8月31日(日)


梅田―難波 心斎橋―梅田


大阪―塚本 塚本―大阪


阪神梅田―杭瀬 杭瀬―阪神梅田


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前回の続き。



梅田芸術劇場にて、『ベルサイユのばら・フェルゼンとマリーアントワネット編』全国ツアー公演を観た。

この旅とまともに日程が重なってしまったが、当初9/7(日)に、帰京と同時に、大荷物を東京駅のコインロッカーに放り込み、市川へ向かうというあまりに無謀な作戦(絶対寝そう…)を思い描きはしたものの、抽選で外れ、一般前売りも瞬殺と、実にあっけなく散った。


オークションを調べてみたら、業者出品のチケットが定価スタートで出ており、駄目で元々とばかり入札するも、競合者現れず。

全国ツアー初っ端の大阪だし、その楽日だし、それに何といっても『ベルばら』だし…。

恐れをなしていたものの、何や、人気ないん?

ともあれ市川への強行よりは遥かに好条件の日程が得られたことに、嬉々とする。

何回か前に書いたように、大劇場の『エリザベート』、東京での壮一帆ラストデーと重なり、人気が分散したのだろう。


そんなことを思いつつ、買ったばかりの原作11巻を読み耽る内、幕が上がった。


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「♪ごらんなさい ごらんなさい ベルサイユ~のぉ~ ばぁ~あ~ら~」

小公子、小公女たちのお馴染のプロローグが始まる。

ピンク一色。ロココ調。幕には「ベルサイユのばら」と飾り文字。デコレーションケーキのプレートでも、今どきこんな飾り文字は見かけないぜ。

…と思いつつも、これがなければやはり宝塚の「ベルばら」らしくない。

伝統芸能。様式美。これ抜きだとやはり寂しい。それに何よりわかり易い。


引き続きマリー・アントワネット、フェルゼン、オスカル三者が初めて出会う舞踏会の場面。

やっぱりパペットを使ってきたか…。マリー・アントワネットの作った歌を使いたくて、考え出された場面なのだろうが、個人的にはこのパペット場面、嫌いである。


いきなり登場する機械人形のようなカクカクとした動き。「ボクはエラいんだ!」と虚勢を張り合うかのような、オスカルパペットとフェルゼンパペット。


例えば1990年の花組・大浦フェルゼンの時代には、冒頭で「愛の面影」を熱唱。どこかセピア色に変色したかのような、遠い過去に追いやられてしまったかのような、それでいて甘やかな最愛の女性との邂逅を、情感籠った回想場面として綴られていた場面である。


何で生身の人間として描かないのだろう。

揶揄しているのか。自嘲しているのか。


確かに面白おかしな描き方として、登場人物たちを操り人形に見立てる手法は、時折目にすることがある。

古いところでは『タイムボカン』のエンディング。マージョたち3人組は操り人形だったと記憶している。最近では「ノイタミナ」枠の『サムライフラメンコ』。第2期エンディング上で、フラメンコガール3人組が、やはり操り人形になっていた。

もう少しアカデミックなところでは、英国の作家・サッカレー(別にシャレてるわけではないんですが…)。その長編作『虚栄の市』冒頭で、主要登場人物らが人形劇のキャラクターとして小芝居を見せるところから物語が始まる。


これらはいずれもちょっとおちゃらけて見せたり、風刺小説だったりするからパペットで一向に構わないと思うが、『ベルばら』はそれらとは違う。

フェルゼンとアントワネットの恋は、どんなに世間が後ろ指を指そうとも、彼らは実に真剣そのもの。我々観客もその積りで観ている。

それをいきなりおちょくられると、出鼻を挫かれるように思えてならないのだ。


パペット=操り人形には、天井から糸を垂らして彼らを意のままに操る人形師がいるわけである。

フェルゼンも、アントワネットも、オスカルも、お釈迦様の手の上で転がされる存在に過ぎぬというのだろうか?彼らは所詮、見えざる運命の操り人形、単なる手ゴマに過ぎぬのか?

そんな勘繰りさえしたくなるが、まぁ考えすぎなのだろう。


この『ベルばら』では、このパペットの後、フェルゼンが登場し、愛の面影」を熱唱する。ならば最初から生身のフェルゼンが生身のアントワネットと出会い、踊りを一曲。そこに生身のオスカルが割って入る。下手すりゃ喧嘩、否決闘となるところを、フェルゼンが度量の大きさを示し、潔くオスカルの詫びるところから、オスカルも秘かにフェルゼンを慕う端緒となる。

それでいいじゃないか。何がいけないのか?

