江の島つながりで、本作をとりあげる。
今となっては『JIN』の作者というのが通り相場の村上もとか氏による25年ほど昔の作品。
まだ昭和だった頃の夏、当時本作同様不定期連載だった高橋留美子の『1ポンドの福音』の新作目当てに買った「ヤングサンデー」で、偶々出会ったのが本作だった。
何ともいえない切なさがこみあげてくる。
「知られざる傑作」という言葉は、まさに本作のためにある。

物語の主人公は西宮なぎさ。江の島に住む少女である。連作短編集という形が取られている。1960年代半ばから1972年までが断片的に切り取られ、その時代時代を象徴する出来事を織り交ぜながら、なぎさが様々な人たちとの出会いと別れを経、感受性を揺さぶられ、激しく動揺し、喜び、悲しみ、やがて大人の女性へと成長してゆくというのが、大筋である。

2000年には小沼勝監督の手で実写映画化された。
映画版はなぎさを12歳に設定し、多感な少女のひと夏の経験譚としている。

本記事の構成の都合上、先に映画版の筋書きを記すことにする。

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西宮なぎさ――12歳。小学6年生。(演:松田まどか)
漁師だった父は4年前に亡くなり、居酒屋をやっている母(演:片桐夕子)と江の島で2人暮らしをしている。

電気屋のショーウィンドゥに飾られているポータブルのレコードプレーヤーが欲しくて、なぎさは叔母(演:根岸季衣)が営む海の家でアルバイトを始める。
そこへ、家を飛び出していた従姉・麗子(演:松本智代美)が、恋人の運転するオープンカーのアメ車で乗り付けた。

海水浴場から離れた岩場の砂浜で1人泳ぐなぎさ。鵠沼の別荘へ避暑に来た、金持ちの少年・竹脇洋(演:佐々木和徳)と知り合いになる。洋は病弱で、砂浜への漂着物を拾い集めるのが趣味だ。そんな洋に、なぎさは泳ぎを教える。
意外な頑張り屋さんの洋との間に、いつしか淡い恋心が芽生え、なぎさは初キスを経験する。

ある時、ホテル経営者の娘・桑島真美(演:稲坂亜里沙)が東京から帰ってくる。なぎさと友達になりたいと屋敷に招く。
美しい母(演:芦川よしみ)と東大生の青年の仲睦まじい様子に、真美は母の不倫を嘆き、なぎさは同情して母親に意見しに行くが、それは全て真美の空想の物語に過ぎなかった。
そんな出来事への反発もあり、派手な従姉の影響も受け、なぎさは近所の床屋のおかみさん(演:佳那晃子)に頼み、髪にパーマをあててもらうことにした。
不良娘を気取り、橋で出くわしたカップルや、わんぱく坊主のクラスメイトたちにガンを飛ばして見せる。

一方、洋はその後も一人で海で泳ぎの練習に励んでいる。

なぎさは麗子と一緒に、彼女の恋人のオープンカーに乗せてもらう約束をしていたが、当日になって麗子は恋人と喧嘩し、なぎさだけが車に乗せてもらうことになった。
夜の海辺。ゴーゴーダンスに興じる、派手な身なりの若い男女たち。なぎさも麗子の恋人に誘われ、踊っている。そんな様子を岩陰から麗子が覗いている。なぎさのとりなしもあって、麗子は恋人と仲直りし、やがてチークタイムとなった。熱いキスを交わす恋人たち。
なぎさは一人波打ち際で居心地悪そうにしている。

次の日、なぎさは床屋へ行き、パーマをやめ、おかっぱ頭にしてもらう。
そんな折、一人で泳いでいた洋が大波に呑まれ、溺死してしまう。
なぎさはショックを隠せない。

やがて夏も終わり、海の家も店仕舞い。そこへ洋の父がなぎさの元を訪れる。
父は亡き息子が大切にしていた漂着物のコレクション箱を、なぎさの前で開いて見せた。「あの日」だけが空っぽだった。



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『NAGISA』 (2000)

