前回の続き。このシリーズも遂に「パート11」に突入。

凝った表現の積りで始めたローマ数字が今となっては仇となり、これから先は些か間延びした数字表現になってしまうが、どうぞご容赦を。




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すばらしいわ なんというやばん!

妻妾同居ですって
(中公文庫版第2巻P.113)


少女向けに原作は平仮名が多用されているのだが、こう書かれると、どこかでサンジュストさまが言っていた「あはん」という桃色吐息に聞こえてしまうじゃないか。


「妻妾同居」…三咲綾も随分と難しい言葉を持ち出してきたものだねぇと感心する。この言葉に反応し、ついつい『華麗なる一族』を思い出してしまうのは、私だけではありますまい。


アニメ版では同居ではなかったような…。


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おしえてください!!

こんなにもクラスメートどうしで傷つけあわねばならないソロリティーとはいったいなんなのですか!?

特権意識のよろいで身をかためたむなしいエリート集団ですか!?

(中公文庫版第2巻P.122)


マリ子刃傷事件の衝撃が学園内に走る中、ソロリティーの緊急集会が開かれ、一方的にマリ子の除名処分が決定された。

奈々子は立ち上がって異議を述べ、「わたしもソロリティをやめます!!」と宣言し、離席する。

その時の奈々子の目の恐ろしいこと。完全に目が据わっている。

上級生のお姉さま方はタジタジ。返す言葉もない。


アニメ版での奈々子はここまで手厳しくはない。


「決定…絶対…。何なのですか?ソロリティーって。同じ学園の生徒じゃないのですか? 絶対? 決定? そんなことを一方的に生徒が生徒に押し付けることなんてできっこない。そんな権利がどこにあるのですか?」

「私もソロリティーをやめます。たった今、この場で」

「これは…これは私の決定です」(#28)


となる。前に述べたが、アニメ版では最後の「これは私の決定です」が効いている。


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「やるよあした」

「よいねえ」

(中公文庫版第2巻P.124)


ソロリティー廃止案を生徒総会でぶち上げるにあたっての、薫とれいの交わした言葉。

アニメ版で、薫の君から計画を聞かされたサンジュストさまが、寝転がっていたベンチから転げ落ちるほどのショックを受け、薫に「そんなことはさせない」と激しく詰め寄るのに比べ、原作の何とあっさりとしていることか。


ここではれいの蕗子への気持ちは既に醒めているようにも見える。


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きかせてください なぜソロリティの存在が必要だったのですか!?

人間が人間の価値をきめる基準はどこにあるのですか

そんなことがきめられると思うのは

ソロリティのおねえさまがたの思いあがりです

(中公文庫版第2巻P.128)


生徒総会における奈々子の発言。臆することなく蕗子に詰め寄るさまは、つい先日までおどおどビクビクしていたか弱き一年生とは別人の如く、強い意志と理性をもった近代的知識人のように思われる。

いや、原作の奈々子は、蕗子から手のひらを返すような仕打ちをされ、蕗子に対し何等かの反感を既に抱いていたということなのであろうか。


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すくなくとも…あなたがいるから!

(中公文庫版第2巻P.135)


学園内でソロリティー廃止を求める署名運動が始まった。停学処分中のマリ子を訪ねた奈々子は、公園でブランコを漕ぎながら、マリ子に青蘭をやめないで、処分が解けたら私たちのクラスに戻ってきて、と懸命に訴える。

マリ子は面を伏せ、「そうしたいわ できるなら…」と静かに、それに続く上記の言葉で奈々子のほうを確と向き、そう答えた。

それは心からの信頼の言葉。親友への何よりの言葉である。


アニメ版では智子が早い時期に奈々子との友情を取り戻し、停学処分を受け、自宅謹慎中のマリ子を訪ねるのは、奈々子と智子連れ立ってなので、原作とは若干ニュアンスが異なっている。


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もう…ずっとずっとむかしの

パパがまだ作家として売れなくて 

アパート代さえもはらえなくて貧乏していたころ…

パパとママがはじめてであって愛しあって

いっしょにすむようになったころ…


パパが青春の命をこめて苦しみながら書きあげた

きれいなきれいな小説なの


パパはむかしこんなにも美しいすばらしい小説を書いていたの

パパは エロ小説家なんかじゃなくて

ほんとうはずっとずっとほんものの文学作品を書く作家になりたくて…

青春をかけたその夢を

けっきょくパパはつらぬくことができなかったのだけれど

わたしはいまどうすることもできないほどうれしいの

ほんとうにこんな美しい小説を書いたのが

私のパパだったって知ることができて

うれし…い…ほんとに

(中公文庫版第2巻P.136~137)