マリー・アントワネット作の歌を無理にねじこんだ代償はあまりに大きい。


…こんなことばかり書いていては全く後に進まないから、先を急ぐとしよう。ここから一気に加速。


貴族たちがフランス情勢を語り合っている。風雲急を告げる状態。

→ベルサイユ宮では、フェルゼンとアントワネットの道ならぬ恋の噂で持ち切り。

→オスカル、フェルゼンにスウェーデンへの帰国を促すも、フェルゼンになじられ、苦悩。

→心秘かにフェルゼンを慕うオスカル、苦しい胸の内を歌に託す。

→ベルサイユ宮庭園で、逢瀬を重ねるフェルゼンとアントワネット。

→メルシー伯が、フェルゼン屋敷を訪れ、王妃と別れて帰国してくれと懇願。

→オスカル、近衛隊から衛兵隊へ転属。

→遂にフェルゼン、帰国の決意を固め、王妃に別れを告げに来る。オスカル、謝意を述べるが、その態度から、フェルゼンへの秘めたる想いを、当のフェルゼンに悟られてしまう。

→そんなオスカルの苦悩を知りつつ、アンドレ、オスカルを命を懸けて守る決意を固める。

→フェルゼン、ベルサイユ宮のルイ16世のもとへ伺候し、帰国の挨拶。フェルゼン、大モテ状態。片手に白薔薇、片手に紅薔薇。


だが、男フェルゼン、心に決めるは紅薔薇一筋。一途に想う紅薔薇の、幸あれかしと潔く、身を翻し立ち去るは、姿形も見目麗しく、凛々しき残像観る者全ての瞼に残る。


これにて第1幕終了。



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30分の休憩を挟み、第2幕が始まった。

小公子、小公女の歌で始まる。フランス情勢の緊迫を告げ、可愛らしいがどこかもの悲しげだ。


場面はスウェーデンへ飛ぶ。

花祭りの娘たちが歌い踊る中、半ば幽閉状態のフェルゼンの元へ、旅装のジェローデル大佐が遠路はるばるフランスからやってきた。

フランスで革命が勃発し、国王一家がチュイルリー宮に幽閉されたことを告げに来たのだ。


「オスカルはどうしたのだ?」そう尋ねるフェルゼンに、オスカルもアンドレも戦死したとジェローデルは悲しそうに告げた。


ここから回想シーン。


*****


パリ市街では、王家への反逆者が捕えられているバスティーユ牢獄を奪還すべく、市民たちが蜂起する


→オスカル率いる衛兵隊に、市民への攻撃命令が下る。

→動揺する衛兵隊士たち。対する市民たちの中には、彼ら衛兵隊士の家族もいる。

→そこへオスカル帰還。

→続いてやって来たブイエ将軍は、隊員たちに市民を殲滅せよと命ずるが、彼らは隊長オスカルの言う事しか聞かない。

→業を煮やしたブイエ将軍は、オスカルが女性であることを理由に侮辱する。

→オスカルは意を決し、ブイエ将軍の命に背いて市民側に就き、革命に参加しようと宣言する。


→遂に砲撃が始まる。

→オスカルを心配して戻ってきたアンドレ、オスカルの前で撃たれ、戦死する。

→泣き叫び、駆け寄ろうとするオスカルをジェローデルが必死に止める。

→オスカルは悲しみを振り切り、毅然として市民たちを率い、手始めに同士が囚われているバスティーユの攻撃へと向かう。

→激しい戦闘の踊り。

→やがてオスカルの胸を非情の銃弾が貫いた。

→気力を振り絞り、敢然と立ち向かわんとするオスカルを再び銃弾が襲う。

→その時、バスティーユに白旗が揚がった。


「ついに陥ちたか…フランス…万歳。」

オスカルは息を引き取った。


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ジェローデルの話を聞いたフェルゼンは、国王一家を救出すべく、妹ソフィアの止めるのも聞かず、再びジェローデルと共にフランスへ向かった。