監督:小沼勝
脚本:斎藤猛、村上修
主な出演:
松田まどか、佐々木和徳、
片桐夕子、根岸季衣、佳那晃子、
石丸謙二郎、柄本明
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湘南の陽射しを浴び、小麦色に日焼けした多感な年頃の少女が、ちょっと背伸びし、色々な経験を経て、ひと夏を越え、ちょっぴり大人になったという話に再構成した映画版は、ザ・ピーナッツや加山雄三の歌が背景に流れる、ノスタルジーを多分に感じさせる瑞々しい作品となった。

だが、原作漫画はそれに留まらない。
『NAGISA』という作品は、決してスクール水着の似合う12歳の少女だけの話ではないのである。

試みにインターネットで検索してみたが、原作漫画に関する詳しい説明は出てこなかった。Wikipediaにさえも、映画版のページしか存在しないのである。

そこで、長くなるのは覚悟の上で、私の筆力でどれだけ原作の物語を的確に伝えられるかわからないが、以下順に筋書きを記してみることにする。

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第1話・NAGISA 1964

西宮なぎさ、12歳。初潮を迎え、憂鬱な夏休みを送っていたが、漸くそれも癒えた。

なぎさは、ふとしたきっかけで竹脇洋という同い年の少年と知り合いになる。洋は鵠沼の大きな別荘に避暑に来ている金持ちの息子で、病弱で泳ぎが出来ない。なぎさは洋に泳ぎを教えることとなった。
漁師の父と、海の家を営む母をもつなぎさは、つい見栄を張り、山の上の瀟洒な家の令嬢だと嘘をつく。
洋の屋敷に招待されたなぎさは、素敵な部屋、上品な母親を羨ましく思いつつ、お嬢さんを演じている自分に内心後ろめたさを感じている。

洋の泳ぎは上達を見せる。その根性になぎさは恋心を抱き、初めてのキスを経験する。
そこへなぎさの父親が通りかかる。洋の屋敷へ魚を届けに出入りしており、洋とは顔見知りであった。
全ての嘘がばれてしまった。
激しく動揺するなぎさ。同情の目で見る洋を拒絶し、洋の母だってお妾さんじゃないの、と言い放つ。洋はその場に立ちすくんだ。

その年の秋、洋は死んだ。
なぎさは感傷よりは安堵を覚えた。自分の秘密を知る人間がこの世から消えたことに対して。

翌年、なぎさは中学生になった。
その年の夏の終わり、海辺に見覚えのあるピカピカの大きな自動車が停まっていた。車の主、立派な身なりの紳士がなぎさに声を掛け、洋の父だと名乗った。
亡くなる前、洋からなぎさのことを聞いたという。
大人になったら結婚したい。洋はそう言っていた。
息子が初めて恋したお嬢さんに一目お会いしたかった―――穏やかな笑みを浮かべ、語りかける洋の父に、なぎさは慟哭し、洋にひどいことを言ってしまった。それなのに許してしまうなんて…。
…後は言葉にならなかった。
泣きじゃくりながら、竹脇氏の胸にすがるなぎさ。大きくて暖かい手がなぎさをそっと包み込む。
シーズンが過ぎ去っただだっ広い砂浜で、海鳴りの音だけが静かに響いていた。

*****

第2話・NAGISA 1966

なぎさは中2になっていた。転校生の桑島真美は、美人でスタイルが良く、明るく、勉強も出来、クラスの憧れの的。なぎさはそんな真美に反感を抱いていたが、プールの授業で溺れている真美を助けたことをきっかけに親しくなっていく。
当時の大スター・加山雄三と真美の兄・亮一が、先輩後輩の間柄であったことも、拍車をかけた。

真美の屋敷に招かれ、にこやかな母親、仲の良い兄妹、贅沢な真美の部屋、なぎさは感激する。
なぎさは真美を眩しく思っていただけで、嫌っていたわけじゃないと告げた。

なぎさは忙しい海の家の手伝いをすっぽかし、真美と仲良く出歩くようになった。お揃いのさくら貝のペンダントをしたり、手を繋いで歩いたり、仲の良い姉妹のようだ。

ある嵐の日、なぎさは真美の家へ遊びに行った。
兄・亮一と出くわすが、突然の訪問者に少し驚いた様子である。咄嗟になぎさは見てしまった。亮一が親友らしき青年と手を繋いでいるのを。
真美の部屋で、ソファーに並んで洋楽を聞くなぎさ。真美はうっとりとした表情で、やがてなぎさに迫り、口づけをし、それ以上の動作に及ぼうとする。
ドキドキしながら、なぎさは懸命に真美を拒絶する。
真美はなぎさに、兄が好きなんでしょうと図星を指すが、兄は男の人しか好きになれない。兄が大好きだったのに、体も心もどんどん兄が嫌いな女になってしまうの…と激しく泣きじゃくる。
いたたまれなくなったなぎさは、逃げるようにその場を立ち去る。

