いつもより長かった今夏の高校野球も、遂にその熱戦の幕が下りた。
早い段階での有力校同士の対戦が多く、抽選による運不運をいつになく感じた大会であった。

八百屋に並ぶ果物の主役が白桃から梨に変わり始め、アブラゼミやミンミンゼミよりもツクツクボウシの鳴き声が目立つようになると、その先どんなに蒸し暑い日が続こうが、そろそろ夏の終わりを感じ始める。
そしてもう一つ。閉会式で「君が代」、続いて「栄冠は君に輝く」を聞くと、「ああ明日からは高校野球はやらないのか」と俄かに寂しい思いがし、夏の終わりが急に現実味を帯びてくる。

今年の準決勝、大阪桐蔭vs敦賀気比の対戦は、とりわけ“打ち合い”の印象が強い、久々に目にする壮絶な打撃戦であった。

甲子園での「打のチーム」といえば、やはり今も真っ先に思い出すのは、徳島・池田高校である。
本当は今春の選抜大会で久しぶりに同校が甲子園に戻ってきた、そのタイミングで作ればよかった文章だが、当時の新聞やら資料を家探ししている内に、完全に機を逸し、遂に夏まで持ち越した。それも大会終了後となり、やや遅きに失した感はあるが、夏の風物詩の一つということでご容赦願いたいと思う。



今宵語るは30年以上も前のこと。
当時中学生だった私は、全盛期の池田高校の、史上初の夏―春―夏三連覇を熱心に応援していた。

「さわやかイレブン」の時代は既に生まれてはいたが、幼児だったので全く見てはおらず、1979年の簑島vs星稜の伝説の死闘も、僅差で見逃してしまった。
この年、池田高校は決勝戦で簑島高校と戦い、敗れているが、松商学園、中京、高知、浪商とラインナップを見ただけで唸ってしまうような名門校ばかりと対戦し、勝ち上がってきた。
とりわけ準決勝の浪商は、牛島和彦―香川伸行のバッテリーで、ドカベンとあだ名された香川は当時大会新の3試合連続本塁打を放った強打者。それを破っての決勝進出。決勝戦も、奇跡の勝利を収めた簑島相手に終盤まではリードを奪うという善戦ぶりだったが、試合巧者の簑島相手に思い掛けない守備の乱れが出て、惜敗。

以上は、後で仕入れた知識。この年の大会を見なかったことが悔やまれる。

従って、池田高校の甲子園での活躍の歴史を最初から見てきたわけではない。
極めて断片的な部分しかリアルタイムでの視聴経験はない。
そもそも最初から池田ファンだったというわけでもない。
そこへ至るちょっとした経緯から、まずは述べようと思う。

**********

高校野球を見始めたのは1980年(昭和55年)夏からであった。
早稲田実業(早実)は、当時住んでいた場所に割と近く、1年生投手・荒木大輔が一気にスーパースターとして騒がれ始めた年でもあった。
記憶に残るのは決勝戦である。早実vs横浜という、史上初の京浜決戦となった。
横浜のエースは、後にロッテへ入団し、プロでは打者として活躍した愛甲。
試合は早実が先制するも、すぐさま横浜が逆転。そのまま横浜リードが続くも、早実も追い上げを見せ、1点差に迫る。横浜は同じサウスポーの川戸へスイッチ。この川戸投手が好投し、早実の反撃をかわす。荒木からスイッチした芳賀という2年生投手から、更に追加点を奪った横浜高校が6-4で優勝した。
9回表の川戸投手の気魄のピッチングが印象に残る。

*****

翌1981年春は、応援していた早実が、東山高校相手にまさかの初戦敗退。高校野球観戦の記憶は殆どない。寧ろこの時期は、『加山雄三のブラック・ジャック』、『鏡地獄の美女』、『将軍』と、後の映像系趣味に多大なる影響を及ぼす作品を立て続けに見たことのほうが印象に残っている。
優勝したのは大阪のPL学園。千葉県代表印旛高校を9回裏逆転サヨナラ勝ち。選抜初優勝であった。1978年夏以来の「逆転のPL」を体現した試合だったが、視聴せぬままに終わっている。

*****

同年夏は、お盆の時期、神戸の祖父母宅へ行っていた。既に不動の人気を誇るスター選手になっていた荒木がエース、同じく1年夏からレギュラーだった2塁手の小沢。彼らを中心に早実は順調に勝ち上がっていった。当時、荒木大輔のミーハー的人気への軽い反発からか、寧ろ応援していたのは小沢のほうである。頬がこけた、小兵ともいうべき決して恵まれた体躯ではなかったが、守備が抜群に上手く、先頭打者としてよく打った。非常に残念なことに不治の病でこの世を去って久しい。記憶に残る名手であった。
そして3回戦。この年、有力な優勝候補の1つであった兵庫代表の報徳学園と、早実は早くも激突した。
神戸・板宿の祖父母宅で、TVでこの試合を見ていた。母と私は早実を応援し、祖父は地元なので報徳を応援していた。(母は昔からプロ野球は嫌いだが、高校野球は好きだと言っていた。)
試合は早実ペースで進んだ。4-0でリードしていたが、小沢の超美技が見られたものの、微妙な判定は報徳有利に働き、遂に9回裏報徳が追い付いて、延長戦に入った。急に相手方に変わった流れは戻らず、早実は敗退。

勢いに乗った報徳学園が、結局この年優勝した。報徳のエースで4番だったのは金村。後に近鉄バッファローズで打者として活躍した姿が記憶に残る。大石、新井、ブライアント、リベラ、淡口、鈴木、金村、山下、真喜志という、1989年頃のいてまえ打線の一角を担っていた。