→チュイルリー宮。国王一家は幽閉されている。皮肉にも、アントワネットは、夫・ルイ16世と子供たちと、初めて家族水入らずで向き合える幸せを実感していた。

→そこへ革命委員会からルイ16世召喚の声が掛かり、国王は連れ出されてしまう。

→やがて王子、王女たちも。アントワネット、懇願空しく幼きわが子たちとも引き離され、よよと泣き崩れる。


「あなたたちも人の親でしょう」と激しく抗議するアントワネットに、男たちは侮辱の言葉を投げつけ、彼女の髪をひっつかみ突き飛ばす。

男たちは、アントワネットが贅沢な暮らしを続けていた時、酷い窮状にさらされ、疾うに子供たちを失っていた。


…昨年の『フェルゼン編』では、この場面の代わりに、個人的には不愉快極まりない“森の場面”が入っていた。

国境に差し掛かったフェルゼンとジェローデルに、スウェーデン兵士たちが襲いかかる。

応戦しようとしないフェルゼン。アントワネットに災難が降りかからぬよう、剣を封印したというフェルゼンに対し、兵士たちはアントワネットを侮辱するあらん限りの言葉を投げつける。

それでとうとうフェルゼンの堪忍袋の緒が切れて、封印していた剣を一閃。兵士どもを峰打ちで薙ぎ倒し、足早に立ち去った。


フェルゼンのひたむきさを示すための場面なのだろうが、スウェーデンの国境警備の兵士たちが、あそこまで憎々しげにアントワネットを侮辱する筋合いなど本来ない筈である。


「色男め、これまで散々ええ思いしやがって。お前ぇが好き好き言うてる女は、一皮剥けばとんだ馬鹿女じゃ、ざまぁみれ」

野次馬どもが実害も受けていないくせに、世の動きの尻馬に乗って、正義漢ぶって偉そうなことを言っている。

フェルゼンからしてみれば、「何でおまえらにそない悪う言われなあかんねん。ええ加減にしいや!」…そんな心境であったろう。


下衆い奴らには、「フッ、男の嫉妬はみっともないですよ」位言うてやれ。

そうも思うが、そんな嫌味を見せないところが、フェルゼンのフェルゼンたるところだ。


…それに比べれば、革命委員会たちはフランス国民当事者で、実際、困窮生活の末、我が子を喪ったりしているから、アントワネットを憎むのも、まだ説得力があるといえる。

昨年の『フェルゼン編』は、アントワネットの存在感が薄すぎると書いたが、この「マリー、我が子と無理やり引き裂かれ」の場面が復活したことで、少しはマリー・アントワネットの存在感が増したといえようか。

それが『フェルゼン編』『フェルゼンとマリー・アントワネット編』の違いということなのか。


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一方パリ市内。意外に気丈でしっかり者のロザリーに問い正され、夫ベルナールが国王一家救出計画を告白する。

この革命は失敗だった。市民たちの生活は少しも改善されてはいない。結局は貴族たちの権力争いに利用されただけだと吐き捨てるように言うベルナール。


昨年の『フェルゼン編』では、ベルナールだけではなく、アランも救出計画に加わっていたのが新鮮に思えたが、この公演ではベルナールのみになっている。


漸くフランス国境にまで至ったフェルゼンとジェローデル。

農夫たちの噂話から、ルイ16世は既に処刑されたことを知り、アントワネットが今ではカペー未亡人と呼ばれ、近く裁判にかけられると聞かされる。

馬車を駆り、王妃の元へフェルゼンはひた走る。(「ゆけフェルゼン」の場面)


大劇場や東京では、背景にスクリーンを張り、樹々の映像が背景で流れていた。それよりは規模の小さいこの劇場で、どう処理する積りなのか知らん? そもそもカットされるかも…そんな心配もしていたが、確かNHK-BSの番組で、原作の池田理代子さんが「この場面、私、好きなんですよ」と言っていたし、フェルゼンのひたむきさがはっきりとわかり易く示される場面だから、流石に省略はしなかったとみえる。

スポットライトを組み合わせ、曖昧模糊たる影像で、流れる樹々を表現し、スクリーン問題は何とか解決。(モネの『睡蓮』みたいだが…)


さて遂に最終場面。コンシェルジェリー牢獄。

一人囚われの身となっているアントワネット…今ではその名も禁じられ、カペー未亡人と呼ばれてる。その身の回りの世話をロザリーがしている。

ロザリーの夫ベルナールが、最後の面会人を連れてきた。

メルシー伯爵であった。

彼はカペー未亡人に、ステファン人形を返しに来たのであった。

輿入れの日、一日も早く大人になって頂きたい一心で、アントワネットが大切にしていたステファン人形をとり上げたのだった。ところが大人になってしまったばかりに…と王妃の運命を嘆くメルシー伯。