アニメ版で対応する言葉は次の通り。


「私…見てほしいものがあるの。私のパパの昔の小説なの。

一の宮さんが…貴さんが持ってらして、私に下さったの。

もう…ずっとずっと昔の小説。

パパとママが初めて出会って、愛しあって、一緒に住むようになった頃の、まだ私が生まれてなくて、パパがまだ作家として売れてなくて、貧しくてアパート代も払えなかった頃の、パパの青春。

何もないけど、希望だけがあって、才能と愛だけにぬくもりを求めて…そんな頃に書かれた小説。本当に、本当にきれいな小説。

嬉しかった…。今はポルノ作家なんて言われてるけど、私、嬉しかった。こんなに心に滲み入るような美しい小説をパパが書いていたことを知って…。

心から…心から私、パパの娘でよかった。そう思ったの。パパの本当の姿、本当の心を私、見ることができた。そんな気がして…。」(#32)


ここも、アニメ版では智子も交えての場面となる。この後、奈々子と智子が小説を貸してほしいというのに対し、原作では奈々子とマリ子が一対一で、マリ子は感極まって奈々子の胸で泣く。

「神さまありがとう…って…はじめてわたしはそう思いました」

奈々子は心の中で思う。


原作のほうが、この場面は濃密。

だがアニメ版は、この直後、宮さまの「ようこそ、ソロリティーへ。」の屈指の名演説があり、その引き立て役となっているような気もする。


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やってみるがいい

やれるものならやってみるがいい劣等人種!!

(中公文庫版第2巻P.138)


宮さま(蕗子)の性格付けの原作とアニメ版での違いがはっきりとわかる言葉。

ソロリティー廃止を求める署名運動が学園内に広まりを見せる中、蕗子はわなわなと怒りに身を震わせ、こう一人ごちた。


対するアニメ版での蕗子は署名運動位では微動だにもせず、泰然自若としている。寧ろ動揺を見せ、焦っているのは側近のソロリティー幹部たちである。

特権意識を振りかざし、人種差別的観念に捉われる虚妄のエリートの役割を、アニメ版ではボルジアの君が代わりに担っているような気もする。


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ああ!!

あなたを見るたびに

わたしはよろこびとほこりでぞくぞくしたわよ!!

わたくしよりおとった人間!!

わたくしより血のいやしい人間!!

一生そばにおいておきたいとさえ思ったわ!!

(中公文庫版第2巻P.144)


有力幹部たちも廃止署名したとの報に、いよいよ焦りを覚える蕗子。

そんな時、蕗子はれいと顔を合わせ、感情露わに「この私生児!!」とれいの頬を打った。

哀れなれいは、虐げられながらも、蕗子を愛し、憧れた気持ちを尚示し、蕗子も自分を愛してくれたとすがるような目で訴えた。

だが蕗子は冷然と言い放つ。

「純真…というよりは単純なおばかさん」

そして私生児という卑しい血の流れているれいを、自分の傍に置きたがったのは、自分の優越感の道具にできる、そんな人間が欲しかったからだと。


れいは激しい衝撃を受ける。これまで彼女を支えてきた全てが音を立てて崩れ落ちた。

署名運動の進展を喜ぶ生徒たちに虚しい笑顔を見せた後、一人になるとガチガチと身を震わせながら、やめた筈の精神安定剤を口に含んだ。


アニメ版との大きな違いとして、れいの死因がある。アニメ版では事故死だが、原作でははっきりと自殺と記されている。れいの自殺の直接の原因は、この蕗子の言葉にあったと断言できる。


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れい…これがあなたのやり方なの…

こんなしうちってある…!?

それでもそれでも…愛しているのにー!!