この年、確か早実敗退で呆然とした後、ポートピア'81に行った。高速神戸駅が人で人でいっぱい。ポートピア会場内に至るまでずっと超満員の状態が続いた。パンダは上野で見ていたのでパスし、一番人気のダイエー館に3時間並んだ末、20分の映像を観たが、半球形スクリーンに映し出された雪山の絶壁から空へ飛び立つ映像で、乗り物酔いの状態になり、ヘロヘロのまま帰ろうとしたら、夜9時過ぎにポートライナーが止まり、板宿へ帰り着いたのが夜11時近かった覚えがある。
その後、神戸から祖父を伴って東京へ帰り、新宿・末広亭で生れて初めて寄席を見た。三遊亭円丈の全盛期であった。
この年の夏は、高校野球よりも、それらの思い出の方が強い。

*****

翌1982年春。初めて甲子園へ高校野球を観に行った。
この頃はまだTV観戦も限定的で、後で壮絶な試合だったと知った、簑島vs明徳、続く簑島vsPL学園の対決のさまは見ていない。
早実は準々決勝で今度は「Y校」の愛称で親しまれる横浜商業と対戦。早実有利という下馬評をよそに、横浜商に逆転負けを喫した。この時の横浜商のエースが、当時新2年生だった三浦将明投手である。
甲子園に向かったのは準決勝戦。第1試合、二松学舎大付属vs中京である。
父と一緒に行ったのだが、目の前で実際に行われているにもかかわらず、TV観戦に慣れてしまった目には寧ろ勝手がわからず、携帯ラジオで解説を聞きながらの観戦であった。
2年生エース・野中を擁する中京を二松学舎が破り、父から「次の試合も観ていくか?」と聞かれたが、首を横に振ってしまった。
今にして思えば、第2試合も是非観ておくのだった。
PLvs横浜商の対決は、横浜商が押していたが、途中で2-2の同点に追い付いたPLが9回裏サヨナラ勝ちを収めた。
多分この日の午後、神戸から東京へ帰ったのだと思う。

翌日の決勝戦は、東京の家でTVで観た。
PLvs二松学舎。後から思えば珍しくPLが先攻であった。
プレイボールがかかり、サイレンが鳴る。まだサイレンが鳴りやまぬ内に、先頭打者・佐藤がいきなり放った初級ホームランが強烈な印象に残っている。その後もPLが押し、終盤大量点が入り、終わってみれば15-2の大差であった。
二松学舎も地元東京ということで、敗けた早実の代わりに同校を応援していた自分にとって、特にこの佐藤選手は「いやなバッターだなぁ~」と思いながら見ていた。
それまでも大阪のPL学園という名は何となく聞いて知ってはいたが、その試合を見たのはこの時が初めてであった。強打というイメージは当時まだなく、宗教学校、ソツのない嫌らしい野球をしてくるところ…そんなイメージを抱いていたが、決勝戦で15得点というのは、既にこの時から強打のチームでもあったのだろう。
当時はあまり実感がなかったが、これでPLの春2連覇が成し遂げられた。

**********

同年夏、遂に荒木大輔最後の夏となった。1年生から共にレギュラーだった名手・小沢がキャプテンになっていた。
私はやはり早実を応援していた。
後で調べてみると、この年、センバツ優勝校のPL学園を始め、簑島、明徳、横浜商と有力校が相次いで予選敗退を喫するという波乱含みの大会となった。
当時は全く知らなかったが、後に西武ライオンズで活躍した佐賀商の新谷投手が、あと一人で完全試合達成というところまで行きながら、27人目の打者に痛恨のデッドボールを与え、惜しくも大記録達成を逃したということがあった。

早実は順調に勝ち進んだ。
一方、強打といわれる徳島・池田高校も順調に勝ち進んでいた。当時1979年以前のことを全く知らなかった私は、「池田」ときくと阪急宝塚線の同じ名の駅を連想する程度で、碌に試合も観ていなかったが、9番を打つ山口という選手が下位打者にも拘らず2試合連続ホームランを打つという大活躍を見せ、ラッキーボーイとしてニュースなどで取り上げられていたことはよく覚えている。
インタビュー映像で、赤黒く日焼けし、やけに分厚い唇で早口でまくしたてる様子を見ながら、秘かに「アカザムライアリ」とあだ名をつけた。決して大きくはない体躯と痩せた顔で、目立つ口で相手にガシッと嚙みついて退治するように思えたからだ。
後で同選手が、1回戦で打球を唇に当てる怪我をして、流動食しか食べていなかったことを知った。決して「アナゴさん」ではなかったのだ。

だが、後のイメージとは異なり、池田はそれほど大差で圧勝してきたわけではなかった。当時、早実以上に住んでいた家に近く、殆ど地元といってもよかった日大二高が2回戦で池田と対戦しているが、4-3で惜敗している。この時、殊勲打を放ったのが山口選手である。

そして準々決勝。早実vs池田対戦の時を迎えた。
後の池田の戦い方からすれば珍しく、この試合は池田が後攻であった。早実がジャンケンで勝って先攻を選んだという。
1回表、先頭の小沢がいきなりヒットで出塁したが、チャンスはつぶれて無得点。
その裏、当時2年生だった池田・江上の大ホームランが飛び出す。これを皮切りに池田の猛攻が始まった。長打、単打、野選、四球、タイムリー…2回裏で5-0となってしまった。
その後は暫く試合は動かず。
池田のエース畠山は、飄々とした顔つきで、しかし早実打線を全く寄せ付けない。
6回表、漸く早実にチャンスが訪れる。
ノーアウト満塁からタイムリーが飛び出し、2点を返す。だが後続が断たれてしまう。
ピンチの後にチャンスあり。チャンスの後にピンチあり。
その裏、江上を1塁に置いて、5番ライト・水野の放った打球は、ものすごい金属音を残してセンター・バックスクリーン横へ飛び込む大ホームラン。
大真面目な顔つきで打席に入った水野が、ベースを回りながら両手を上げて喜んでいるのが印象深い。