アントワネットは、そんなメルシー伯をねぎらう言葉を掛け、最後の別れを告げた。

一人残され、ステファン人形に語りかけるアントワネット。もはや死を待つのみ。


そこへ黒マントに身を包んだフェルゼンが現れた。全ての手順を整え、今、王妃救出に来たのだ。アントワネットは感極まって涙を流す。だが、フェルゼンの申し出を断った。

フランス王妃として、幼き王太子、王女の母として、その責任を放棄することはできない。行方知れずの子を放って逃げることはできない。切々と訴えかけた。


尚も懸命にかき口説こうとするフェルゼンに、アントワネットは、これまで耐えに耐えてきた互いの愛のありようを説き、このまま死なせてくれることがせめてもの思いやり、愛の証だという。


フェルゼン、苦悩と無念の気持ちをぐっと抑え、精一杯の笑顔を愛する人に向けて見せた。

フェルゼンの胸に飛び込むアントワネット。力強く抱きしめながら、今生の別れに無念の思いがこみあげる。

そこへ遂にアントワネット召喚にベルナールがやって来た。

アントワネットは咄嗟に形見にとステファン人形をフェルゼンに渡し、フェルゼンは身を隠す。


召喚に応じるアントワネットを物陰から飛び出して追おうとするフェルゼンに、ロザリーが必死に追いすがる。


どうしようもないやるせなさに深い哀しみを覚え、フェルゼンは涙ながらに歌う。


「♪愛、それは悲しく 愛、それは切なく…」


手にはしっかりとステファン人形を握りしめながら。


断頭台を昇ってゆくアントワネットの姿が重なる。一歩一歩確と階段を踏みしめるように。


「王妃さま…あなたは私の胸の中にいつまでも生きています。

あのベルサイユに咲く紅薔薇のように。」



「さようならベルサイユ、さようならパリ、さようならフランス」


アントワネットは静かに段上へと消えた。


…断頭台、大階段なしでどう表現するのだろう?

最初から心配していたが、案の定階段はたったの三段。

「愛あればこそ」のどのタイミングで、貴重な1段を上るのか、ふくらはぎが痛くならないか?アントワネット!

そんな余計な心配をよそに、例え上る階段の段数は減っても、厳かな雰囲気と漂う悲哀は決して褪せることはなかったと、王妃の名誉のために申し上げよう。


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続いてフィナーレ。

ロケット→「バラのタンゴ」→「愛の柩」→「愛の讃歌」

と続き、最後はパレード。

エトワールは、女役がソプラノの声をあらん限り振り絞ってくれるほうが好きだが、最近の公演では最後の音程が下がってしまうのが、今一つ物足りない。場合によってはちょっとばかりは無理させろ。


銀橋が無いから、最後は舞台前面を楕円形にぐるぐる回る。

ハイッ、ここに銀橋があると想像してッ!

そんな声が聞こえてきそう。

そして華やかな舞台に幕が下りた。


再び幕が上がり、舞台挨拶。大阪での公演は楽日である。

全国ツアー公演らしく、ご当地出身者の名乗りの後、この後色々回りますので是非来て下さいというが、券は余っているのかどうか。


大阪→富山→府中→市川→山形→秋田→仙台→青森→大館→札幌


富山から東京・府中が中1日だったりするので、かなりの強行軍。

国鉄時代の特急「白鳥」も真っ青という行程。


昔は「地方公演」といっていたが、大阪、東京、神奈川なども含め、この公演のように西から東、更に北上するパターンや、北から南下、九州へ至るパターンもある。


現代版、ドサ回りといってよいのか悪いのか。


そして今度こそ幕が下りた。


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開幕前と、幕間で、手に入れたばかりの原作11巻をひたすら読んだ。



初っ端の話は、何か既視感を覚える話だな…と思っていたら、宝塚でも何度かやった『外伝・ベルサイユのばら アンドレ編』の原作らしい。

アンドレの幼馴染が、漫画では流石に博多弁じゃないのか…そう思って調べてみたら、漫画ではクリスティーヌ、宝塚ではマリーズと、名前が違っていたことが判明。


『アラン・ド・ソワソン編』では、オスカルの姪っ子・おしゃまなル・ルーちゃんが出てくるが、いつの間にやらオスカル譲りの美貌の持ち主に成長を遂げ、こうなれば、トウモロコシみたいな縮れた髪がワサッと結ばれたお馴染みのヘアスタイルが、却って神々しく見えてくるから不思議である。


因みにル・ルーちゃんが活躍するのは『ベルサイユのばら外伝』。宝塚は『外伝・ベルサイユのばら』。あーややこし。これらは全くの別物なのだ。


11巻のエピソードの数々は、総じてあっさりしているというか、ヨシッ何か事が始まるのかな?と思いかけたら、あれっ終わっちゃった、という印象がある。

クリスティーヌが、アンドレの祖母マロン・グラッセに、アンドレの形見としてリボンを渡され、オルレアン公が帰ってくる前に秘かに埋めようとしているところへ、公が帰ってきて次期王座を狙う野心を示し、クリスティーヌは青ざめる。

その先、どうなるのか?