(中公文庫版第2巻P.174)


上記の酷い言葉を目にした後では、「今さら何言うてんねん」と醜い優越感を剥き出しにした蕗子への憎しみをどうしても拭えない。

まさか死ぬとは思わなかった。どんなに酷い言葉を浴びせようと、れいと自分の間には厳然たる身分の違い、血の違いが存在し、こいつには何を言ってもいいんだと、タカをくくっていた強者ならではの奢りが原作の蕗子には感じられる。


原作では、蕗子もまたれいと同じ母親から生まれた妾の子であるということを、れいのみが知っており、蕗子は知らされていないことになっている。

蕗子のあまりの誇り高さに触れ、れいは蕗子に本当のことを言ったら蕗子が滅茶苦茶に傷ついてしまう、一生言ってはいけないと、苦しみを一人で背負い込む覚悟をする。


似たような状況を、嘗て『夏の嵐』という昼ドラマで見たことがある。基本的には前年の『華の嵐』と同じ筋だが、物語後半、ヒロイン・峰子(演:高木美保)の暴走を止めるには、峰子の出生の秘密を明かすしかないと結城一馬(演:渡辺裕之)は決心する。南部男爵の誇り高き娘としての峰子のプライドはズタズタに引き裂かれ、それまで兄・忠彦(演:長塚京三)と共に、男爵家再興という旗印のもと、阿漕な商売に手を染めてきたのが、憑き物が落ちたようになってしまう。


アニメ版では、蕗子はれいの死後、奈々子に、実は自分も知っていたと打ち明ける。一の宮の母が亡くなる前に、10歳の蕗子は自分の出生の秘密を聞かされた。

蕗子は大変な衝撃を受け、苦悩した。れいを憎もうとし、ひどい仕打ちもしてきたが、どうしても憎み切ることができない。本当の妹だとわかっていたからである。


原作の蕗子は、出生の秘密を知らない。ゆえにれいを憎み切っていた。残念ながら原作の蕗子は、れいのことを愛していたというのなら、それはペットのような愛しかたにすぎなかったのではないだろうか。そこにはアニメ版のような姉妹双方の、愛と憎しみのアンビバレンスという複雑な苦悩の足跡までは感じられない。


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愛されてると思ってた 愛されてると思ってた

すこしはあの人の心の中にすんでいるのだと信じてたんです

それなのに それなのに これっぽっちも――ああッ!!

どんなことばでおいかけるすきもあたえてくれずに

たったひとりで たったひとりで…

(中公文庫版第2巻P.175~176)


れいは奈々子を公園へ連れ出し、蕗子の出生の秘密、そして心中を蕗子から持ちかけられたことを打ち明ける。

蕗子の愛を信じ、それだけを心の支えに、一人ぼっちの部屋も、冷凍食品ばかりの食生活も耐えられた。そう語るれいに、奈々子は誤魔化しだと涙ながらに語る。

れいは、「…そうだったかもしれない…だから…あなたにあえてよかった あなたが必要だった」奈々子にそう告げた。


奈々子はその言葉を終わりの言葉ではなく、始まりの言葉と捉えた。


それなのに、ああそれなのに…奈々子は激しく動揺し、薫の君に縋りついた。


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わたしをひとりにしていった

このおそろしい孤独の中へ…

れい!! あまりじゃないか

わたしがそこまで強いと思っていたの!?

おまえさんはつめたい人だ!!

(中公文庫版第2巻P.177~178)


れいの自死に激しい衝撃を受けたのは蕗子と奈々子だけではなかった。

一番のショックを受けたのは、他ならぬ薫であった。


アニメ版では薫の君の衝撃は、より詳細に描かれる。


れい…れい…れい…。何故人はこの世に生まれてくるのだろうね。

そして、何故生きようとするのだろうね。

どうせいつかは死んでしまうのに。」(#36)


れい…どうして死んでしまったの。あたしを残して。

あたし、生きようと思ってたのに。


残り少ない時間を、あたしなりに精一杯生きようと思っていたのに。

誰にも迷惑をかけずに、誰にも囚われずに、誰にも想いを残さずに、きれいに…きれいに…。


れい…れい…あたしより先に死ぬなんて。勇気が揺らぐじゃないか。

死ぬのが怖くなるじゃないか。淋しくて淋しくてどうしていいかわからなくなるじゃないか。」(#36)


この辺が上記の原作の台詞に相当する。


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思えばわたしを信じられないほどの人間もようのうずの中になげこみ

さまざまな人間の愛憎を 女性のもつ美しさをみにくさを悲しさを

ああ とりわけ臓腑にしみいるような悲しさを

しみじみと教えてくれたソロリティではありました

(中公文庫版第2巻P.178~179)


れいの自殺という衝撃の嵐が吹き荒れる中、蕗子自身の申し出で、ソロリティーの自主的廃止が決定された。

奈々子は目を伏せてソロリティーを回顧する。

アニメ版では、智子がその役割を代わりに担っている。


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わたしはまだ どうしてもサン・ジュストさまを

永遠にうしなった悲しみからたちあがれないでいます

でもまだどっぷりと 悲しみだけに身をまかせられないでいるのはなぜでしょうか


あとにのこされた者のこの歯ぎしりするばかりの無力感…

だれの愛もあの方にはとどかなかったのです!!

