今回は、前回まで書き記した「名言集」の補遺。
原作版からも追加で採り上げることにする。
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「見苦しいわね、このイモ連隊!」
「何するのよ、ポルノ作家の娘!」
「黙れ、三流興信所!」
(#04)
自分でも全く訳がわからぬままソロリティーに入れられ、周囲から厳しい嫉妬の目に晒され、三咲とその手下どもから奈々子は激しいいじめに遭う。
そんな奈々子に代わってマリ子は三咲たちに言い返す。
マリ子と三咲の激しい言葉の応酬。
「イモ連隊」だの「興信所」だの、マリ子のボキャブラリーは高1にしては結構古めかしく、豊富なんだよなぁ。ポルノかどうかはともかくも、さすが作家の娘といえなくもない。
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ワル…ワルなんだ。この人
(#07)
傷心の奈々子は一人時計塔へと入り込むと、そこには先客がいた。サンジュストさま(れい)である。れいは紫煙をくゆらせ、しどけない姿勢で壁に凭れている。
高1とはいえ、まだまだお子ちゃまな奈々子にとって、隠れて煙草を吸う高校生など、しかも名門女子高の青蘭に、そんな上級生がいるなんて、俄かには信じ難い。
咄嗟に奈々子が思ったのがこれ。
ワル…ってねぇ…。イモ欽トリオのワルオか!?
そういえば随分昔、私が中学生の頃は、校内暴力が盛んで、誰の目にもハッキリわかる“ワル”がいた。
そういう不良の色に染まらんようにと、例えば「中1コース」という雑誌の中に、「気を付けよう 甘い言葉の ワルの誘惑」的な啓蒙マンガが載っていた。主人公の「ぼく」は中1。皆が不良と煙たがる3年生の先輩は、思ったよりも気さくくて、周囲の心配をよそに「ぼく」は近付いてゆく。すると頃合いを見計らい、先輩は「ぼく」に万引きを指示し、断り切れずに遂に盗みに手を染めてしまう。
悔やんだ時には後に戻れぬ。どうしよう…という筋だった。
その時の先輩の名前は「日影」。
…日陰者のもじりか…うーん、実にわかりやすかったぞ。昔のワルは。
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気まぐれ…ではいけなくって?
(#11)
中間テストを目前に控えたある朝のこと、1人通学路を歩むれい(サンジュストさま)のもとへ、宮さま(蕗子)の車が近付く。車を降りた蕗子はれいに1冊の本を差し出した。
「これ…差し上げるわ。
ほしがっていた『ジャン・サントゥイユ』の初版本です」
「…でも、これは大切なものだから、絶対にだめだと…」
これらのやりとりの後に続く宮さまの言葉。
素直に「あげる」って言やあいいものを、尊大で、居丈高で、おまけに「気まぐれ」だってさ。
全く金持ちのご令嬢ってやつはよぉ…
この言葉だけきくと、ほんま嫌なやっちゃなー。
似たような蕗子の言葉として、“楡の木事件”の翌日、奈々子が蕗子を馬場へ訪ね、前日借りた傘を返しに来た時の、
「さしあげてよ、その傘。邪魔になるようでしたら、捨ててしまってもよろしいわ」がある。
だから、そんなこと全然思ってないって…。
因みに、件の『ジャン・サントゥイユ(Jean Santeuil)』だが、『失われた時を求めて』で有名なマルセル・プルーストの手により19世紀末に著された自伝的小説。断片的な草稿に留まったまま中断され、作者の死後、1952年に出版。
草稿というならともかく、たかだか60年前の本にそれほどの稀少価値がつくとは思えない。
物語中では、グーテンベルグの聖書なみの稀覯本であるかのような印象を受けるのではあるが…。そこが「宮さまマジック」なのだ。
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お前さんはマゾかっ!?
