を縫って修道院に通い、修道女たちの唯一の支えとなっていく。
この話は実話だという。
時には自らもソ連兵に暴行されそうにさえなりながら、それでも危険を省みず、無償の人道支援に走るヒロインの行動は、崇高以外の何物でもない。
何かというとすぐ“感動”と宣伝したがる作品群に、正直なところ随分違和感を覚え、食傷気味になっていたが、本作は素直に感動できる作品である。
それもうわっと「感動した!」という体のものではなく、しみじみとした感動をじわっと感じることができた。
終映後、トークショーがあった。
アンヌ・フォンテーヌ監督と、主演のルー・ドゥ・ラージュさんが登壇。
アンヌ・フォンテーヌ監督といえば、2年前のフランス映画祭で、『ボヴァリー夫人とパン屋』で楽しませてくれた監督である。その時も来日した。
愛すべき勘違い野郎のパン屋役・ファブリス・ルキーニを主人公に、文学的香気と仄かに立ちのぼるエロティシズム。そして最後は何故かボルシチの香りがプンプン漂う仰々しきエンディング。
あの楽しい話とは打って変わった、しみじみとしたヒューマニズム溢れる今作。
更に前には、『美しき絵の崩壊』、『ココ・アヴァン・シャネル』、『恍惚』、『おとぼけオーギュスタン』と、この監督の作品世界はなかなか広い。
主演のルー・ドゥ・ラージュは、こうして見ると随分若い。
フランス人女優らしく、表情がとても豊かで、笑顔がとてもチャーミング。それが本作中では、ああした崇高な使命感をもった女医になるのだから、今更ながら役者というのは大したものだと思う。
後日、本作がエールフランス観客賞に選ばれたと知ったが、納得の結果である。劇場公開されたら、また観に行こうと思う。
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会場変わり、TOHOシネマズ日劇へ。
それまで会場だった有楽町朝日ホールは夜9時で締め出されてしまった。
お次は『パリは今夜も開演中』 (2016 仏)。
上映前に監督兼主演のエドゥアール・ベール氏を招いてのトークショー。
ベール氏、とっても人懐こいお茶目な人で、壇上の席から立ち上がり、「やっぱり挨拶するなら立って挨拶しなければいけませんよね!」と会場のあちこちに向かってペコリ。ペコリ。
「今回来た作品の中で、この作品だけがまだ日本での配給が決まっていないんですよねー。皆さん、どうぞよろしく!」
と最後もペコリ。退場する時も、出口から場内へ向かって熱烈ラブコールに投げキッスはしてたかな…?
物語は、パリの劇場支配人が主人公。何故か“ダザイ”という名の日本人演出家を迎えた舞台初日を前に、資金調達と、舞台に出るチンパンジーを求め、助手の若い女性を伴い、夜の街に繰り出すが、そこで予期せぬ出来事が次々と彼を襲い…という話。
…うーむ…監督はとても面白い人なんだけれどね…。
話がガチャガチャして、何だか訳が分からぬ内に終わっちまったという印象。
途中で折角確保したチンパンジーが、ちょっと目を離した隙に外へ飛び出し、直接は描かれないが、車にはねられ、あえなくお陀仏。
いつの間にやら代わりのチンパンジーが出てくるが、幾らパリでも、そんなに都合よくチンパンジーがそう何匹もいるか?
こういうガチャガチャしたコメディーは、日本では、フランスのイメージではなく、アメリカの専売特許という感じだ。どうも一般的に、フランス映画=エスプリorアートという固定観念が定着しすぎているから、本作の日本公開が決まらないというのも何となく納得がいく。
この日、映画が終わったのが夜11時20分頃。
翌朝10時過ぎにはまた有楽町へ来なければならない。
途中で、新橋か上野辺りのカプセルホテルに泊まろうかという思いが頭をもたげ、何度も予約サイトへ行ってみたが、結局カネを惜しんで帰宅することにした。
終電1本前の電車で、座れたのは奇跡的だが、寝過ごしたら戻って来られないという恐怖心と緊張のせいで、疲れ果てているのに居眠りきれない。
結局、寝たのは2時になってしまった。果たして次の2本を、眠りこけることなく無事観ることができるのか?