1枚の鏡ほどにも あの方の生にはかかわれなかったのです!!


おにいさま…あってください

あなたをたずねていいでしょうか

話したいのです ただ話したいのです

(中公文庫版第2巻P.179~180)


アニメ版にはない奈々子の武彦への手紙。

武彦は、たった半年ばかりの間に、奈々子という妹を急激に大人にしたものは一体何だったのだろうと思いを馳せる。

武彦は、奈々子に兄の名乗りを挙げたい、兄として奈々子と話したいという衝動に駆られる。


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ねえ…この時計塔から見おろすと

あんなにも下は別世界みたいにうごめいているけど

だけどあのいっしゅんの情景に

さまざまな人間の生きざまが凝縮されているのだと思うとふしぎだ…

れいはいつもここからあの世界を見おろして

なにを考えていたんだろう…

(中公文庫版第2巻P.185~186)


およそ この現実の世界には興味がないというふうな眼をしていた

その生身の人間らしくない風情にわたしは強烈に魅かれ

あの眼が見てきたものは あの魂がくぐりぬけてきたものは

いったいなんなのだろうかと興味をもたずにいられなくて…

いま思うとそれは死の世界だったのだよね…

究極 彼女は死しか見ていなかった…
(中公文庫版第2巻P.186~187)


原作では、アニメ版とは異なり、薫の君は自ら武彦の部屋を訪ねる。れいを喪い、今一人で生きていく自信がないから…と。

そこへ奈々子が来合わせて、薫と武彦が嘗て恋仲だったことを知る。

薫は奈々子を、かつてれいが入り浸っていた時計塔へと連れ出し、れいのこと、武彦とのことを語り始めた。


アニメ版では、似た言葉が随分早くに出てくる。


「…たちまちスタープレイヤー。バスケをしている時のれいは生き生きとしていた。目を輝かせてね。…私はそういうれいを見るのが好きだ。…と思っていた。でも本当はそうじゃなかった。

私が魅かれたのは、れいの生身の人間らしくない風情、あの遠い所を見つめているような目だったんだ。あの目が見てきたものは、あの魂の中に潜んでいるのは、何なんだろう…」(#07)


「死の大天使。…人の死も自分の死も冴え冴えとした瞳(め)で見続けたフランス革命の騎士、ド・サンジュスト。受け継いだその名に相応しく、あの方が遠くじっと見つめているものは、やはり死…なのでしょうか。…おにいさま。」(#07)


原作では、既にこの世を去ってしまったれいへの鎮魂歌の如き薫の述懐。対するアニメ版では、れいの不可思議な心情に引き付けられる薫、それを補うかのような奈々子の独白。

死が現実のものとなってから、それを裏付ける回顧と、死を予感させながらたゆたうが如し生ける者への想い。

いずれにせよ、れいが手の届かぬ、浮世離れした存在で、それが何ともいえぬ彼女の不思議な魅力であったことに変わりはない。


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わたしにとって愛っていうのはね…

じぶんの人生よりあいての人生をたいせつに思うこと…なんだよ

(中公文庫版第2巻P.189)


アニメ版では、


「好きだから忘れます。好きだから忘れます

そして忘れてしまったということさえ忘れてみせます

それほど それほど あなたのことが好きだったから」


という薫の君の絞り出すような言葉により、代弁されている。


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れいは…生きようと思えば生きられたのに

死をしか見ようとしなかった…

でもわたしは 死とむかいあっていても

いつも生だけを見ていたいと思う…

(中公文庫版第2巻P.190)


「だからゆるせない!

わたしの苦しみを知っていたのに

ひとりで逝ってしまったれいがゆるせない…」

という言葉につながる。

そして薫は静かにシャツのボタンを外し、奈々子の前で胸をはだけて見せた。


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お乳が な…い…!!

(中公文庫版第2巻P.192)


ある意味、原作で最も強いインパクトを与える言葉。

奈々子は悲鳴を上げ、カッと目を見開き、薫の胸からどうしても目が離せなかった。

その目の先には未だ生々しい手術跡が、縫合された糸の跡も生々しい恐ろしい傷跡が、広がっていた。


流石にアニメ版では、この言葉は省略され、薫の「手術で片方とってしまった」という言葉に置き換えられている。


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わたしはことばを知りませんでした

ことばを知りませんでした!!