(#12)
雨の降りしきる中、蕗子から待ちぼうけを喰らわされ、遂に倒れるサンジュスト(れい)。偶然通りかかった奈々子が、サンジュストを部屋へ連れ帰り、薫の君を呼び、介抱する。
れいのマンションへ駆けつけた薫は、れいの額に手をやってその高熱を確かめるや、激しくれいの頬を打った。
ベッドに倒れたれいの腕から金の腕輪をもぎ取った。下から現れたのは鋭い傷跡。ハッとする奈々子。
「こんなもの、運河の底へ沈めてやる」薫がブレスレットを投げ捨てようとしたその刹那、れいの短剣が鋭く冷たい闇を切り裂いた。
その時のれいの顔。完全に目が据わり、いっちゃってるという様相。
ここでは「宮さまの呪縛」としか語られてはいないが、後に蕗子から贈られたものだということがはっきりと語られる。でも、その割に、留め金がいまいちチャチなんだよなぁ…。
しかし、人を捕まえて、いきなりマゾ呼ばわりなぞ、なかなかできるもんじゃありませんぜ。
そういやソロリティ審査の面接で、焦った奈々子は子供っぽく見られぬように、「好きな作家」の質問に、追加で「サド」と答えていましたっけ。
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「貸しィ」
「借りィ」
(#12)
倒れたサンジュストさまの介抱のため、宮さまの屋敷を中座したまま、戻って来られなくなった奈々子は、咄嗟に具合が悪くなって智子の家で休ませてもらっていたと、宮さまへのお詫びの電話で嘘をつく。
翌日、口裏を合わせてもらいに智子を訪ねる奈々子。
ソロリティー関係へのアリバイと知らされ、快諾する智子の、指でピストル、ズキュンと「貸しィ」。これはまだしも、咄嗟に「借りィ」と切り返せる奈々子、案外利発ではないか。
それはともかく、この2人のやりとり、何ともいえぬ独特の間があるのだよねえ。
思い出すのは第1話。入学式の朝、互いに私服を約束しつつ、蓋を開ければ制服を着てきた2人。「約1名いたのよね…石が…」(仕草でコツンと拳固を額にやる奈々子)、「あらァ右に同じ」
こりゃあマリ子が焼き餅やくのも無理ないで。
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「いやならよい」
「そう…どこかでサンドイッチと茹で卵でも買うのがよいね」
「熊や狼といわなかっただけ、ましだとお思い」
(#18)
いずれもサンジュストさまのお言葉。
行動や思考回路は捨て鉢だが、意外と言葉遣いが綺麗で、'70年代風なのだ。
「いい」ではなくて「よい」
「ましだと思え」ではなくて「ましだとお思い」
こんなお品のお宜しいお言葉は、殆ど死語ですよ。あーた。
行きのバスから降りそびれた奈々子は偶々居合わせたサンジュストさまに「おつきあいをし」と言われ、奈々子の頭の中には疑問符が渦巻くばかり。途中で鞄をコインロッカーに放り込み、そのまま公園へ。
「よくここにいらっしゃるんですか…授業さぼって」
「人聞きが悪い。自主休講と言ってほしい」
サボることをわざわざ自主休講って…。これも如何にも'70年代風。エスケープって言うのもありかしらん。
それにしても今どき公園で茹で卵なんて売っているものだろうか?
一番下の「熊や狼」の件は、れいが食糧調達に出、一人残された奈々子が補導員に声をかけられ、奈々子ピンチ!という時、れいが戻ってきた。れいだって17歳の少女の筈なのに、平然と振る舞い、悠然と煙草を吹かす。奈々子のことを猪の出る山奥から来たお上りさんに仕立て上げると、補導員の表情は和らぎ、大人の男が付いているなら安心…と去って行った。その後の会話。
「やならいい」
「んーどっかでサンドイッチと茹で卵でも買わね?」
「熊や狼っていわねぇだけ、マシじゃね?」
「やならええやん」
「そやな…どっかでサンドイッチと茹で卵でも買おか」
「熊や狼言わなんだだけ、ましや思とき」
今どきの若い子風、関西弁にそれぞれ翻訳してみると、サンジュストさまのお育ちの良さがおわかりになりましてよ。ワル…とばかり言えませぬ。
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「あのね、お早うじゃなくておそようって時間だよ」
「私、今日みたいな奈々子よい。明るい奈々子すごーくよい。」
(#19)
サンジュストさまとの楽しく甘やかなランデブー(…こちらも死語がうつっております…)はあっという間に過ぎ去り、午後から登校した奈々子。
心配した智子とマリ子。「お早う」と挨拶する奈々子に対する智子の返し。
そういえば子供時代、日曜に寝坊して朝食に遅れていくと、よく親父から「おそよう」と嫌味たらしくいわれたものだ。
その日の放課後、とうとうサンジュストさまに告白してしまった奈々子は、智子と一緒に寄り道三昧。
やけにハイテンションで明るい奈々子と別れ際、智子は上記の言葉を掛けるが、感傷に浸る奈々子は一人になりたくないと涙ぐむ。智子は一瞬驚くが、奈々子の方にそっと優しく手を掛けて、にんまりしたような満足したような、何ともいえぬ表情を浮かべる。
きっとこれまでも、純粋で泣き虫な奈々子を、時に励まし、時にリードし、時に慈しみながら、智子は奈々子との友情を育んできたのだろう。
もとより死語は智子の自家薬籠中とでもいうもの。
ずっと後で、マリ子が智子に向かい、「本当はあなたが一番大人なんじゃない?」と言っているが、それを裏付ける場面である。
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「何とかなんないの?あのグルーピーどもは」
「あの子もグルーピーの一人にすぎないの?」
(#19)
