8月8日(月)

 

日本橋―(淡路)―南方/西中島南方―新大阪

 

新大阪―西中島南方/南方―(梅田)―神戸三宮

 

神戸三宮―岡本/岡本―(西宮北口)―宝塚

 

宝塚―(西宮北口)―(今津)―御影

 

御影―梅田―新大阪

 

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前回の続き。今回は“鉄分”99%位になる。

上りホームへ移動したら、山陽電車の三宮止りがやってきた。

昔は山陽の乗入車なぞ、珍しくも何ともなかったが、今や昼間は普通車が30分おきに来るだけとなってしまった。それにこの3000系列(厳密には写真に写っているのは「3050系」という新製時から冷房を乗せた形式である)も、やがては新型車両に置き換わってしまうことだろう。

機会があればカメラに収めることにした。

阪急も阪神も、駅名が「三宮」に「神戸」がつくようになり、表示幕も新しいものに取り換えられた。

LEDが当たり前になりつつある今、かつてサボや行先方向板を絶滅に追いやった表示幕が、今度は絶滅への道を辿りつつある。

 

前に記したことだが、山陽電車の場合、神戸高速鉄道を介して阪急、阪神双方に乗り入れるようになると、どちらの方面に行くのかがとても重要になった。そのため阪急は緑、阪神は紺と、側面幕でははっきりと色分けがなされた。しかし、正面は共に白、今は黒地となっており、色分けはなされていない。又、地上時代の板宿駅などでは、電車の行先案内板がかつて吊り下げられていたが、小判型の窓が電球に照らされるという随分とレトロなものであった。そこでは、阪急=緑は同様だったが、阪神はピンク色だった。折角の色分けだが、統一されていたわけではなかった。

 

そういえば、かつて山陽の普通車は、新開地止りや高速神戸止りが多かった。東の京急の行先表示幕が、例えば「金沢文庫」を「文庫」と省略した表示をしていたように、山陽電車も「高速神戸」は「神戸」と略された。それも正面のみの話。側面は以前は単に「普通」としか表示されていなかった。

今、私鉄で「神戸」というと、高速神戸のことなのか阪急の三宮のことなのか、あるいは阪神の三宮のことなのか、判然としない。山陽電車の正面幕は「高速神戸」に改められたのだろうが、昔に比べ、随分と電車の本数が減ってしまったので、実際に目にしたことがない。

 

神戸高速鉄道ができる前、阪急の三宮駅は、「神戸」だった。阪急電車は長いこと、正面に行先方向板を掲げる電車が多かったが、神戸線の優等列車のものは、円板なのは他線と同じだが、神戸高速直通が始まると、独特の縦書き表記のデザインとなった。

私にはポートピア'81を機に全面改定された横書きのものよりも、縦書きの頃の方が馴染み深い。須磨の海をイメージしたといわれる水色を両側に配した、須磨浦公園行特急の円板を掲げた姿が、一番よく目にした阪急電車だった。

そんな中、朝夕ラッシュ時のみ三宮まで来ていた急行は、「三宮」ではなく「神戸三宮」と書かれた円板を掲げていた。敢えて神戸を強調していた円板の表記が奇妙に思えたものだが、それが正式な駅名に変わるとは、当時は夢にも思わなかった。

だから阪急の「神戸三宮」への駅名変更は、何だか先祖返りに思える。

 

折角だから目の前に停まった山陽電車を写しまくる。

やはり鉄骨が剥き出しの、昼間でも薄暗いドームあっての阪急三宮だと思う。

梅田方に居れば、山陽車がこの後本線上で折り返す姿が拝めるのだが、以前その姿はじっくり見たし、当blogでも写真を載せたことがあるので、今回は見送るだけにしておいた。

そうこうする内、次の折り返し普通が中線に入ってきた。“魔改造”といわれる7000系更新車である。元はこの下に掲げた特急と同じ形をしていた車両なだけに、その変貌ぶりに驚かされるばかりである。