薫の君がそのしずかな横顔に

凍結し昇華してきたはかりしれない孤独と悲しみのまえに

(中公文庫版第2巻P.193)


薫の抱えるあまりに重い苦しみと死の恐怖と孤独に、奈々子は涙をぼろぼろこぼし、一瞬何も言えない。


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このいっしゅんの重み

このいっしゅんのたいせつさは

おまえさんにとっても

わたしにとっても

おなじことなんだよ!

(中公文庫版第2巻P.194)


5年以内に再発しなければ助かる。

だが再発したら、その時は…最後だ…

薫の君はそう言った。


5年という時間…それが何事もなく過ぎ去るか、死の宣告を受けるか…一番恐ろしい思いに苛まれている筈の薫の君が、静かに澄んだ瞳で、奈々子にそっと告げた。

死への恐怖に怯えながら、たった17歳の少女が、ここまで真摯に人生と向き合い、達観した思いを得ることができるものであろうか。


最後のほうで、武彦と共にドイツへ旅立ってゆく薫の君を見送りながら、奈々子の脳裡にもう一度この言葉が甦る。


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薫の君は…こわいのに…どんなにかこわいのに…

たったひとりでたえていくほうをえらぶほど……

それほどおにいさまを愛しているの…

お…ねが…い…

それほどの愛をほうっておいたりしないで…

(中公文庫版第2巻P.204)


奈々子は両親から武彦という兄の存在を聞かされ、今、武彦と兄妹として会っている。

奈々子は武彦に、妹としての最初のお願いをする。

それは愛している女性がいたら、さらってでもその人のことを幸せにしてあげてほしいと。


奈々子のストレートな気持ちに、武彦はこう答える。


「奈々子、あの人をだまって手ばなしてしまうほど ぼくはふぬけに見えるかい?

あの人の苦しみの半分さえをも背負えないほど…

あの人の清冽な生きざまにかかわりあえないほど ぼくはだめな男に見えるかい」


アニメ版でもこの武彦の言葉は、ほぼそのまま活かされている。(#38)


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むすこよ…学者になるか…

いつのまにか 父とおなじ道をあゆみはじめたのか…むすこよ…

(中公文庫版第2巻P.211)


アニメ版ではよりストレートな父からの鮮烈な愛情表現に代わっている。


「武彦、がんばれよ。がんばれっ!」

「はいっ、お父さん」


原作ではもう少ししみじみとした思いであったようだ。


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いきなさい ぼくはここでずっとこうしてたっているから

あなたのつらさをどうしてあげることもできないぶんだけ

ぼくもまた

身をきられるようにつらいのだけれど

たっているから…

(中公文庫版第2巻P.213)


停学処分が解け、青蘭へ登校することになったマリ子を、貴が送ってくるというアニメ版には出てこない場面。

マリ子は貴の背中に隠れ、「どうしても学校の門がくぐれないとこうほざくのです」と貴は奈々子に告げつつも、満更でもないご様子。


アニメ版と原作における、貴の微妙な性格の違いがここにも表れている。

原作の貴は、アニメ版よりもっと無骨で、すっとぼけたところがあって、不敵な感じがする。

それでいながら、離婚により離れ離れになってしまった父に代わり、マリ子の保護者のような役割を早くも担おうかという貴の、案外繊細で、優しいところがこの言葉によく出ている。


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あいかわらずの美しさ…!!

誇り高さもはじめて見た日そのままに

この人なりになにかを越えたかげりが

いっそう美しさをましているような…

(中公文庫版第2巻P.215)


れいに酷い言葉を投げかけた時の醜い誇りの仮面は、憑き物が落ちたかのように蕗子から外れ、今は哀しみと、その哀しみを乗り越えた陰影が、誇り高き麗人に静かな心の余裕というか落ち着きを齎したものと思われる。


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わたくしの兄をてこずらせるなんて

さすがあなたよマリ子さん

(中公文庫版第2巻P.215)