思春期を迎え、性の目覚めがないわけではない。
自分の体や心との付き合い方に戸惑っているのも事実だ。
なぎさは雨漏りのする自室で、先行きのわからぬ不安を感じている。

そんな時、心中未遂事件の報が届いた。
それも男同士だという。真っ裸で手と手を手錠で繋ぎ、嵐の中ヨットで海に出たというのだ。
現場に駆け付けたなぎさは、少し離れた場所に、運転手付の高級車で乗り付けた真美の姿を認める。
真美は、なぎさに向かって涙を流しながら「サ…ヨ…ナ…ラ…」確かにそう言った。
だが、なぎさは答えることも、駆け寄ることもできないまま、悲しみよりも安堵する気持ちを感じていた。
その夏の終わり、真美の一家は人知れずその地を去った。

*****

第3話・NAGISA 1967

なぎさの父が死んだ。真冬に酒に酔ったまま堤防から海へ落ちたのだ。

なぎさは15歳になり、再び暑い夏がやってきた。


母親は海の家を手放し、島の旅館に勤めるようになった。
なぎさは翌年の高校受験を控え、家に籠って勉強をしている筈が、身が入らない。近頃煙草を覚えたなぎさは、宝物のアメリカの古雑誌を取り出し、飽きずに何度も読み返している。
そこには豊かで幸福で華やかな世界が広がっている。

なぎさは海辺で一人の外国人男性と知り合う。
日本語が堪能な彼はマイケルと名乗り、米軍で通訳をしていると言った。
2人して煙草を吹かしながら、年をきかれたなぎさは「18」と咄嗟に嘘をつく。
マイケルはなぎさをコールガールと勘違いし、好色な視線を向けてきた。なぎさはマイケルを突き飛ばし、逃げ帰る。
実際に出会った外人は、助平で全然紳士的じゃない。金髪ではないし、ハンサムでもない。体もヒョロヒョロで幻滅する。

なぎさは再びマイケルとバッタリ出会う。
大仰な身振りで土下座して侘びるマイケル。彼は子供の頃、江の島に少しだけ住んだことがあるという。その家を探しに来たが、どうしても見つからない。
島に詳しいなぎさは、一緒に家を探すことになった。
道々マイケルはアメリカの話を沢山してくれた。それは絵に描いたような豊かなアメリカの生活そのものであった。漸く家が見つかり、感激するマイケル。
お礼にマイケルはなぎさをドライブに誘う。

翌朝、片瀬江ノ島の龍宮城のような駅前。大きなアメ車のオープンカーが停まっている。道行く海水浴客たちが羨望の眼差しで見守る中、ワンピースにサングラス姿の派手な装いのなぎさが現れ、車は轟音を響かせ走り去って行った。
鎌倉に江の島…デートに浮かれる2人。

浜辺でなぎさはマイケルの嘘を指摘する。
マイケルは、戦後米兵と日本人女性との間に出来た子供だった。
彼は本当の身の上を語り始めた。
通訳官ではないが本物のGIだ。年齢は19歳。子供の頃、母が亡くなり、孤児院に預けられたが、8歳の時、米国人夫婦に引き取られ、アメリカに渡った。
自分ほど幸せなヤツは日本中どこにもいないと思った。夢にまで見たアメリカ人になれたのだ。楽しく豊かで華やかな生活。ガールフレンドとの車のデート、キス…。
羨望の眼差しで話に聞き入るなぎさ。

だが、そんな生活も終わり。
徴兵され、ベトナム戦争に送られた。日本での休暇は今日でお終い。明日からは戦地へ向かう。

アメリカ人にならなければよかったかもしれない。
日本人のままでいたら、貧乏でも、戦争へ行かずに済んだよ。

…マイケルは、顔をそむけると、身体を震わせ、声を出さずに泣いていた。

なぎさは何とか慰めようと、マイケルを抱きしめてあげたつもりが、背の高いマイケルにぶら下がった変な格好になっている。
シャツに滲み込んだ煙草と海の匂いをかぎながら、切なくて、切なくて、なぎさは初めて亡くした父を思って泣いた。