確かこの後、池田は好投のエース畠山から、2年生の水野にピッチャーを代える余裕を見せた。
アナウンサーが「来年のエース、水野君です。」と言っていたのを覚えている。
だが、この時の「ピッチャー水野」はピリッとしなかった。
ストライクが入らず、すぐ畠山に戻されてしまった。

そして8回裏。荒木大輔が連打を浴び、遂に降板。早実の投手は石井に代わった。
だが池田の猛打は止らない。ノーアウト満塁となって、バッターは再び5番・水野。
ファウルで粘った後、カウント2-3からバットを一閃。強烈な金属音を轟かせ、打球はあっという間にレフトスタンドに飛び込んだ。満塁ホームラン。これで11-2。完全に勝負あった。

石井はKOされる形で、再び荒木大輔が外野からマウンドに戻ってきた。だが、その荒木もまた打たれ、更に3点。
結局、14-2。池田の圧勝であった。
まさにボコボコにされたという印象。これまで応援していた早実が、絶対エースとして君臨してきた荒木大輔がメッタ打ちに遭うさまを悔しいとか、畜生とか、そんな感情は途中から失せ、池田打線の途切れることのない猛打に半ば呆れ返りながら、見ていた。

こうして荒木大輔投手の最後の夏は終わった。
代わった石井投手は、後に西武ライオンズの先発投手陣の一角を担うようになった石井丈浩投手である。そのことを後に知って、大層驚いた。

この呆れ返るような猛打線を何とか抑えて、壮絶に散った早実の仇を討ってくれ。
私はそんな思いから、この後の準決勝、決勝と、悉く池田高校の対戦相手の方を応援した。
この時ばかりはアンチ池田になっていた。

準決勝の第1試合は、ここまでしたたかに勝ち上がってきた中京vs広島商業。古豪対決である。
エース野中を擁する中京だったが、試合巧者の広商がしぶとく勝った。

第2試合は池田vs東洋大姫路。兵庫県の強豪チームである。
投打にしぶとく、粘りのチームである東洋大姫路が1回裏に2点を先制したが、続く2回表、池田がすかさず同点に追いつく。その後、両投手投げ合いの膠着状態となる。
試合が動いたのは6回表。池田は2アウトランナーなしから下位打線のヒットとホームランが飛び出し、2点勝ち越し。これで東洋大姫路の投手が崩れなかったのは流石である。
8回裏、東洋大姫路も1点を返すが、粘りもここまで。
最後はエース畠山が踏ん張り、池田が決勝へ駒を進めた。

遂に決勝戦になった。
バントや盗塁で手堅く攻め、スクイズを決めて1点を挙げ、後はそれを守りきる。
元来、私はそういうスタイルの野球があまり好きではない。
とにかくガンガン打って勝つ。
そういう意味では池田野球こそ、好みの攻撃スタイルなのだが、この時ばかりは早実の仇を討ってくれと、最後の望みを広島商業に託し、台所から古いしゃもじを2つ持ってきて、広商応援団に倣い、しゃもじを叩きながら応援していた。

試合巧者でしたたかに勝ち上がってきた広島商だったが、2アウトから3連打。4球押し出しで1点先制。その後は連続2塁打。またタイムリー。いきなり1回表に一挙6点。
5番・水野や、9番・山口の打球は、叩きつけるバッティング。それが悉く内野手の間をすり抜け、ヒットとなる。よほど打球が速いのだろう。

この後、両チーム1点ずつ取り合うが、たまに出たヒットを、バント、スクイズ、ダブルスチールなどで揺さぶりをかけ、内野ゴロの間に点を返す。そんな攻撃では、池田打線の猛打に到底太刀打ちできるわけもなく、まさに大人と子供。
6回表には再び池田の猛攻。途切れることのない猛打攻撃。極めつけはエースで4番の畠山がレフトスタンドに放ったホームラン。

そして9回裏。広島商も2アウトから3盗を決めるなど、粘りを見せたが、最後は畠山がバッターを三振にとり、ゲームセット。
池田圧勝。相手を圧倒し、打ちに打ちまくり、そのまま押し切った感があった。



早実がコテンパンにやられた相手ということで、池田を敵視してきたが、豪快な打球を次々に放つ途切れるところのない選手たちもさることながら、これまでずっと見てきて、ある意味、それ以上に脅威を感じたのは、池田高校の蔦文也監督であった。

ベンチから選手たちに指示を送る蔦監督は、風体からして他校の監督とは違っていた。
濃紺の野球帽からのぞく白髪頭。赤銅色に日焼けした皺だらけの顔に、鋭い眼光が光る。
「最後まで気を抜くな。相手を完膚なきまで叩きのめせ。どんどんやれ。」
そう言っているように見えた。
当時、私は蔦監督のことを、魔法使いの老婆のようだと思い、恐れていた。

池田高校初優勝の後、蔦監督がTVに出てくることが多くなった。
グラウンドを離れた蔦監督は、関西弁と同じアクセントでいながら、もっと素朴な語り口の徳島弁を丸出しにし、社会科教諭として教鞭をとる姿は親しみやすい田舎の爺さんという感じであった。魔法使いの老婆ではなかった。

