前回の続き。
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再び蕗子の回想―――くるくると日傘を回しながら、陽光さんざめく表へ歩を進める少女の蕗子。
「あなたを夏の日に例えようか。いや、あなたはより愛らしく、より優しい」
静かな木立ちを歩む蕗子。やがて一本の大きな樹の下で本を広げる武彦の姿を認める。
「…荒々しい風は可憐な五月の蕾を傷つけ…」
「やあ」
振り向く武彦。
「これ?シェイクスピアの詩集ですよ。」
「シェイクスピア…?」
「そう…レポートを書かなくてはいけなくてね。」
「…読んで下さい…」
「え…?」
「わたくしに読んで下さい。その詩集の中であなたの一番好きな詩を…」
目を輝かせ、令嬢を見上げる青年。
湖。ボートを漕ぐ青年の逞しい腕。反対側で静かに佇む令嬢。深い日傘で柔らかになった陽光の下、青年の詩集に目を落とす。青年の詩の朗読の太い声が響く。
「…荒々しい風は 可憐な五月の蕾を傷つけ
輝かしい夏の時はあまりに短い
太陽は時には熱く燃え…」
急に夕立が降り出した。蕗子の手を引き、武彦は古びたボートハウスへ駆け込む。
さながら廃屋のボートハウスは、そこかしこで雨漏りが激しい。
蕗子を庇うように、その逞しい腕(かいな)で抱く武彦。
「だめだな…これじゃ外とおんなじだ」
雨の冷たさにうち震えながら、詩集を胸に抱き、
「…もう一度…」
「え…?」
「もう一度、さっきの詩を聞かせて下さい」
夕立の勢いは止み、やがて雨雲の間から薄日がさしこみ始め、武彦の朗読が再び始まる。
いや、あなたはより愛らしく より優しい
荒々しい風は 可憐な五月の蕾を傷つけ
輝かしい夏の時は あまりに短い
太陽は時には熱く燃え 時にはその顔を曇らせ
その気紛れで自然を弄び、美しいものを衰えさせる」
いつしか蕗子も一緒に朗読の歩調を合わせている。
振り向いた武彦は、いつしか朗読をやめ、蕗子が一人でその後を引き継いでいる。
「…だが あなたの夏は永遠に色褪せることなく
死神に黄泉の国に誘われることもなし
この詩によりて あなたは永遠の時に繋がれしものなれば」
詩集をそっと閉じ、青年の方を向いて目を輝かせ、
「蕗子もこの詩が大好きです」
そしてもう一度、
「大好きです」
武彦の蕗子に注ぐ瞳はとても優しい。
いつしか外は晴れ、キラキラと陽光が青年の横顔を眩しく照らしている。
「じゃあ、その詩集あげますよ。僕はもう一冊持ってるから」
場面変わって、夕闇迫るプールサイドのテラスにて。
オレンジ色に煌めく水面に、コースロープの黒いシルエットが映える。
プールサイドを懸命に走る蕗子。
その先には物思いに耽るようにデッキチェアに腰を下ろす武彦の姿が夕陽に隈どられている。
「本当ですか? 明日お帰りになるって本当ですか?」
「ええ。でも、お別れのパーティーには必ず戻ってきます」
「お約束して頂けますか?」
「もちろんです」
「それじゃあ…」
おずおずと蕗子は小指を差し出した。
「ハハハハ…はいはい」
交わされる指切りげんまん。
ひと際赤みを増した夕陽の中に、浮かび上がる青年と令嬢の姿。
少女の瞳は輝き、満ち溢れた笑顔がこぼれんばかり。
―――あの夏の日、私の人生で最も甘やかで、光満ちていたあの夏…幸せだった…
甘美な追憶に耽る十八歳の蕗子。
その後ろ姿に幻影の白い蝶がひらひらと舞う。
翌朝、サンジュストの部屋へ駆けつける奈々子。
部屋には相変わらず誰もいない。
床に投げ出された人形と、開かれたCDが目に入る。
そのままCDをラジカセにセットする。
流れてきた曲に、奈々子はハッと振り向いた。あの曲である。先夜のパーティー会場の光景が甦る。
玄関の戸が静かに開き、人影が近づいてくる。
ハッと振り返った奈々子の前には、険しい表情の蕗子の姿。
ラジカセのACアダプターをむしり取るようにコンセントから引き抜いた。
突然止まるバイオリン曲。
「よくいらっしゃるの?」
ただならぬ蕗子の様子に、すっかり脅える奈々子。
もう一度繰り返された蕗子の問い詰めに、懸命に言い繕おうとする奈々子の言葉を遮り、
「あの子とは…あの子とは付き合わないようにと、以前忠告したはずですけど!」
―――おにいさま、何故だかわかりません。何故宮さまがあれほど神経を苛立たせていらっしゃったのか…。私がサンジュスト様のお部屋にいたというだけのことではないような気がします。あの曲…あの曲が何か…!?