マイケルは手紙を出すと言っていたが、結局一度も便りはなかった。
TVでベトナム戦争の様子が報じられる度、なぎさは画面にマイケルの顔を求めたが、不思議と皆マイケルに見えた。

*****

第4話・NAGISA 1968



なぎさの母が江の島で小料理屋を開き、一家は島へ移り住んだ。
なぎさはぎりぎりで県立高校に受かったが、夏休みだというのに補習で忙しい。

道の向かいの部屋に、大きなバイクに乗る少年が越してきた。高橋浩一と名乗った彼は17歳、なぎさより1つ年上である。平塚の鉄工所に勤めだした浩一は、母の飲み屋の常連客の家の2階に住み始めたのだ。
愛想がない彼は第一印象は最悪だったが、ひどい東北訛りを恥じていたのだとわかり、その素朴な素顔に、なぎさは次第に浩一と打ち解けていく。

バイクの走りに命を懸けている。夢はホンダのF1に乗ること。
そう熱く語る浩一は、最初は渋ったが、なぎさをバイクに乗せることになった。

エンジンの鼓動、身体を弾く風。なぎさはすっかりバイクの魅力のとりことなった。

そこへ別のバイク乗りが迫ってきて、浩一を挑発してみせた。
同じW1ではないか。
浩一はすっかりむきになり、激しいデッドヒートを繰り広げる。後ろになぎさが掴まっていることなど、すっかり忘れてしまっていた。

あんな奴、格好だけにきまってる!
オレが負けるわけがねっ!

勢いづくまま性急になぎさに挑む浩一。
なぎさは拒み、「オ…オレのこと…好きか?」という浩一の問いかけに首を振った。
気まずい沈黙が流れた。
浩一は、元の無口な少年に戻っていた。

ある日のこと、なぎさはバイク事故のことを耳にする。
ガードレールに激突、救急車が運んで行ったが、あれは助からないな…

なぎさは顔色を変え、浩一のもとへ駆け付けると、そこにはバイクがあった。
浩一は無事だったが、そのシャツは血だらけになっている。

ショックで階段に蹲る浩一は絞り出すように話し始めた。

今日、あのW1に会った。
初めて走りで負けた。
だが、トンネルを抜けた先のカーブで、路面にオイルが流れていて、相手は転倒するとガードレールに腹をしたたか打ちつけ、大量の血を吐いた。
ヘルメットをとったら、浩一と同年代で、おまけに同じ故郷の言葉をしゃべった。

それ以上は言葉にならなかった。

間もなく浩一は鉄工所をやめ、島を去った。
彼が目標としていたホンダのF1はその年限りでGPから撤退した。

主の去った後のガランとした部屋の歪んだガラス窓を眺める度に、なぎさの胸に甘酸っぱい後悔が湧き上がる。
あの時、彼がもう少しスピードを落としてくれたなら、首を横に振らなかったのに…。

*****

第5話・NAGISA 1969

夏休みの学校。なぎさは悪友たちと三人で美術室に忍び込み、シンナーを盗み出した。
ついでになぎさは、絵具を青色ばかり幾つも失敬してきた。

母の店に、近頃糸園という老画家がちょくちょく現れるようになった。
いつもカウンターの端で静かに酒を飲んでいる。
母は糸園先生が来ると、声の調子が上がり、愛想が良くなる。

なぎさは岩場で一人シンナー遊びに興じている。
そんな時、海を写生する糸園画伯と出会う。
画伯が描いていた海には、人影はおろかヨットすらない。
ほろ酔い状態のなぎさは、自分ひとり取り残されたような怖さを感じると言うと、画伯は感激し、なぎさをアトリエに誘う。


糸園画伯の絵は海ばかり。長いこと人物は描いていないが、なぎさをモデルに描きたいと突然申し込まれる。しかもヌードでだという。
なぎさは驚くが、観光地という土地柄、好色の目を向ける男たちとは画伯は人種が違いそうだから、とモデルを承知する。
画伯に好意を寄せている母に少し後ろめたさを感じたが、秘密を持つのは素敵なこと。