飲み過ぎるとカフェイン中毒で死ぬよと最近脅される、栄養ドリンクをまたしても何本か携えて行かねばなるまい。
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翌日、再び有楽町へと向かう。
流石に朝、寝過ごすことはなかったが、寝不足なのは否めない。
この日、1本目は『エタニティ 永遠の花たちへ』 (2016 仏=ベルギー)。
“19世紀末のフランスを舞台に、一組の夫婦からはじまり、3世代の女性たちが出会い、愛し合い、別れを経験しながら大家族となる姿を、100年にわたって描き出す”
という紹介文を読んだだけでは、一体どんな物語なのか皆目見当がつかなかった。
平たく言うと、昔のお金持ちの旧家の女性を視点の中心に据え、優しい夫を得、彼に優しく見守られ、ゆったりとした時を過ごしながら、やがて子宝に恵まれ、更にその子供たちが伴侶を得、更に次の世代が新たな家族をもち、また子を得…という様子が、殆ど台詞らしい台詞もないまま、優雅なピアノの音色に乗せてゆったりと描かれていく。
…寝不足の身には、残念ながら子守唄にしかならなかった。始まる前にしっかり栄養剤を飲んだにもかかわらず、物語序盤を過ぎた頃から半ば過ぎまでの記憶が全くない。
印象残っているのは、全編通してゆったりと流れるドビュッシーの「月の光」の音色のみである。
ゆったりとした時の流れの中、自分を優しく見守り、献身的な愛を捧げてくれる優しい夫の姿。そして愛の結晶たる子供たちの存在。
心穏やかな気分にしてくれて、癒されるのかもしれないが、台詞が殆どなく、子子孫孫へと命が受け継がれていくさまを、映像だけで延々と描かれるのは、私にはしんどかった。
秋に劇場公開されることが決まっているようだが、再び行っても確実にまた居眠りこけてしまう。
終映後のトークショーでは、トラン・アン・ユン監督が登壇。
美と永遠という深遠なテーマから、観客自身が物語を紡ぐ助けを音楽に担ってもらう。俳優の表情から人生や人間性を感じられることを重視した。
そのような話。
繰り返すが、美しく、ゆったりとした時の流れを感じさせてはくれるんですけどね…。個人的には襲い来る睡魔との闘いがなぁ…。
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今回の掉尾を飾ったのは、『ポリーナ 愛を踊る』 (2016 仏)。
物語の展開が明快で、話としては一番面白く感じられた。
物語の最初の舞台は、ロシアの普通の家庭。ボリショイ・バレエ団のバレリーナを目指し、ポリーナは小さい頃からバレエの厳しいレッスンに通っている。
厳しいボジンスキー先生の指導の下、有望株へと成長を遂げる。
ボリショイ・バレエ団への入団を目前にして、ポリーナはコンテンポラリーダンスと出会う。
クラシック・バレエのバレリーナという約束された将来を蹴って、ポリーナはパートナーと共に渡仏。南仏のコンテンポラリーダンスカンパニーへ。
そこで女性指導者と出会い、その指導の下、新たな舞踊を目指す。
ところが気持ちが前に出過ぎたせいで、ポリーナは練習中に足を怪我し、やがて女性指導者とも意見が合わず、パートナーの前から姿を消す。
住む家も仕事もなくした彼女は、ナイトクラブの女給の口を漸く見つけ、偶々ルームメイトを探していた青年と出会い、新たなダンスの世界を知る。
彼はポリーナの才能を認め、新たな創作ダンスの道を共に求め始める。
映画終盤は、ルームメイトの青年とポリーナが、自分たちの創作ダンスを10分でいいから見てくれと、大物演出家(?)に頼み込み、その場で踊りを披露するというもの。映像は雪原を背景に、独創的な踊りを展開する彼らの世界へと移行する。
ポリーナのレッスン費用を作るため、危ない商売にまで手を染め、又、ポリーナ出奔後、フランスにまで娘を探しにやって来る、ポリーナの父親が、物語終盤で静かに息を引き取る。
その報を母親から受けたポリーナは、久しく戻っていなかった我が家を訪れる。故郷で恩師・ボジンスキーのもとを訪ねると、厳格だった恩師は年老いた姿で、今のポリーナを認め、微笑みかけるさまが描かれる。
その足で再びとんぼ返りし、創作ダンスを見て下さい、10分でいいですから…という終盤の流れにつながるわけだ。
終映後のトークショーでは、ヴァレリー・ミュラー監督と、アンジュラン・プレルジョカージュ監督の両名が登壇。アンジュラン・プレルジョカージュ監督は、バレエダンサーであり、コンテンポラリーダンスの振付家としても世界的に活躍している人らしい。
トークショーの質疑応答コーナーで、ポリーナがこの先、現代舞踊の振付家として大成功を収めるだろうと、普通に考えれば読めるが、物語終盤で恩師・ボジンスキーと再会したのは、ポリーナは古典舞踊の世界を飛び出してしまったけれど、やっぱりポリーナの行きつくべき世界は、元のクラシック・バレエの世界なんだよ、という暗示ではないのか?