それが知りたい。だが、それはわからない。でも、伏線を張られて終わり。


フェルゼンが、アントワネットの娘、マリー・テレーズとウィーンで巡り会うというエピソードにしても、その後何かあるのかないのか?マリー・テレーズはその後どうなるのか?政略結婚の道具に使われるのか?フランスの土を再び踏むのはいつなのか?

折角、アントワネットそっくりの娘を出しておきながら、どうも消化不良に思えてならない。


ジェローデルにしてもそう。最初からオスカルを女性扱いした唯一の男、その身分の高きに恃み、オスカルの前に申し分なき求婚者として現れる男。そして引き際も申し分のない男。

だが、その後どうなったのだ?

宝塚の『外伝』では、ナポレオンとの対峙が描かれるが、漫画でもジェローデルのその後が知りたい。

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再び話は宝塚 『―フェルゼンとマリーアントワネット編』

大劇場や東京とは規模が違うので、出演総数30数名とこじんまりとしている。

フェルゼン役・朝夏まなと、マリー・アントワネット役・実咲凛音。

特に主役2人は姿形は美しいが、フェルゼンは肝心の「愛の面影」で声が裏返ってしまうなど、朗々と伸びやかな歌唱というにはまだもうあと一歩という印象を得た。

アントワネットのほうが落ち着いて見え、何だか年上にみえる。


折角オスカルとアンドレの出番を、ジェローデルの話を基にフェルゼンが回想、否想像という力技まで繰り出して、無理矢理第2幕にまで引きずったにも拘らず、思いつめたアンドレがオスカルに毒酒を飲まそうとする場面や、アンドレとオスカルが結ばれる「今宵一夜」の場面が、全てカットされてしまった。

これだと、オスカルはフェルゼンを想っている。そんなオスカルにアンドレは身分違いと分かりながらも、ずっと恋心を抱いている。そして、いつの間にやら、戦闘の場面で、「この戦が終われば結婚式だっ」と何故か意気投合。アンドレ、すっかり舞い上がり、オスカルの身を案じて戻って来ようとしたところ、撃たれて戦死。

…そんな流れになってしまうではないか。


私も含めて観客の大半は、原作漫画や他の宝塚版、或いはアニメ版なんかもしっかり読むなり観るなりして、予習を怠ることはないだろう。

あり余る予備知識が、カットされた場面の背景を過剰なまでにカバーする。だから、これでも良いのだろうが、この公演をいきなり初めて観たお方は、おったまげ村の村長になられるのではありませんこと?

アンドレよ、いつどうやって身分違いを乗り越えた?

フェルゼンに恋心を抱いていたオスカルを、どんなウルトラCで、自分の側に振り向かせることに成功した?

…この版のアンドレは、ある意味、すごい。


『オスカル編』で、フェルゼンもアントワネットも出て来ず、アンドレ&オスカル中心に物語を進める大胆演出が出てきたものの、この公演では逆に、オスカルとアンドレ、とりわけアンドレの出番が少ない。

そうかといって、マリー・アントワネットの存在感が増したかといえば、そうとも思えない。


「マリー・アントワネットはフランスの女王ですから」


こう誇らしげに宣言するアントワネットの姿を私は久しく見てはいない。


『フェルゼン編』、『オスカル編』、外伝とはいえ『アンドレ編』

主役3人まで単独冠名称の公演が実現しているのだから、いっそのこと原点回帰で『マリーアントワネット編』というのをやってくれよ。

近頃そんなことを思う。


しかし、やはりこの公演で気になるのはアンドレの存在感の薄さ。

第1幕終盤の、フェルゼン両手に花状態にも拘らず、どちらも振り切って私は故国へ帰ります宣言の場面で、遠回しではあるが、フェルゼンはオスカルの自分への秘めたる想いを、公の場で発表してしまった。

だが、オスカルの想いはもっと苦悩に満ちた、軍人として許されぬ封印すべきものではなかったか?

そんなに表沙汰にしてしまっていいものなのか?

アンドレの立つ瀬がないではないか。


お願いです、どうか影の薄いかわいそうなアンドレのことを、お忘れにならないで下さいまし。


…と、なぜだか最後は終盤フェルゼンに追いすがるロザリー風。


以下、次回に続く。

一部敬称略。