映し出される選手たちも、素顔に戻れば素朴な高校生であり、いつしか「早実の仇」という印象は全く失せていた。
選手たちの練習風景も紹介された。
とにかく打つ方で目立たねばならない。ウェイトトレーニングを積極的に取り入れ、筋力をつけるという方法は、当時としては珍しい方法だったらしい。

その年の秋、エース・畠山は、ドラフト1位で南海ホークスに指名された。後に野手に転向。大洋(横浜)に移籍。最後は代打の切り札として活躍し、チーム優勝に貢献したことは未だ記憶に新しい。

*****

翌1983年春。今度は池田が絶対王者として甲子園に帰ってきた。
他校チームは悉く「打倒池田」を旗印に、甲子園に乗り込んできた。

開会式直後、いきなり広島商vs横浜商という好カードでこの大会は始まった。
前年夏の準優勝校・広島商を、横浜商が圧倒。7-2でY校が勝った。

「打倒池田」の1番手は東東京代表の帝京であった。だが、そんな合言葉も空しく、11-0で池田が完勝。



池田の主軸は、エースの4番の水野である。前年夏から打者としてはすごい選手だったが、早実戦で少しだけ投げた時は、投手としてはパッとしない内容で、すぐ外野に戻ってしまっただけに、「ピッチャー水野」はどうかな?と思ったものだったが、見違えるような剛腕投手になっていた。
ガッシリと太った安定感のある下半身がどっしりと座り、右手を大きく振ってブン投げるという感じで、まさにちぎっては投げ、ちぎっては投げという印象。
スピードと球威のある直球、キレの良いスライダーに大きなカーブ、右打者の懐をえぐるようなシュート。これらを武器に、テンポ良くポンポン投げる。抜群の安定感であった。

この後、帝京の前田監督は池田を倣ってウェイトトレーニングに重きを置く練習方法を取り入れ、後の打のチームを作り上げていく。

帝京に続き、岐阜第一を10-1、大社を8-0と、その後も横綱相撲を見せ、順調に勝ち上がっていく。

唯一苦しんだ試合が、準決勝の明徳(現明徳義塾)戦であった。
明徳のエースは2年生の山本賢(さとし)投手。
この山本賢というピッチャーは、くしゃっとした地味な顔つきをしていたが、非常にコントロールが良く、キレの良いカーブ、ズバッと伸びのある直球を投げ込む。
試合中、実況アナウンサーが何度も「制球力のある」と評しているのを聞いた。
何となくのらりくらりと池田の強力打線をかわしながら、要所要所をビシッと締める。そんな投手であった。



試合は、2回表、明徳がヒットとエラー、死四球を足がかりに、バッターだった山本賢が3バントスクイズを決め、1点先制。
その1点を池田が追う展開となった。
なかなか点が奪えない池田打線。
これが強者の負けパターンなのか…観戦していて焦りを感じだした頃、試合も大詰め8回裏。
バッターは「8番ショート」の松村。猛打池田打線の中、この選手だけがあまり打たない印象があり、実際小柄で可愛い顔付をしていた。
その松村が放った打球に対し、エラーで出塁。続くはラストバッターのキャッチャー井上。
井上選手は端正な顔立ちで、人気があった。
蔦監督の指示は強打。井上がそれに見事に応え、タイムリー・スリーベース。松村が一気にホームイン。流れは一気に池田に傾き、続く1番坂本がタイムリー。遂に2-1と池田が逆転に成功した。
この試合、池田が苦しんで苦しんで辛勝という展開であった。こういった試合も落とさず、しっかりとモノにする池田は本当に強いと思った。

続く決勝戦。相手は、星稜、駒大岩見沢、東海大一を破ってきた横浜商業である。
前年春、早実を破り、準決勝でPL学園に惜敗した時のエース、三浦将明投手が大きく成長を遂げて再び大舞台に戻ってきた。
三浦は手足の長いスリムな長身で、ずんぐりとした水野とは好対照であった。伸びやかなストレートと、大きなカーブを武器としていた。感心して見ていたのは、牽制球の上手さである。
素早い動作で牽制球を投げ、よくランナーを刺していた。

初回から池田が押し気味で試合は進んだが、得点には結びつかない。試合が動いたのは3回表。ランナーをため、3番江上の放った打球はショート後方にフラフラと上がった。これを追ったショート、レフト、ライトが三重衝突。ボールはセンターのグラブからこぼれ落ち、池田に幸運な先制点が入った。
続く水野がお得意の叩きつけるバッティングの内野安打。タイムリーとなり2点目。

中盤、池田打線は三浦を打ちあぐんだが、8回表、2アウトから江上、水野の連打が飛び出し、3点目。そのまま池田が3-0で勝ち、優勝を飾った。
点差はさほどではなかったが、終わってみれば池田の12安打に対し、横浜商業は2安打と、終始池田が横浜商を圧倒し、最後は押し切って勝利。そんな試合であった。



3年生が抜け、世代交代を余儀なくされるため、春夏連覇よりも、夏春連覇のほうが難しいといわれる。
そんな中で、エースで4番だった畠山準選手が抜けた後を、水野雄仁選手が同じ地位をしっかりと受け継いだ。投打の中心を軸に強力打線はますます磨きがかかり、新チームになっても威力は衰えることはなかった。

この頃になると、池田高校が勝利を収める度に耳にする同校の校歌をいつしか覚えてしまった。
「♪しののめの 上野が丘に 花めぐり
そびゆるいらか みどりこき…(中略)…
…ひかり ひかり ひかりを呼ばん
たたえよ池高 輝く池高
池高 池高 おおわれらが池高」