続いて下り特急が到着。見送る。向こうから上りの特急が姿を現した。これに乗ることにする。

駆け足でホーム端に向かい、特急と普通の並んだ様子をカメラに収める。似て非なる正面デザインである。

岡本で降りる。最後尾から岡本で降りる物好きは他におらず、ホームは静かなものだ。

今や絶滅危惧種となってしまった、フラップ式案内表示器。通称“パタパタ”。

空港でもかつては必ず見ることのできたものだった。往年のTVドラマや映画で、登場人物が海外へ旅立つ場面で、必ずといっていいほど、パタパタと表示が変わる画面が挿入された。

“パタパタ”には別離を思わせる風情がある。LED表示は確かに便利だが、無音でパッと変わってしまうだけなので、風情も何も感じられない。

けったいな顔に整形されてしまった7000系電車。先ほどの神戸三宮で見た“魔改造”車の兄弟分。“魔改造”がカネがかかると踏んだのか、原型の姿を留めた改造方法に変わった。それが却って“カッコわる!”と思わす顔になってしまった。

 

岡本で寄り道したのは、近年、気に入っている安政堂菓舗に寄るためである。

枕みたいなどデカいロールカステラを東京への土産に買って帰ろうと思ったのだ。以前、阪神の御影の店に寄ったら、売り切れだったことがあり、岡本へ回ったら、山ほどあったことがあった。それで、今回は始めから岡本店へ来たのである。

ところが、期待のロールカステラは既に跡形もなかった。

気落ちする私に、人懐こい老女性店主は、他の饅頭を勧め、私は栗まんじゅうとうぐいす餅を2個ずつ買った。この店は前にも書いたと思うが、随分気前よく、何らかのおまけをつけてくれるのである。

この時も、夏みかんの和風ゼリーや栗まんじゅうを頂いた。

 

南方で喫茶店に寄った上に、梅田から阪急電車で、元々の計画では特急で先に岡本へ来る積りだったのが、思わぬ旧2200系電車との邂逅ゆえに、その普通電車に三宮まで乗り通し、おまけにご覧のように撮り鉄三昧。それが効いたといえる。

いや~それにしても、平日朝なのに、既に完売とは…。ロールカステラの隠れ人気、恐るべし。

 

阪急電車に再び乗って、西宮北口で乗り換える。

昼食をどこで摂ろうかと迷っていたが、あまり悠長なこともしていられなくなってきたので、乗換の途中で見かけた蓬莱551で豚まんを買った。

東京だと、どの催事場へ行っても、必ず長蛇の列ができているが、関西へ来ると、全く並ばずに買える。

それを知っているから、京王百貨店の駅弁大会に来ても、並ぼうとは思わない。

今津(北)線の静かなホームに降り立った。向こう側の急カーブが9号線という、神戸線と今津線の間を直角にカーブする、丁度数学の二次関数のような連絡線を眺める。

ここを通る電車に乗るのが阪急ファンの“お約束”というかお楽しみなのだ。

伝統のアルミブラインドが引き上げられた電車を眺めつつ、ベンチに腰を下ろした。

子供の頃、阪急電車に乗ると、他とは違うこの日除けを、母が“枠”と教えてくれた。

だから、鉄道知識が増えるまで、暫くの間、私は心の中でそう呼んでいた。

幾らアルミ製とはいえ、下から“枠”を持ち上げるのは、子供の力では容易なことではなかった。うっかりすると手を挟み、怪我を負うかもしれない。迂闊に触れられないものだったのだ。

阪神電車にも、ごくまれに“枠”のついた電車があった。一度か二度ばかり乗った憶えがある。阪急電車のそれとは違い、阪神電車のものはもっと縦の長さが短かった。

箱を開けると、ほかほかした湯気が立ちのぼった。

前に『孤独のグルメ』原作漫画で、新幹線車内で加熱式のシュウマイ弁当(“ジェット”と呼ばれていたか…?)を食べ、辺りに匂いが立ち込めて決まりの悪い思いをする話を読んだことがあるが、蓬莱551の肉まんもご同様であろう。