ここまで綴ってきて、この補遺は殆どが死語にまつわる可笑しさゆえの「名言」だと気付いた。
これもその一つ。
今なら、「取り巻き」とか「追っかけ」とか「ファン」というところか。「グルーピー」というのも中々聞かなくなった言葉だが、元はグループサウンズの追っかけから来た、多分に'60~'70年代的な言葉であろう。
薫の君の言葉遣いも案外レトロちっくですこと。
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ああはぐれカモメが二羽、三羽…。ねぐら求めてどこへゆく
(#29)
お察し通り、これも死語を得意とする智子の言。
刃傷沙汰ゆえ停学処分中のマリ子宅を、奈々子と智子はちょくちょく訪ねる。
ケーキを前に、奈々子はソロリティーをやめてきたとマリ子に話す。
ケーキを食べようというマリ子や奈々子の誘いに乗らず、一人窓辺に佇んで、智子は気障とも取れる台詞を吐いた。
この後、前に取り上げた、ソロリティーへの幻夢が醒めたこんな言葉に繋がってゆく。
「…私ね…ソロリティーなんて、別にどうとも思ってなかった。私自身にとっちゃ縁もゆかりもないし、元々特権意識の塊なんて、私、認めるの嫌いだし。…でも、奈々子がね…色々あって、それなりの苦労して頑張ったの、私、知ってるから。」
「…そんなものだったのか、ソロリティーって…。
いいのよ、ソロリティーにいた人たちがそう思ってたんだから。
ソロリティーって、もうちょっと何かがあるのかなって思ってたからさ。いいのよ…もういい。」
智子の何ともいえぬ寂寥感。
智子は確か兄と弟に挟まれていたはずだが、もしかすると兄貴は小林旭氏の「渡り鳥シリーズ」か『快傑ズバット』のファンで、智子は少なからずその影響を受けているというのは考えすぎであろうか。
そういえば、智子にはこんな「名言」もあった。
「ああ燦々たる陽が降りそそぎ、緑なす天使の園。鳥は舞い、きららんと光る水の流れ。幸せであれと花々は私に歌いかける。…それなのに、ああ何たる運命の悪戯。人はそれをテストと呼び、試験といっては掃き捨てる。」(#13)
智子…意外な詩人である。
青蘭という環境が作り出した詩心であろうか。
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刺繍というものは、ひと針ひと針心を込めて、丹念に刺し仕上げていくことで、その作品に味わいが生まれてくるのですよ。
ひと針刺しては母のため…(中略)…
…お弁当袋にお母さんの心の籠った刺繍。
たとえ中身が冷凍食品でも
(#25)
青蘭の家庭科の先生の有難~いお言葉。
第4話でクッキー作りを教えていた、ふくよかな顔つき、体つきに、小さな眼鏡のおばさん先生。綽名はきっとステラおばさんに違いない。
そのステラおばさん先生が再びご登場。シリアス場面の嵐であるアニメ版の中にあって、数少ないコミカル場面の一つといえる。
ステラおばさん先生のターゲットは薫の君。クッキーの時は生地をうにょっとバナナみたいに絞り出し、刺繍の時はかぎ裂きみたいな刺繍を銜え、薫の君は諦め顔の道化役。
だが、サンジュストさまの介抱の時、林檎の皮を剥き、切ってやっていたから、薫の君は実は基本的なことはできるのではないかと勘繰る。
「ひと針刺しては母のため」この後ステラおばさん先生は、薫に声をかけるのだが、本当はこの後にはどんな言葉が続くのだろうか。
「ふた針刺しては妻のため」…こんなところであろうか。
最後の「たとえ中身が冷凍食品でも」という辺りが、シニカルというか何というか。
夫婦共働きが当たり前になりつつある現代においては、弁当を前の日の夜に残り物で作ったり、冷凍食品を多用したり、あまつさえ朝冷凍のまま弁当箱に詰めておけば、昼時には丁度いい塩梅に解凍されて食べ頃になる冷凍総菜まで出てくるなど、最早手作り弁当事情はほんの数十年前とは隔世の感がある。
自分の経験からすれば、小学校低学年の頃は、母の手の掛かった弁当を有難く食べていたが、高学年にもなると、クラスメイトが食べていた、アルマイトの蓋に一面の海苔がべったりと剥がれてこびりつき、醤油に浸されたみすぼらしいご飯が残ったような粗末な弁当を、寧ろ羨ましく感じたものだ。
やがて長じるにつれ、もっと粗雑な内容でよいと母に敢えてリクエストし、弁当箱の包みはそれまでの大ぶりのハンカチではなく、本屋の紙袋でいいんだなどと言っていた。
流石に刺繍入りの弁当袋までは用意されなかったが、男の子というものは、その成長過程において、母親から世話を焼かれること自体というよりは、世話を焼かれていると周囲に気取られるのを殊更に嫌う。それを自立心の芽生えと喜んでもらえるか、一種のアウトロー精神の萌芽と心配されるか、はたまた寂しいと捉えられるものかわからない。
その一方で平気で小遣いをせびり、養われているのだから、考えてみれば随分と勝手なものだ。
だが、確実に言えるのは、男女を問わず、自分のために手の込んだ弁当を作ってくれたり、あれこれ世話を焼いてくれる人の有難みに気付いた頃には、大抵の場合、既に遅いということなのである。後からそういうことを求めても、新たに得るのは何と困難で努力を要するものであることか。
些か説教臭くなるが、今この文章をお読みの方の中で、配偶者でも恋人でも親でもいい、もし貴方のために手の込んだ弁当を作ってくれる人がいたら、決して疎ましく思う勿れ。感謝と労いの言葉を告げるべきである。でなけりゃバチが当たる。自分じゃ絶対にできないことを、相手は自分のためにしてくれている。
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当初の予想以上に大容量となった。
原作編は次回にする。