アニメ版にはない、宮さまの台詞。

この直前には、「わたくしも思いがけずおにいさまの弱味をにぎれてうれしいわ」という、如何にも妹らしい言葉も見られる。

いずれマリ子が貴と結ばれることが示唆されるが、そうなるとマリ子にとって蕗子は小姑となるわけで…。

こりゃまた随分と手強い小姑だなぁ。


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サン・ジュストさまが愛した人……

わたしの思いも 薫の君の友情も とどかなかったほどに

死をもって証とするほどに サン・ジュストさまが愛した

ただひとりの人…

わたしには ついにはいりえなかった世界……

中公文庫版第2巻P.216)


蕗子をみての奈々子の心の声。

れいを喪ったショックを経て、美しさに陰影が加わり、その美に一層の深みが増した蕗子の横顔に、奈々子は愛した人の俤をみる。


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それがきみの愛しかたか

愛するものにくるしみをわかつことをせず

愛するものから手をさしのべられることもせず

それはぼくのためか

だったらぼくは そんな愛されかたなどごめんだ!!

(中公文庫版第2巻P.229)


いいんだよ いいんだ…よ

この世にひとりだけ あまえよりかかってもいい人がいるんだよ

人間がひとりだけ愛するものに弱さをさらけだすのを

だれがとがめたりできるものか

(中公文庫版第2巻P.230)


薫をドイツへ妻として連れていこうと、懸命に説得を試みる武彦。

薫の真剣な愛に対し、武彦もまた負けず劣らずの真摯な愛。

死への恐怖と一人きりで戦い、愛する人に負担をかけさせたくないと、心とは裏腹に身を引こうとする薫。そんな彼女に対し、その苦しみを分けてくれ。共に分かち合おう。弱い自分を曝け出し、自分には縋ってくれていいんだよと懸命に訴えかける武彦。


愛する人の苦しみなら、進んで自分もそれを背負おう。果たして武彦の覚悟は薫に通じるのであろうか?


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こわい…こわいこわい!!

ひとりで死をまつのはこわい!!

ひとりでは生きられない

(中公文庫版第2巻P.231)


遂に薫は武彦に、自分の弱さを曝け出した。

死への恐怖も苦しみも、全て見せて、武彦に受けとめてもらう道を薫は選んだ。


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深いしずかなまなざしでした…

くるしみの中にも死の中にも

生きることそのものだけをじっと見つめてきた

やさしいまなざしでした

(中公文庫版第2巻P.234)


薫の君とおにいさまの結婚式。

奈々子は薫に幸せになって下さいと声をかける。

薫の君には、悲しみや苦しみ、死への恐怖、全てを受け容れた上で、生への希望にのみ目を向けるべく達観した者ならではの優しく穏やかな表情が感じ取れる。


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わたしがおにいさまにあててかいた数々の手紙は

その日おにいさまとともに空をこえ海をこえとびました

青春のひとときを まぎれもなくわたしが生きたあかしとして

かざらぬ心をこめ ひとりつづった手紙でした

(中公文庫版第2巻P.238)


アニメ版にはない台詞。

武彦に書き綴った手紙の数々に託した奈々子の思い。その思いも又、武彦・薫夫妻と共に遠い異国・ドイツへ旅立つ。それは奈々子の青春の証し。そして武彦、薫の渡独は、奈々子の青春の一区切りでもある。


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――そして2年後…

薫の君が亡くなったとのみじかい文面の知らせが

ひっそりとドイツからとどきました…

わたしはふた晩泣きあかし そしておにいさまへ手紙を書きました

手紙を…書きました……

(中公文庫版第2巻P.239)


アニメ版との最大の相違点。

枯葉舞い散る晩秋、石畳の道を、トレンチコートに身を包み、奈々子は一人涙にくれる。

さながらリルケの詩の如く、奈々子の心は悲しみにくれ…。

武彦に書き綴った手紙に、奈々子は何と書いたのだろう。

奈々子はどんな悲しみを、武彦に告げたのだろう。


この気持ち、このやるせなさ。

あまりに濃密な心理劇の数々を経、大団円を迎えたアニメ版。

対する原作は、救いようのない無念さを、主人公のみならず読者全てに余韻として残す。

現代的流行りからみれば「後味が悪い」で済まされそうだが、現実世界はハッピーエンドばかりとは限らない。無常観もまた、真理の一つではないかと思うのだ。


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以上、2回に亘って記した原作版の「名言集」。

中編ともいうべき長さの原作だが、あの濃厚かつ徹底的に掘り下げたアニメ版にもない言葉の数々が時に凝縮されていることに、改めて気付かされる。


これにて「名言集」は本当にお終い。さて次回はどんな『おにいさまへ…』を展開させるとしましょうか。