別人のように鋭い視線を向ける画伯に、最初はとても緊張したが、やがてなぎさはポーズをとったまま、色々なことを話し始めた。心まで裸になったかのようだ。

ある日、なぎさは今度は先生の秘密を話してほしいとせがむ。

画伯はパイプを持つ手を震わせながらこう語り始めた。

じつは…ボクは昔…人間の肉を食べたことがあるんです。

画伯は戦争末期、従軍画家として南方戦線へと送り込まれた。米軍に追い込まれ、ジャングルへと迷い込んだ。飢餓地獄が待っていた。行き倒れた戦友の、時にはまだ息のある戦友の肉さえ口にした。
やがて画伯は一人はぐれ、いよいよ死を覚悟したまさにその時、急にジャングルが開け、目の前には紺碧の海が広がっていた。そのあまりの美しさを前に、自分がどんなに浅ましい生き物に成り果ててしまったことか。戦慄と絶望に打ちひしがれ、彼はその場で気絶した。

なぎさと出会ったことで、遠い昔、恋に焦がれた頃を思い出せた。もう一度人間の肉体を描く勇気を持つことができた。

そう感激の涙を流す画伯をよそに、なぎさは激しい衝撃を受け、それ以来二度とアトリエを訪ねることはなかった。

その年の秋、なぎさが高校から帰ってくると、母が店のカウンターで明かりも付けずにぼんやり座っている。
その前には、糸園画伯の訃報を告げる新聞が広がっていた。

画伯の遺作は「窓辺の少女」。
なぎさをモデルにしたあの絵が仕上がったのだ。

画伯は末期のガンだった。
もうすぐ命を落とすとわかっていて描いたとは思えない優しい絵。
それに何だかなぎさに似ている…母はポタポタ涙を落として、画伯の死を悲しんだ。

母を抱きしめながら、なぎさは心の中で侘びた。

その日の夜、なぎさは一人自室にこもり、紫煙を吹かしながら机の引き出しを開けた。
そこには学校からくすねてきた様々な青の絵具。

ノートに幾重にも青い絵の具を絞っては広げていく。
私の秘密も、先生の秘密も塗りこめよう。
誰も知らない、秘密の色を帯びた海が、静かに静かに広がってゆく。

*****

第6話・NAGISA 1970

世間がよど号ハイジャック事件で揺れる頃、なぎさの友達・ユーコがシンナー中毒で倒れ、危うく一命を取り留めた。退学は免れたが、転校させられるという。
なぎさは高3になった。
ユーコや自分を厄介者扱いする教師への意地もあり、なぎさは行きがかり上、美大への進学希望を口にした。

鎌倉の絵画研究所へ、なぎさは通い始めた。

受験で教室がピリピリとし、居心地の悪さを感じるようになった。
学期初めから空席が1つあるのに、なぎさは気がついた。
その主は金崎という男子で、学生活動家で警察に捕まっているという噂であった。

1学期も終わろうという時、なぎさは突然見慣れぬ男子に声を掛けられた。金崎光一である。
馴れ馴れしく、図々しい変な奴。授業中は腕を組んで、顔を天井に向けて、目をつぶっている。
先生も、他のクラスメイトも皆、彼との関わりを避けているかのようだ。

ただ一人、なぎさだけが彼と会話を交わしていた。

夏休みになった。連日、研究所通いでヘトヘトになったなぎさは、駆け込んだ喫茶店で金崎と出会う。彼は昼間はウェイター、夜はバーテンで稼ぎ、新しいカメラを買うのだと得意気に言った。
だが、金崎には公安の刑事がいつも目を光らせている。なぎさは怖くなった。

夏休みが明けても学校へ姿を現さない金崎だったが、ある日なぎさは電車でばったり彼と出会う。連れの若い女性を姉貴だと紹介し、そのまま降りていった。

その年の11月。金崎の机が突然片付けられ、なぎさは金崎が退学したことをクラスメートから聞かされた。反射的になぎさは学校を早退し、彼のアパートを訪ねた。
違う苗字の表札が並んでいた。
そこへ金崎がいつかの女と二人連れで帰ってきた。彼女は横須賀のクラブの女。二年も同棲しているという。
金崎に誘われ、なぎさはラーメン屋へと向かった。