という質問に、アンジュラン・プレルジョカージュ監督も通訳女史も、それまでの真面目な顔を綻ばせ、すっかりいいお顔。
プレルジョカージュ監督、師弟の強いつながりを描いていると説明。
その前に出た質問は、ポリーナが小さい頃、父親と狩りに出た時、トナカイの幻を見た場面について。
ポリーナには“大物”のトナカイが見えているのに、父親はそれには目もくれず、“小物”の兎を仕留めることに精出している。確か、ポリーナが大きな夢を掴んで大成することの暗示だったのか?というようなことを尋ねていたと思ったが…。
ミュラー監督は、子供の自由な心や想像の世界を象徴するものだと答え、プレルジョカージュ監督は、マルセル・デュシャンの「芸術は観る人が完成させるもの」という言葉を紹介しながら、「トナカイは自分の恩師の象徴という見方もできる」と付け加えた。
クラシック=既成の権威主義の象徴のように描かれることが多く、例えばピアノならクラシックピアノに対するジャズピアノの関係が、本作のクラシック・バレエとコンテンポラリーダンスの関係に対応するように思える。
多様な分野の融合が、現代芸術の大きな源となっているようにも思える。
和菓子の世界では、限りなく洋菓子に近い形の菓子を、和菓子の素材で作ったようなものが、斬新と持て囃される。
既成概念の殻を破った斬新な世界がより目立つのは事実だ。
兎角、新しいものを求める中で、既成の枠組みを崩壊させ、再構築することばかりが善であると短絡してしまいがちになるが、本作においても、ポリーナがあれだけ踊れるのは、やはり何といってもボリショイ・バレエ団に入るところまで行ったほどクラシック・バレエの基礎ができていたからである。
芸術の世界において、「現代」何ちゃらいうジャンルは、古典的な世界に対し、時に挑発的な反動を唱え、全否定しているように見えるが、その大元のベースに古典の存在を完全に無視することはできないと考えている。
逆に、古典の存在を全く無視した「現代」何ちゃらは、下手をすれば作り手の単なる自己満足に終わってしまい、一言でいうと、美しくない。
本作でも、クラシック・バレエの世界を、「乗り越えるべきもの」、「否定すべきもの」とは決して捉えていない。
終盤にボジンスキーとの再会が描かれるのは、古典との共存の象徴ではないだろうか。
偶々ポリーナは、ボリショイ・バレエ団員の座を捨て去ったが、その世界に身を投じ、その道で大成した人物が必ずいることだろう。
ポリーナとどっちが偉い?などという議論は成り立ち得ず、大枠では同じジャンルだが、細部は異なるそれぞれの世界が並立し、時代の変遷と共に、そうした世界が多様化、細分化してきているだけの話だと思えるのである。
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今回は、なかなか多様な作品が揃い、楽しめたと思う。
フランス映画祭では観ることはできなかったが、他にも、オープニング作品にして団長・カトリーヌ・ドヌーヴ出演の『The Midwife(邦題:ルージュの手紙となったらしい)』、イザベル・ユペール主演『エル』、臓器移植をテーマにした『あさがくるまえに』、芸術家が主題だがジャック・ドワイヨン監督作ということで、何らかの“捻り”が期待できる『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』…等々、面白そうな作品が目白押しだ。
いずれも劇場公開がこの夏から来年にかけて予定されているが、劇場は色々なので、油断するとチェックしそびれてしまいそうである。
忘れないようにしなければ。
あまりにハードな梯子を余儀なくされ、居眠り必至になりそうならば、今度こそ場合によってはカプセルホテル泊も辞さないつもりで。
但し、家の目覚ましを全部止めて来ないといけないけれど。