今でもソラで歌うことができる。
自分の母校の校歌でさえ、今となっては怪しいのに、直接的には全く縁もゆかりもない学校の校歌を諳んじることができるのは、ここ池田高校と、後に覚えたPL学園だけだ。

この動画は、1982年夏の早実戦勝利の際のものなので、力強い男声合唱だが、後に如何にも女子高生が歌っているような線の細い女声に変わり、これが豪快な打のチームのイメージに、ある種独特の清らかな印象を加え、同校の爽やかなイメージを増すこととなった。

最後の「♪おおわれらが池高」のところで、音程が高くなる。
その音階に女性の歌声がよく似合った。

すっかり甲子園でお馴染みとなった池田高校の校歌。
観客たちは大きな手拍子で校歌斉唱を迎え、その勝利を歓迎した。
熱心な観戦を始めていた私もまた、いつしかいっぱしの池田ファンになっていた。

このセンバツ大会優勝により、池田人気は更に増した。
ナインを率いる蔦監督は、今や時の人になっていた。

*****

1983年夏の甲子園。
この大会は強豪、古豪、有力校がひしめく大会となった。
池田、横浜商、中京、箕島、興南、高知商、広島商…まさに群雄割拠たる有様である。

水野雄仁(池田→巨人)、三浦将明(横浜商→中日)、野中徹博(中京→阪急)、吉井理人(簑島→近鉄)、仲田幸司(興南→阪神)、津野浩(高知商→日本ハム)…等々、翌年、この大会の多くの出場選手たちがプロ野球へ進んだことからも、それは窺える。

当時は全く知らなかったことだが、後にヤクルトスワローズのクリーンナップとして活躍した池山隆寛選手は、この年初出場だった地元・兵庫代表の市尼崎の主軸打者としてこの大会に出場している。

その中でも、やはり池田が優勝候補の筆頭に挙げられていた。
この大会の最大の関心事は、池田高校が史上初の「夏―春―夏」三連覇を達成するのか?それを阻止するチームが出てくるかどうか?ということであった。

大会が近付くにつれてTVで特集が組まれ、「三連覇」、「三連覇」と騒がれ、今よりも遥かに高校野球への注目度は高かった。

大会初日から、横浜商、興南、簑島と優勝候補が次々に現われたが、いずれも予想外の苦戦を強いられ、延長戦を何とか制した。
池田の初戦は3日目の大田工戦。初回、先攻の大田工が1点先制したものの、その裏池田がすぐに追い付き、その後も順調に池田が加点し、終わってみれば8-1であった。

有力校もそれぞれ勝ち進み、2回戦。
終戦記念日を迎えたその日の夕方、第4試合で再び池田は登場した。相手は宮崎代表の高鍋高校である。
初回から池田の猛打が爆発し、2点を先取すると、その後も順調に点を重ね、終わってみれば12-0。先発全員安打。中でも4番水野は5打数3安打3打点と大当たり、投げては強打の評判だった高鍋打線を4安打完封と、打って投げての大活躍であった。
当時残した新聞切抜に、「″怪童″水野」の字が躍る。



翌日、早くも広島商と興南が激突。広島商が4-3で勝った。

次の日から3回戦が始まった。池田vs広島商。早くも昨夏決勝と同じカードとなった。
試合は池田ペース。2回表に水野自ら先制ホームランを放ち、その後も3点を挙げる。

ところが5回表、衝撃のアクシデントが起こった。
水野が頭部直撃のデッドボールを受けたのである。

打席で昏倒した水野はそのまま動こうとせず、特別代走が送られた。
その裏、治療を終えた水野がそのままマウンドに上がったが、それまでのイキの良さが完全になくなり、明らかに球の勢いが失せた。
広島商の反撃を受け、連続タイムリーで2点を奪われ、4-2。
尚も続く反撃を何とかかわし、7回を迎えた。

ヒットと四球で追加点のチャンスを作った池田だったが、続く江上、水野が凡退。三振した水野の状態が本調子でないのは明らかだった。
チャンスは潰えたかに見えたが、ここで続く5番吉田が会心の一撃を放つ。レフトスタンドへの3ランホームランとなり、これで勝負あった。

気力で投げた水野が、反撃を8回の1点に抑え、7-3で池田勝利。

試合後のインタビューで水野は、デッドボールは関係なかったと相手投手をかばう発言をしていたが、蔦監督は怒りを露わにしていた。
「気合では負けていませんでした」と平然という、負けた広商投手に、私は怒り心頭であった。
昨年夏の決勝でコテンパンにやられた意趣返しではないか?
そんなことさえ思ったが、実際随分後になってから読んだ畠山、水野両エースの対談記事で、畠山が「このときのお返しやないの。」というほど、衝撃的な出来事だった。
それまで水野は12打数10安打。当たりに当たっていたが、その後、打撃は振るわなくなってしまったのだから、池田三連覇最大の危機といってよかった。

釈然とせぬ思いはしたが、池田は勝ち残った。
続く第2試合では、ダークホースの活躍を見せた地元・市尼崎を、久留米商が逆転サヨナラで破った。涙の勝利会見が記憶に残る。

続く試合ではPL学園が東海大一に快勝。この年のPLは、エースと4番打者が1年生で、彼らを上級生がバックアップしている印象だった。その1年生たちこそが、KKコンビであった。