店のテレビでは三島由紀夫の切腹事件が報道されていたが、それをよそに金崎は静かに語り始めた。
自分は実は日本人ではない。歳も二十歳だ。世の中を変えたくて精一杯突っ張ってきたが、却って窮屈な思いをするようになってきた。もっと広い世界をありのままに見つめ、世界を股にかける報道カメラマンになりたい。その夢だけは本当だ。

なぎさは静かに頷いた。

店を出ると、いつかの刑事が彼を迎えに来ていた。
悪びれず、悠々とパトカーに向かい、なぎさに別れの捨て台詞を吐く金崎。

一人残されたなぎさは、振り回され、心を掻き回され、気持ちの遣り場がない。思わずスカートを両手で持つと、落下傘のようにバッと広げて見せた。

去りゆくパトカー車内から後ろを振り向きながら、ギョッとした顔を見せる強面の刑事たち。
だが真ん中に挟まれた金崎は、これ以上ない笑顔を向けた。
見送るなぎさも笑っていた。
いたずら少年ぽい顔で、目尻に涙を浮かべながら、精一杯の笑顔をただ一人のクラスメイトに向けていた。

*****

第7話・NAGISA 1971

なぎさは受験に失敗した。母親に頼み込み、浪人することとなった。
昼間は鎌倉の喫茶店でアルバイト、夜は去年から通っている研究所で絵の特訓の日々。
母は近頃、店の常連になった尾藤という男前の客にすっかり惚れている様子である。

なぎさは主任講師の桐生先生に秘かに憧れている。
言葉少なく、ボーッとしているが、近くにいるだけで何だか幸せな気分になってしまう。
それに対して、口うるさくネチっこい佐川講師。
なぎさは特に目を付けられているようだ。
そんな佐川を皆の前でやりこめてくれた男勝りの東講師と、ふとしたきっかけからなぎさは意気投合する。
東講師の部屋に招かれたなぎさは、桐生への恋心を見抜かれてしまった。
桐生が妻とうまくいっておらず、別居中だときくと、なぎさは急に涙を流し始める。
彼女にとっても全く思いがけないことだった。
東はそんななぎさに、もっとしたたかに、愛するよりも相手に愛されるように仕向けなさい。愛されることは武器を手に入れること、愛することは相手に武器を渡してしまうことだと説く。

その夜、帰宅したなぎさは、閉めた後の店で、母が尾藤といいムードで睦みあっている姿を見かける。

やがて夏がやってきた。気持ちばかりが焦っている。
近頃では、尾藤は母だけでなく、弟ともすっかり打ち解けている。
だが内心ではなぎさは尾藤を受け入れ難く思っていた。
そろそろ母と別に暮らすべきなのだろうか。

ある日、なぎさが喫茶店でウェイトレスのアルバイトをしていると、客の中に聞き覚えのある声の男がいた。
尾藤である。
やがて尾藤の元へ一人の派手な身なりの若い女がやってきた。
彼らの様子が気になるなぎさが耳をそばだてていると、彼らはなぎさの母親から金を騙し取る相談を始めた。

なぎさは仮病を使って早退し、前から母のことを相談していた東の部屋へと走った。
だが東は留守。そこへ桐生がやって来た。
画材を届けに来たという桐生に、なぎさは発作的に相談を持ち掛けた。

にこやかな笑みを浮かべ、桐生は少し歩こうと提案する。
途端に目を輝かせるなぎさ。

次回へ続く。

*****

第8話・NAGISA 1972

道々なぎさは懸命に母と尾藤のことを桐生講師に話した。
良くない話なのに、憧れの桐生と二人きりで話せて嬉しいと思っている自分がいる。

桐生はなぎさに、大人として母と向き合い、話してみなさいと提案する。

その日、なぎさは母に、昼間のことを話した。
母は娘の心配を一笑に付した。
尚も食い下がるなぎさに母が激昂する。
なぎさはそれ以上何も言えなかった。
母は目に涙を浮かべ、恨みがましく自分を見据えていたからだ。