車に揺られながら再び追憶の世界に浸る蕗子。
再び花火の幻想。
―――私の心は、あの十二の夏に一度死んでいる。
蕗子の回想―――あの夏の、お別れパーティー当日である。
賑わう会場。
女中にドレスを着せてもらい、大はりきりの少女、蕗子。
この日のために新調してもらった赤い靴を、兄、貴に嬉しそうに見せる。
貴は、武彦が急に来られなくなったことを告げた。
茫然となる蕗子。
兄の励ましも耳に入らず、底のない水中に沈みこむような深い絶望感を胸の奥底にしまい込んだまま、蕗子はバイオリンを弾き始めた。
―――必死に、懸命に私は弾いた。その上、楽しげに微笑みさえ見せてあげたわ。心に薔薇の棘が何本も突き刺さっているというのに…。十二歳の夏、パーティーの夜、私の最初で最後の幸せが終わった―――
演奏が終わり、抱えきれんばかりの赤い薔薇の花束を抱いて、会場を後にする蕗子。アンコールの声援に耳を貸さぬまま…。
「お嬢様、どこへ…?!」
うろたえる女中を振り返り、
「許しませんよ!! ついてきたら許しませんよ!!」
蕗子は激しく言い放ち、出て行った。あちらこちらに赤い薔薇の花びらが点々と散らばっている。
人気のない、あの古びたボートハウスへ走り、パーティードレスのまま暗く冷たい湖面へ蕗子は身を投じた。
真っ逆さまに水中を落ちてゆきながら、武彦の詩の朗読がオーバーラップする。
「あなたを夏の日にたとえようか
いや、あなたはより愛らしく より優しい」
沈みゆく赤い靴。蕗子の髪はほどけ、水中に乱れる。
死神に黄泉の国に誘われることもなし」
湖底に仰向けになる蕗子の茫然とした表情。
「…なぜなら あなたは永遠の時に繋がれしものなれば」
息が続かず、苦しげな表情に変わる。
「…なぜなら あなたは永遠の時に繋がれしものなれば」
水面越しに照りつける月明かりに向かって浮揚し始める蕗子の身体。
ボートハウスの桟橋で、ずぶ濡れの身体で蹲り、人知れずむせび泣く蕗子。その貌は絶望と夥しい涙で覆い尽くされている。
再び車の中。静かに窓が降りる。
―――たとえ裏切られても、あの夏の日は…最も甘やかなあの夏の日は…私のもの。
永遠に私のもの。私だけのもの。
いつの日かあの人が、あの夏の日に戻ってきてくれるまで、私は誰にもあの人を渡しはしない。
たとえ誰であろうと…
握りしめていたCDに力が入る。ピシッという鋭い音と共にひび割れるCD。
突然電車の音が鳴り響く。満員電車に揺られる奈々子の横顔。その奈々子を指すようにもう一度、
―――誰であろうと…
道路を跨ぐ高架橋。
蕗子を乗せた車と、奈々子を乗せた電車が、交錯する。
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これを以て『おにいさまへ…』シリーズ完結とする。
このテンションで全39話を再現すれば、さぞや読み応えのあるノベライズができるだろう…などとは思い上がりも甚だしいが、それをするには更に1年位の歳月を要することになるだろう。もはや一個人の趣味の力及ぶところではない。この5ヶ月間だって、他の内容の制作は一切止め、『おにいさまへ…』だけにストイックに専念してきたのだ。
初回放映時の1991~2年、再放送の1999年、DVD-BOXの発売…本作は機会ある毎に新たな中毒者を世に生み出してきた。
そろそろBD-BOXが出てほしい。時代に合った精緻な画質で、再び快楽に耽りきりたいものである。
DVDなら今でも大きなレンタル店で借りることはできるだろう。
皆様におかれては、この後は是非実際に本作に触れてみてほしい。その時、''ああ…アイツあんなこと言うとったなーわかるわかる''そう思って頂けるか、''何言うてんねん、勝手なことばっかし言うて。アホなやっちゃなー''と思われるか、それはわからない。
作者としては、できれば、微力ながら当blogのこれまでの記事の数々が、新たな『おにいさまへ…』中毒者輩出の一助とならんことを願うばかりである。
約半年に亘り、これほどのカルト作に関する、これほどマニアックな文章の数々にお付き合い下さり、本当に有難うございました。ここに改めて御礼申し上げます。
次回は、全く異なるテーマの予定。











































