優勝候補の一角、中京は宇都宮南相手に1-0と辛勝。

翌日は、高知商vs簑島。優勝候補同士の激突である。津野の満塁ホームランで相手を突き放した高知商が8-2で勝利。早くも名門・簑島が姿を消した。

その後の抽選で場内は湧き立つ。準々決勝第1試合で早くも池田vs中京のカードとなってしまったせいだ。

そして翌朝、いよいよ池田vs中京の決戦の火ぶたが切って落とされた。
この試合が、事実上の決勝戦といわれた。

初回から池田打線が野中投手に襲い掛かる。初回こそ得点には結びつかなかったが、漸く2回に先制。1点リードのまま進んだ。
前の試合の頭部死球の影響が心配された水野だが、この日はスライダーがよく冴えた。中京打線を寄せ付けない。
攻守交代の際、互いの好敵手を認め合うかのように、水野と野中は笑顔を交わしながら、ボールを手渡しし合う場面が見られ、緊迫した中にも爽やかな雰囲気が流れていた。

5回裏に中京が同点に追いつく。

そのまま両者がっぷり4つに組んだ状態が続き、遂に9回まで来た。
先頭打者山田が投ゴロであっさり倒れ、続くバッターは7番ファースト高橋。
0-3から2球続けてストライク。2-3となった後の6球目。真ん中高めのボール球を高橋は強振。
ものすごい金属音を響かせ、打球はレフトスタンドへ飛び込んだ。
打たれた瞬間、野中はマウンドにしゃがみ込んでしまった。
これで2対1。均衡が破れた。

続く8番松村。冷静さを欠いたか、野中が投じた高めの直球を松村が強振。右中間を破る3塁打となった。
やまびこ打線の猛打の中で、あまり打たない印象があった松村だが、ここは見事に決めた。

続くは9番キャッチャー井上。バントの構えからバスター気味に強打すると、鋭い金属音と共に打球は1・2塁間を抜くタイムリー。これで3点目。勝負あった。
続く1番坂本にもヒットが出て4連打。この試合、池田は野中に14安打を浴びせた。

最終回、9回裏。水野がきっちり三者凡退に抑え、試合終了。
水野のデッドボールの不安は完全に消えたように思われた。
手拍子鳴り響く中、校歌斉唱を目にし、三連覇がいよいよ見えてきたように見えた。


試合後の勝利インタビュー。蔦監督が高橋の決勝ホームランのことをきかれると、「あの子は当たればレフトのほうに長打が出る。当たればいちばん飛ぶ。但しアウトコースに弱い」、ダメ押し点につながる松村の3塁打に対しては、「打たないもんが、ショートの子が打ちましたからねぇ…」、如何にも蔦監督らしい受け答えであった。

水野の投球に対しても質問があった。蔦監督はデッドボール以降、水野が全力投球ができなくなったが、上手く緩急織り交ぜたピッチングをしていると言っている。実際、この試合ではそれが良い方向に現われた。

この試合の後、準決勝の抽選があった。次の対戦相手はPL対高知商の勝者と決まった。

PLvs高知商の試合は惜しいことに、きちんと見てはいない。
序盤からPLが圧倒。2塁打攻勢で5回表が終わったところで8-0の大差がついた。
1年生4番の清原も3長打の大暴れ。
ところが5回裏、背番号11番を付けた1年生投手・桑田が突然崩れる。一挙に5点を奪われ、KOされる形で降板。
その後激しい点の取り合い。PLは2点を追加し、10-5と突き放すが、その裏、桑田に代わっていたエースナンバーをつけた3年生投手・藤本耕から、高知商のエースで4番の津野が、起死回生の満塁ホームラン。これで10-9。
だが、あと1本が出ず、PLが辛くも逃げきった。



そして翌日、準決勝が始まった。
池田vsPLの対戦である。

先発は1年生投手桑田。前日の高知商戦では5回、プレートに指をぶつけてしまい、それで調子を崩したということだったが、大事には至らず、マウンドに上った。

先攻は池田。あっさり2アウトの後、江上、水野が連打。これで桑田はブルブルッときたという。
続く5番吉田の放った痛烈なゴロは、桑田の足元を抜けようかという打球だったが、それを桑田が好捕。0点に抑えた。

試合は2回裏に動いた。1年生の4番清原三振の後、5番キャプテン朝山が四球で歩くが、続く山中はスライダーで三振。次の小島は2-1と追い込まれ、外角低めへ渾身のストレートが決まって見逃し三振…と思ったら、主審の手が上がりかけるも、ボールの判定。
「あれは絶対ストライク。それをボールと判定されてカチンときました」と後に水野が語っているのを読んだことがある。
外角低めに放った直球を、小島が強振。右中間を破るタイムリー2ベースとなり、PLが先制点を奪った。

この小島は、正捕手だった森上が1回戦で怪我をしたため、代りにキャッチャーに就いた選手であった。それが殊勲の先制長打。嫌な予感が広がる。

続くバッターは8番ピッチャー桑田。4月1日生まれの桑田は、あと1日生まれるのが遅かったら、まだ中学生だった。ひょろっと痩せたひ弱な感じがしたが、2-0から高めのウェストボールを強振すると、鋭い金属音と共に、打球はあっという間にレフトスタンドへ飛び込む2ラン。
衝撃的な1発であった。

続く9番住田。2ストライクから水野が放った高めのストレート。これもレフトラッキーゾーンに運ばれ、連続ホームラン。

「いつも自分がやっていることを、相手にやられてしまいました」
興奮気味に話すアナウンサーの声がズシンと響く。
「池田のお株を奪う」という表現も未だに耳に残っている。