桐生には、母は尾藤と別れたと言ったが、本当は毎晩やって来る。
あの日自分が見たのは幻だったのではないかとさえ思えてくる。

研究所では、佐川講師にますますガミガミ叱られっ放し。なぎさ、絶不調である。

頼みの桐生はここのところずっと休んでいる。

いつしか冬になっていた。
なぎさは帰りの電車で、東とバッタリ会う。
やがて東の降りる駅になると、東は急になぎさの方を振り返り、手を合わせて詫びて見せた。
何のことかわからず、なぎさは問い返そうとしたが、電車の扉が閉まり、なぎさを乗せたまま走り去ってしまった。雪が舞うホームで一人佇む東。

なぎさが家に帰りざま、悪相を剥き出しにした尾藤が飛び出して行った。
中では母がブルブル震えながら、包丁を手にしていた。
遂に本性を現した尾藤を必死に追い払ったのだった。

客のいないカウンターで、酒を酌み交わす母娘。
母は静かに語り始めた。

昔、一度だけ尾藤と関係を持ったことがある。なぎさの死んだ父と結婚する前のことだ。娘時分、大船の撮影所の食堂で働いていた頃、当時駆け出しの大部屋俳優だった尾藤と知り合った。誘われたらイチコロだった。相手には気紛れの火遊びだったかもしれないが、自分にとっては彼が初めての男だった。
最初に店にやって来た時、すぐに彼だとわかったが、相手はすっかり忘れていた。如何にも気のありそうな素振りを見せ、相手がその気になったらタンカを切ってやろうと思っていたが、やがて今度こそうまくいきそうな気がしてきた。夢を見てしまった。

淋しそうな母の横顔。

その時、なぎさに電話がかかってきた。
研究所の友達からだった。

電話を代わったなぎさは、激しくショックを受け、そのまま突っ伏してしまった。

その夜、東と桐生は心中を果たしたのだった。

年が明け、いよいよ受験の日が近付いてきたが、受験生たちは浮き足立ち、研究所内は死んだ二人の噂でもちきりであった。
なぎさに声が掛けられる。
佐川講師であった。

あんなことがあってショックだろうが、受験をやめてはいけない。君には随分口うるさくしたが、許してほしい。今年教えた受験生の中で、君の絵が一番個性的でセンスがある。迷わず絵の道を進むべきだ。

なぎさにそう説く佐川の目はいつになく優しく、穏やかなものであった。

君がもし絵をやめたら、東先生が怒って僕の所に化けて出てくる。
彼女とは大学でもずっと一緒で、僕はいつも怒られてばかりだ。

空笑いしながら、佐川の背は小刻みに震えていた。
彼もまた、武器を渡してしまった人なのだろう。

なぎさは、いつか桐生と歩いた道を、もう一度一人で歩いた。
死さえも厭わないのが本当の愛だとしたら、私はまだそこまでの愛を知らない。愛の本質は自分にはまだわからない。

やがて踏切に差し掛かった。
目の前を電車が走り抜けて行った。
その窓の一つ一つに、なぎさが好きだった人達の顔が浮かんだ。

小さな踏切の先に神社の鳥居がある。
なぎさは真っ直ぐ前を見据え、胸を張ってその鳥居をくぐった。

********************

以上の如く、繰り返しになるが、『NAGISA』という作品は決してスクール水着の似合う12歳の少女のひと夏の冒険譚に留まるものではないのである。

観光地に育ち、派手やかな環境で育ったなぎさは、ちょっとつっぱったところもあるが、人一倍繊細で鋭い感受性の持ち主だ。
そのなぎさが様々な人たちとの出会いと別れを経験し、少女から大人の女性へと精神的な成長を遂げていく。

裕福で、傍目には幸せそのものに見える人たちの中にも、決して表に出せぬ陰がある。
強くて豊かで華やかで、人々の憧れそのものの戦後のアメリカ人の暮らし。そこにもベトナム戦争という、死と隣り合わせの暗闇がある。
穏やかで高潔そのものに見えた老画家には、嘗て禁忌を犯したという深い心の傷がある。
仄かな憧れを抱いた男性講師と、意気投合した女性講師は、実は許されぬ愛に悩み、思い詰めた挙句、情死という道を選んでしまった。

何でもない穏やかな出来事で済んでいた筈なのに、見ないほうがよかったかもしれない物事の裏面、隠された真実が、なぎさの繊細な心に情容赦なく突き刺さり、強い衝撃を与えていく。
原作に描かれる出来事の一つ一つ、全てがなぎさにとっては通過儀礼だといってよい。