新幹線でこれを食べたことはまだないが、一度伊丹空港の待合で開けたことがあった。その時は、東京まで持って帰る積りだったのを、急に空腹を覚えて開けたので、殆ど冷めてしまっていたから、“肉まんテロ”の首謀者にならずに済んだ。

ホームから電車が静かに出て行くと、辺りは暫くの間静寂に包まれた。

やがて次の電車がやって来た。5100系という、今となっては古い車両になってしまった。そういう車両に乗る機会が少しでもあったほうが嬉しいのである。

ドアが開く寸前の、先頭車同士のつなぎ目をカメラに収めたが、後で見返してみると、小さな子がこちらを向いている。電車好きな男の子だろうか。

前にも、神戸線車内で親子連れの会話を隣で聞いていたら、「7000系が…」、「8000系が…」と懸命に父親に話している男の子がいた。それは遥か昔の私の姿そのものであった。

空いた車内の“鉄っちゃんシート”に陣取る。木目化粧板がすっかり色褪せているのが何だか痛々しい。恐らく更新されぬまま、新1000系の増備によって玉突き式にいずれは廃車になってしまうのだろう。

ホームに出て、正面をカメラに収める。

 

さあ、映画『阪急電車』と同じルートへ出発だ。

左:中間車2両廃車の上、6連化され、神戸線から転属してきた5000系。ハイパワーを持て余しているのでは?

右:門戸厄神駅。映画では一人だけ地味で仲間の誘いを断れない主婦(演:南果歩)が、他の奥様連中との付き合いのストレスで、胃の具合が悪くなり、ここで電車から1人降りていた。

新幹線と交わってすぐ先、洒落た跨線橋が目立つ駅が甲東園。

緑が徐々に増えていく。“軍ヲタ”のパンク野郎と“ゴンちゃん”が意気投合した後、土筆だったか何だったか植物採集に来たのが、この辺りの土手だったと思う。

仁川に着く。阪神競馬場がすぐ近くにあり、競馬開催の時は、ものすごく混むという。

ここで折り返す電車のために引上線があり、更に西宮北口方面は、競馬開催時、引上線隣の臨時ホームが降車専用、普段のホームは乗車専用となる。

今は、復路のみの設定のようだが、かつてはここ仁川行の臨時急行も走っていた。阪急電車好きとしては、見逃せない駅なのである。

写真中央の線路が折り返し用の引上線。宝塚行電車は、ポイントを左に曲がり、引上線脇を通り抜けていく。

左手側には池がある。弁天池というらしい。

この辺になると随分緑が増える。神戸線の御影辺りを思い出させる。

小林駅。創業者の苗字と字は同じだが、こちらは“おばやし”と読む。

ここいらで小休止。正面行先幕の番号表に目を転ずる。三宮が「神戸三宮」にちゃんと変えられている一方、「須磨浦公園」が残っているのは何故?山陽乗入れはやめてしまったのではないのか?

 

逆瀬川(さかせがわ)に着く。ちょっと他にはない味のある地名だと思う。辺りは高級住宅地。

映画では、時江さん(演:宮本信子)の若い頃、犬のエピソードの舞台ではなかったか。

先ほど西宮北口でやりすごした7000系電車とすれ違う。左手側に謎の建物。どうやら教会のようだが、随分と思い切った造形だなぁ…。

宝塚南口。駅の目の前に宝塚ホテルという名門ホテルがある。

映画では、冒頭、恋人を奪われた翔子(演:中谷美紀)が、元彼の結婚式に純白ウェディング姿で乗り込む舞台となった。

 

ここに二度ばかり泊まったことがあるが、さすが阪急電鉄グループだけあって、宝塚スカイステージが見放題であった。

初めて泊まった時、シーズンオフの平日だったせいか、サービスで広い部屋に変えてくれた上に、ボーイさんが荷物を部屋まで運んでくれた。さすがビジネスホテルとは違う!