3回裏にもPLが追加点。これで5-0。
続く4回裏。先制打を放った小島に今度は1発が出る。6-0になってしまった。
これで水野は3本のホームランを打たれた。信じられないという顔つきで首をかしげている。

5回表、池田の攻撃。8番松村がライトへ大飛球を放つ。これをPLのライト神野が好捕。

PLの攻撃は小休止。

6回表、池田の攻撃。2番金山、3番江上とセンター前へ連打。打席には4番水野。だが、大きなカーブを打つと、鋭い金属音こそしたが、ピッチャー正面。捕球した桑田がすかさず3塁へ送り、続いて1塁へ転送。ダブルプレーとなる。2アウト2塁。バッターは5番吉田。これも大きなカーブを叩いてショートゴロ。池田は大きなチャンスを逃した。

7回表、前日の殊勲者・7番高橋。ライトに放った痛烈な打球を、神野が突っ込んで好捕。

この辺り池田が何とか押そうとするが、桑田の緩急自在の投球に翻弄、あるいはバックの好守備に阻まれ、どうしても点を取ることができない。

7回裏。PLに久々のヒットが出た。3番加藤が手堅く送り、1アウト3塁。4番清原を迎えるが、またしても三振。続く5番朝山の時、キャッチャー井上のパスボールで1点追加。遂に7-0になった。

そしてとうとう9回表まで来てしまった。
先頭打者は3番江上。だが江上はレフトフライに倒れる。
続く水野もつまった打球のセンターフライ。
5番吉田に代打・増富が告げられる。初球を打つと、打球は力なく上がり、ショートフライ。

ここに池田の三連覇の夢は断たれたのであった。



試合後、勝利の立役者、1年生のエース桑田がインタビューの台に上った。
初回、2アウトから連打を浴びると、「ちょっとね…ブルブルッと来ましたけどね。打った奴が偉いんだから、えらいやっちゃ…思て…」
この肝の据わり方は1年生離れしている。

何かすごい奴っちゃ…TVの前で私は、桑田のホクロだらけの顔を見ながらそう思っていた。

この試合、ダブルプレーが3回。
意外と伸びのあるストレートに詰まらされ、要所要所で大きなカーブを打たされ、内野ゴロ。ダブルプレー。外野への大飛球を2度のファインプレーにより、チャンスの芽をつぶされた。
冷静でクレバーな桑田の投球術に、池田の強打線は翻弄されていった。

水野の調子はこの日確かに本調子ではなかった。
全体的に球が高く、むきになって三振を取ろうと高めストレートを放ったところを痛打された。桑田に打たれたホームランは、1球ウェストしてから外角低めで勝負しようとした球だという。
桑田は、水野の内角を、臆することなく思い切って打てと指示されていたという。

この試合、4番清原は水野に4打席4三振を喫した。水野が見せた最後の意地だといってよいだろう。
見ていた私も途中から、「せめて1年坊主の4番なんかに打たせるな!」そう思いながら見ていた。

従ってこの試合、桑田にしてやられたという印象が極めて強い。

応援してきた池田が敗れてしまった。
それも全く注目していなかった、この時ばかりはダークホースというべきPLにボロ負けしてしまった。
敗軍の将としてインタビューに応じた蔦監督。
「ウチが負ける時は、こんなパターンじゃろうと思うとりました。」
淡々とした表情であった。
一方、水野だったか江上だったか、「これでやっと取材から解放されます。」こちらも印象深い言葉であった。

その頃、中学校で『平家物語』の冒頭を、大して意味も解らず丸暗記させられた。
覚えたばかりの文章の中で、「盛者必衰」、「猛き者も遂には滅びぬ」そんな言葉の意味を、この時ほど痛切に実感したことはなかった。

続く第2試合はショックで見ていない。
打倒池田を旗印に掲げ、勝ち上がってきた横浜商は、敗れて甲子園を後にする池田ナイン。Y校のエース三浦は、池田のキャッチャー井上と、 「負けたんだな…」「頑張れよ」そう短く言葉を交わしたという。

目標を失った横浜商だったが、久留米商を12-2と圧倒。

決勝戦は戦前の予想とは大きく異なり、PLvs横浜商のカードとなった。
この日も桑田の好守、好投が目立った。

2回裏、池田戦で4打数4三振を喫した4番清原の打棒が火を噴く。
ライトラッキーゾーンへ飛び込む技ありの一発。
1-0でPLリードのまま、試合は終盤へ。

7回表。好投の桑田からいきなりエースナンバーをつけた3年生・藤本耕にピッチャーが代わった。
手足の長い痩せた体型の藤本投手は、サイドクォーター気味のフォームで球を投げ込む。
その裏、PLに追加点が入り、2-0と突き放す。
更に8回裏。3番加藤に一発が飛び出す。
これで勝負あった。

藤本投手は、闘志を剥き出しに歯を食いしばって相手打線へと立ち向かい、優勝のマウンドにいた。

史上稀に見る強豪校がひしめいたこの年の夏の甲子園。
その頂点に立ったのは、大会前には誰しも予想だにしなかった、1年生エース、1年生4番打者を擁したPL学園であった。

我が家にビデオデッキが入ったのはこの年の初夏である。
その頃、ソ連(当時)の有名ピアニスト、ウラジミール・ホロヴィッツが来日した。それを録画するんだといって、父がある日、いきなりVTRを提げて帰ってきたのだ。
サンヨー電機がβ陣営だった頃で、リモコンは有線。選局はダイヤル式でこそなかったが、トップローディング式で、エジェクトボタンを押すと、「ギリギリギリ…ガッポ」という感じでテープ入れが上に浮き上がってくる方式だった。