悲しくほろ苦い結末を迎えるエピソードばかりの中で、唯一の救いは、なぎさがそれらの出来事から決して目をそむけず、真っ直ぐ前を向き、胸を張って人生を歩んでいくことであろう。
「第7話」扉絵の、大人の女性に成長を遂げたなぎさが、大きなスケッチブックを手に大股で闊歩する姿が象徴的である。

最終話で小さな鳥居をくぐり、「わたしひとりの卒業式」を済ませたなぎさは、この先どんな人生を送っていくのであろうか。
きっと更に素敵な女性に成長を遂げるに違いない。そう確信する。

********************

村上もとか氏の目下の最新作は『フイチン再見!』という作品である。
上田としこという女性漫画家の嚆矢ともいうべき人物を主人公に据えた、実話を題材にした話である。

ハルピンで自由で伸び伸びとした幼少期を過ごしたとしこは、小学校入学を機に日本に帰国。やがて松本かつぢの漫画に魅せられ、自らも漫画家を志すようになった。
兄の伝手で、松本かつぢに師事するようになったとしこは、己の画力を磨くため、絵画研究所へ通うようになる。
そこで絵を志す青年たちのグループに誘われる。誰とも決して恋仲にはならない。初対面でそう宣言するとしこに、青年たちは唖然とするが、絵への情熱に燃える彼らは、連日熱い芸術論を真剣に交す仲間となってゆく。
そんな彼らのもとに、戦争の足音がひたひたと迫って来ていた。
やがてとしこは仲間からコンラッド・メイリというスイス人画家を紹介される。メイリ氏はパリ画壇で活躍した著名な画家だが、来日中に第二次大戦が始まり、独軍に占領されたパリに帰れず、日本への滞在を余儀なくされていた。
メイリ氏の絵画教室が開かれると、としこや仲間たちはそちらへも通い始めた。理論的で真摯な指導に大いに感銘を受ける。
折しも日本はアメリカに宣戦を布告。幼少期ハルピンで父の雑誌を通じてアメリカの豊かさ、強大さを知っていたとしこは、周囲の好戦ムードとは裏腹にその無謀さを感じていた。
やがてとしこは自らの社会経験の乏しさを痛感し、もう一度最初から漫画を学び直したい。そんな思いが日増しに強まっていき、遂にハルピンへ帰る決心をする。

としこたちはメイリ氏の鎌倉の家に招かれ、ささやかなお別れ会が開かれることになった。
物資が欠乏していく中、絵への情熱を失わないメイリ氏に、一同は感銘を受ける。

その帰り道、彼らは海辺へ寄った。

仲間の青年たちは、やがて徴兵され一兵卒として戦う使命感に燃えるが、としこは彼らに、絵しか取り得のないあんたたちに何が出来る、と言い放ち、気まずい雰囲気が流れる。
としこは、兵隊にも行けず、漫画も描けない中途半端な我が身を嘆き、発作的に海へと駆け出して行った。

戦争への道を突き進みつつある重苦しい世相をよそに、浜辺の波しぶきは美しい煌めきを見せながら押しては寄せ、押しては寄せを繰り返している。

としこはそのまま浅瀬に分け入り、振り向きざま仲間の青年たちに、全員いつか必ず生きてここに帰ってくることを命じる。
その時後ろから大波がとしこを襲い、恩師との別れにと洋装婦人の装いに身を包んできた彼女はずぶ濡れになった。
何かが吹っ切れたのか、ヤケクソなのか、としこはスカートを太腿までたくし上げ、そのまま波と戯れ始めた。
重い気分に沈んでいた青年たちは、そんなとしこに触発され、次々に浅瀬に入っていく。何もかも忘れ、童心に帰り、夢中で水遊びに興じる彼ら。

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描かれる人物も、時代も、背景も全く異なりはするが、ここで描かれるとしこの姿が、私にはどうしても、なぎさのその後の姿に重なって見えてならない。

私にとって『フイチン再見!』は、“なぎさ再見”でもある。

もうすぐ最新刊が出る。
この物語の行く末を確と見届けたい。

以上一部を除き敬称略