 

その時は翌日、宝塚観劇で、素直に直接劇場へ向かっておれば寝坊できた上に、橋を渡ればすぐ劇場という至近距離だった。にもかかわらず、朝早くにチェックアウトして、西宮北口を通り越し、今津から青木へ向かい、そこから阪神電車の「区間特急」に乗って梅田へ向かい、そこから阪急で再び宝塚へ戻ってきた。

もう一度泊まった時は、宝塚駅へと向かい、始発の今津線~神戸線準急の先頭かぶりつき席に乗った。西宮北口9号線を体感するためだったが、その日は朝から雨で、おまけに一番混む先頭車だから、カメラを出すのも憚られ、碌な写真が撮れなかった。その時も、後で歌劇のために再び宝塚線で戻ってきている。

どうも宝塚ホテルに泊まると、鉄道好きの性(さが)が俄かに出てきて、折角宝塚に泊まったのが無駄になってしまう運命にあるようだ。まぁ仕方がない。どちらも朝ラッシュ時限定のレアな電車で、他所者にはハードルが高いのだから。

 

昔、友達が大阪勤務となり、池田に住んでいて、宝塚観劇ツアーに来た時、宝塚ホテルのバーに行ったことがある。神戸へ帰らねばならなかったが、幾ら鉄道好きとはいえ、阪急の、今津線上りの終電など全く感覚がなく、危うく三宮から先の電車がなくなりかけたことがあった。確か11時半頃、友達と別れ、夜中1時に漸く帰って来れた憶えがある。

 

映画では西宮北口から折り返して宝塚へ向かう時、ちょっと可愛い小学生の女の子がクラスの他の子たちから無視されているのを、中谷美紀が気付き、「綺麗な女は損するようにできているのよ」とそっと耳打ちし、慰めるという場面も、この駅だった。

後で気付いたことだが、その可愛い小学生の女の子役だった子は、NHK朝の連続テレビ小説『カーネーション』で栗山千明演じた高級料亭の娘の少女時代役の子だった。ちょっとおしゃまで高慢ちきな感じがよく出ていたと思う。

 

更にいうと、宝塚駅が高架化工事たけなわの時、宝塚南口―宝塚間が単線になった時があった。今津線電車は、宝塚行と宝塚南口行が交互に運転された。誤乗防止のため、宝塚南口行は特別仕様の紺色地の字幕が用意された。

東急大井町線がかつて二子玉川止りだった頃、渋谷方面への接続に便利なホームに停まるか、長津田方面への乗り換えに便利なほうに停まるかによって、表示幕の地色を緑と黒で使い分けていたのと似ている。

宝塚ホテルを運転席越しに。

駅を出て武庫川を渡るとすぐ、線路際に宝塚大劇場がある。

以前はこの急カーブの辺りに宝塚ファミリーランドがあった。歌劇の半券で入園できたので、ホワイトタイガーを見に行ったことがある。

 

そうこうする内、終点・宝塚。以前は今津線専用ホームに発着していたが、後に、昼間の運転本数が少ない時間帯は、渡り線を通って宝塚線ホームに入り、宝塚線電車と対面接続するようになり、利便性が向上した。

車両の入替ややりくりのための非常用渡り線として設けられたのだろうが、図らずもそれが役立つことになった。

電車は右側の上り線へ一度転線し、その後更に右側へと進路を移す。

向かい側ホームには、これまた5100系の宝塚線急行が入ってきた。少し前までは宝塚線急行の主役だったが、近年、9000系や新1000系が投入され、玉突き式に5100系が能勢電に譲渡されたりして、徐々に活躍の場が狭まりつつある。

主力列車に使われている内に、その姿をカメラに収めておきたい。

ホームを移動しようとしたら、側面方向幕がまだ回っているところであった。

慌ててカメラを取り出し、レンズを向ける。

思い掛けず“幕回し”を目にする機会が飛び込んできた。

最初の「通勤特急・宝塚」が最もレアだと思う。何せ、実際の営業列車には存在しなかったから。

 