同時に何本かβのテープを父が買ってきた。
当時はまだビデオテープは高価だった。
その内の1本に、私は秘かにこの決勝戦を録画した。
できればそのまま残したいと思い、キャビネット奥にしまいこんだが、父に発見され、消されてしまった。
もしこのテープが残っていれば、貴重なものだったのに…。
ちょっぴり残念ではある。

敗れた横浜商のエース・三浦は、それまでのクールな表情から一転、大きく泣き崩れていた。
春の決勝で敗れて寧ろ爽快感を味わったかのような脱帽のコメント。そこから「打倒池田」の最右翼として、池田との再戦を目標に勝ち上がってきたのが、目の前で、強敵が信じられぬ負け方をして去った。
敗れた池田の敵をとるべく、悲壮な覚悟で臨んだ決勝。
だが、相手の実力が上回った。
最後まで「二番手」に甘んじるしかなかった無念ゆえの号泣だったのか、或いは別の、もっと複雑な思いがあったのかはわからない。

数年後、ある暑い日の夜、何気なくつけたTVでナイターをやっていた。
敗戦処理のマウンドに上がる中日・三浦投手の姿が映っていた。
大きく状態をえび反って、投げ込む投球フォームを久々に目にして懐かしくなり、暫くチャンネルを変えずに見ていた。
だが嘗てほどの輝き、精彩を感じることはなかった。
暫く後、三浦選手は静かに引退していった。

この年のPLの優勝、KKコンビの華々しいデビュー。それを目の当たりにして、このまま3連覇はおろか5連覇だってあり得るのでは? そうも思った。

*****

池田vsPL学園。このカードが再度実現するのでは…そう期待した時が、その後に2度あった。

一度目は1985年春。
KKコンビを中心に、すっかり不動の王者になっていたPLは、準決勝で初出場の高知代表・伊野商と対戦した。
ところが伊野商のエース・渡辺智男の剛球の前に清原は全く手も足も出ないという状態だった。
KK時代、唯一PLが決勝進出を果たせず、甲子園から姿を消した。
一方、池田vs帝京の準決勝は、帝京が1-0で池田を破った。
かつて「打倒池田」を旗印としながら、大敗を喫した帝京が、いつしか池田を破る実力を付けていた。
こうしてこの年の決勝は、伊野商vs帝京となった。
PLを破り、勢いづいた伊野商が、そのまま初優勝を遂げた。

この年の夏、伊野商は高知商に敗れ、甲子園行を逃している。
後に、社会人野球を経て、この渡辺智男投手が西武ライオンズに入り、既に西武の4番として不動の地位を築いていた清原とチームメイトとなったのを知り、不思議な巡りあわせを感じた。

二度目は1987年夏。
既にKKコンビは有終の美を飾り、PLを去っていた。
立浪、片岡、野村、橋本らを中心としたチーム。当時としては珍しかった、野村、橋本、岩崎という3投手を擁したPLは、完璧な投手リレーで勝ち上がってきた。
準決勝の東海大甲府戦では延長14回までもつれたが、最後は振り切って勝利。
一方、準決勝のもう一試合は、池田vs関東一であった。
平子という好投手を擁する関東一に、池田は圧倒され、力尽きる。

結局、甲子園で池田vsPL学園の対決は、あの1983年夏以来、一度も実現していない。

*****

思えばこの1983年がKKコンビ最初の夏であった。
これから後、KK時代が続く。
その隆盛ぶりから振り返れば、勝つべくして勝ったと思いがちだが、この年ばかりはKKコンビが挑戦者だった年といってよいだろう。

歴史にifは禁物だが、池田vsPLの試合で、もし1回表、吉田の打球が桑田の足元を抜けていたら…。もし2回裏、2-1と追い込まれたPL・小島に、水野が投じた外角低めへの渾身のストレートがストライクと判定されていたら…。そしてもし、水野が頭にデッドボールを食らっていなかったら…。

万全のコンディションの水野と、桑田が投げ合っていたとしたら、一体どういう展開になっていたことであろうか。

もしかしたら、その後のKKコンビはなかったかもしれないのである。
あまりにも鮮やかすぎた甲子園の主役交代劇。
高校野球の歴史が大きく変わる瞬間を、この目で見ることができたのは、今にして思えばとても贅沢で貴重な経験だったといえるだろう。

*****

今春、池田高校が久しぶりに甲子園に戻ってきた。
純白地に濃紺の帽子。「IKEDA」のロゴ、肩の「徳島」の文字。
シンプルなデザインのユニフォームは往年と全く同じである。

今は、試合の勝敗によらず、校歌斉唱があり、嘗ての勝者の特権からすれば有難みが失せたと言えようが、池田高校の校歌には相変わらず手拍子が見られ、観客から好意的に受け入れられた。

全盛期のPLでさえ、アンチの声が必ず聞こえてきたが、池田は皆に愛された。
それは、小技を弄しない、ただひたすら打って勝つというシンプルで潔い戦法、それを先導した蔦監督の、ひとたびグラウンドを離れれば、素朴な徳島弁が懐かしい、好々爺然としたキャラクターに負うところが大きかったと思っている。

嘗て「魔法使いの老婆」と恐れをなした敵方の大将は、いつしか愛すべき人柄の老監督へと変貌を遂げていた。



参考文献:
・「池田高校野球部 栄光の歴史」(ベースボール・マガジン社)(2013)
・「別冊宝島 PL学園「最強選手」列伝」(宝島社)(2011)
・「思い出甲子園 ヒーローと呼ばれたエースたち」(日刊スポーツクラブ)(2006)


以上敬称略