阪急宝塚線の特急は、沿線に寺社が多いことから、初詣臨時特急として走り出したのが最初だが、後に春の行楽シーズンにも停車駅を変えた臨時特急が走るようになった。

長らく臨時列車にしか「特急」という種別は存在しなかったが、1995年、ラッシュ時のみとはいえ初の定期列車として特急が走り始めた。途中、十三、石橋、川西能勢口にしか停まらなかった。朝は上り、夕方は下りのみであった。

後に川西能勢口駅高架化工事が完成すると、下り特急は能勢電鉄直通の「日生エクスプレス」となり、宝塚行特急は廃止されてしまう。この時、朝上りのみに縮小された宝塚系統の特急は雲雀丘花屋敷にも追加停車するようになる。

その後2000年に大きくダイヤが変わり、日中にも初めて梅田―宝塚間の特急が走り始めた。停車駅も変わり、十三・豊中・石橋・池田・川西能勢口・山本となった。一方、従来の朝ラッシュ時の特急は、通勤特急と名を変えた。

ところがスピードアップの効果はさほどなく、沿線の利便性重視に方針転換し、モノレールとの連絡駅である蛍池、雲雀丘花屋敷にも追加停車する「快速急行」へと改められ、以後、宝塚線の「特急」は「日生エクスプレス」のみとなった。快速急行の運転開始時、それまで特急と交互に運転されていた急行も、快速急行に統合されたため、一時期、宝塚線の急行は昼間は消滅した。(2003年~)

快速急行は、途中豊中から山本まで7駅も連続停車することとなり、速達効果はますます薄れてしまった。その後、宝塚寄りで通過していた中山(現・中山観音)、売布神社、清荒神の3駅に停車する急行に改められ、元の形態に近くなった。朝上りに細々と運転されていた宝塚始発の通勤特急も廃止されてしまった。

2015年春のダイヤ改正時から、通勤特急という名の列車が、川西能勢口始発梅田行として朝ラッシュ時に復活したが、停車駅はそれまで走っていた通勤急行と変わらない。即ち、現在の急行の停車駅から蛍池を抜いたものである。

こうして見ると、「急行|梅田」の一体幕は、文字数が同じなのに、「急行」のほうが僅かに横幅が広いことに気づく。

中間の先頭車同士の連結面を。連結面の運転台は表示幕取り付けがなされていない。原形の姿が窺えるが、転落防止幌の設置、方向板の廃止ゆえ、残念ながらこの先頭車が表に出ることはないのだろう。

そのままホームを梅田、西宮北口側へ移動し、乗ってきた今津線の5100系も写す。

更にホーム端まで進む。宝塚線急行の先頭は、この形式のトップナンバー「5100」であった。

2200系が阪急で初めて列車種別幕、行先表示幕が採用された形式だが、当初、「急行」は白地に赤文字だった。6300、6000、7000の各形式が登場した後も変わらなかったが、7000系増備途中に、「急行」の字幕は、黒地に黄色文字に変わった。それからほどなくして、従来の行先方向板使用車(非表示幕車)に、表示幕取り付け改造工事が施行されるようになった。同時に標識灯・尾灯の取付位置が腰部に変更となり、両者が分けられて、写真のような顔付きになった。

その後、黒地に黄色文字の「急行」は、黒地に白文字と区別がつきにくいという声が上がり、反転させて黄色地に黒色文字に改められた。「快速急行」が阪急に登場したのはその後のことなので、黒地に黄色文字の「快速急行」の表示幕は存在しない。

最後にパンタグラフ周りのも記念撮影。

模型の資料としては、レイルロードという会社から、ものすごく詳細な本が出たから、自分でカメラに収める必要は最早ないのだが、こういうメカニカルなものを目にすると、どうしても写したくなってしまう。

さぁ昼の12時を回ってしまった。

ぼちぼち阪急電車撮影大会は終わりにして、大劇場へと向かいましょうか。

 

ここに来て、“鉄分”濃厚な記事の連投。

どうもお粗末様でした。

 

次回に続く。以上、敬称略。