既に1ヶ月も前のことになってしまったが、東京を2度目の大雪が襲った直後のこと、毬谷友子さんバージョンの追加公演を観に行った。



若かりし野田秀樹氏が正月三が日に一気に書き上げたという一人芝居の戯曲だが、自らは演出することがなかった幻の作である。

毬谷友子さんの長年の働きかけで今回上演が実現したが、演出は野田氏自身ではなく、マルチェロ・マーニ氏が行う。毬谷友子、奥山佳恵という2人の異なる個性を持つ女優が、それぞれ出演し、2つのバージョンが連続上演された。



妖精ティンカーベルが語り部となり、ピーターパンが「障子の国」で経験した「人でなし」の恋物語を話して聞かせるというのが物語の大筋である。


毬谷友子、奥山佳恵の両女優を結びつける唯一の接点は、宝塚以外の芝居には滅多に行かない私にとって、『赤い糸の女』というかなり激しい女の情念を描いた昼ドラマであった。(実際、奥山佳恵さんの名は、このドラマによって知った。)

『天国の恋』の婦長効果ゆえか、前売り券は完売。毬谷バージョンの追加公演が後で決まったが、「駄目で元々」と販売サイトを覗いてみたら、後ろの方だがど真ん中の席が空いていたので、これも何かの縁。観劇が実現したというわけである。


一人芝居とはいうものの、もう一人パフォーマーと名乗る野口卓磨さんが黒子として出演する。人形遣い、舞台進行、と結構重要な役回りを演じている。


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「飴ちゃんだよ~」と客席にバラバラと飴を沢山撒きながら、全身真っ黒の姿で毬谷友子さん登場。「でへへへ…」という笑い声は、婦長そのものといった感じ。

老婆にも見えるし、少女にも見えるという不思議な雰囲気で、まさに妖精そのもの。


やがて舞台に上ると、全身に襤褸をまとったホームレス風の格好になり、ティンカーベルと名乗った。

破れた障子が立てかけられ、脇には古びたピアノ。

ティンク(ティンカーベルの略称)は、ピーターパンのこと、妖精の国のことを話し始めるが、彼女自身はピーターパンのことをさほど好きではなかったと言う。

地球は水に浮いた北半球のみからできていて、反対側の南半球は浮いた地球の影で、それが妖精の国だというが、この辺は話が観念的であまりよくわからない。


その後、今度は毬谷友子さんがピーターパンに扮して現れる。

ピーターは英国を好いており、「障子の国」のことを悪しざまに言う。劇中一度も明言されないが、どうやら「障子の国」というのは日本のことらしい。

(西洋人みたいに白い肌を手に入れるため、障子の国の女たちはあの手この手の努力をする。「♪硫酸かぶって白くなれ」そんな過激な台詞も…)

そしてピーターもまたティンクのことをさほど好いてはいないという。お互いに自分は相手を好きでも何でもないのに、相手が自分にお熱なんだよと、迷惑がっているんだか、半ば惚気ているんだか。


そして再びティンク。ピーターは死んだ。本当は誰よりもピーターを恋していたのはティンクだった。ティンクは1日に1回ピーターの扮装をして、ピーターを偲んでいたのだった。


ピーターは何故死んだのか?

話の焦点はそこへ移っていく。


ピーターは障子の国で恋をした。相手は日本人形のえいこ。

初めて会った日、えいこはガラスケースから出てきて、指貫だといってピーターにキスをする。ピーターはキスというものをまだ知らなかった。しかし、その日以来、ピーターが幾度語りかけても、えいこは返事をしない。えいこが売られている店先へピーターは連日通い詰める。雨の日も雪の日も…。

(ピーター人形を操る黒子の野口卓磨さんに、同じく黒子の格好をした毬谷さんが、思いきり水をぶっかけ、紙吹雪をぶっかけていたのが可笑しい。)


ある日えいこが姿を消していた。売れてしまったのだ。

ピーターは悲しみに暮れるが、えいこのことを忘れないために、3日泣き明かした後は笑顔になった。


だが妖精の国の住人であるピーターにとり、えいことの恋は御法度だった。

妖精と人形の恋は「人でなしの恋」とされ、重罪に処せられる。

ピーターは裁判にかけられる。証人として出廷していたティンクは、法廷で居眠りこけるピーターに腹を立て、死刑にしてくれと叫ぶが、いざ死刑判決が下ると今度はピーターとの逃避行に走る。


追手を巻き、世界を股にかけての冒険。

やがて2人が行きついた先は、障子の国。

ピーターは、ティンクにもう逃げるのはやめようと言い、自分の身体を14に切り分けて飲み込んでほしいと頼む。そうすればティンクの中で生き続けていられるから。そしてピーターはティンクに好きだと告白する。ティンクはその願いを聞き入れ、ピーターを自分の身体の中に取り込む。


ところが実はあの裁判は冗談であった。人でなしの恋を他の人たちもどんどんすれば、ティンクとピーターの恋も成就するに違いない。ティンクはピーターを失い、悲しみに暮れるが、3日泣き明かせば、4日目からきっと笑顔になれる。


…と何だかわかったようなわからないような観念的な話で、実際隣の席で最初は相当気合を入れて観ていた若いお姉さんは、中盤からすやすやと寝息を立てていた。

果たしてこれは現実の冒険譚だったのか、それとも孤独な少女あるいは少年の空想譚だったのか、考えれば考えるほどよくわからなくなってくる。


それにも拘らず、最愛の人を食べて、自分の身体の中に取り込むことによって、究極の愛が成就するという最終場面は、何ともいえぬカタルシスを感じさせ、何故だか感動的に思えるのであった。

カニバリズムといった生々しい醜悪な想像よりも、例えば被食願望とでもいった、甘美な香りに誘われ自ら進んで食虫植物の虜となる昆虫のような、ある種の快楽を想像したのである。


又、劇中何度も繰り返される「人でなしの恋」という言葉は、無論本作中においては妖精と人形の「人ではない」者同士の恋という意味合いなのだが、どうしてもこの言葉を聞いて思い出してしまうのは、江戸川乱歩の同名短篇小説である。

ここでは新婚の夫が夜な夜な寝所を脱け出し、蔵で秘密の恋の語らいに耽るさまが描かれた。嫉妬に狂った新妻は、夫の不在をねらって蔵に忍び込む。憎き恋敵を暴こうと意気込むと、そこには生き人形の娘が横たえられていた。「夫の恋する相手は生身の娘ではない。この人形娘なのだ。」全てを悟った妻は、その人形の娘を見るも無残に破壊する。何も知らずに蔵に脱け出した夫は、恋人の骸を前に心中を遂げる。そんな物語である。


人でないものである人形に恋したピーター、そのピーターは気付けばいつも自分の傍に寄り添ってくれていたティンクと相思相愛になり、手に手を取り合っての逃避行。愈々最後と諦めて、愛するティンクに食べられることで究極の愛の成就を図ろうという被食願望。まさしくそれは倒錯的な愛の形。そこだけを取り上げるなら、何と乱歩的であることか。


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舞台が終わり、カーテンコールになると、普通は大勢の出演者たちが入れ代わり立ち代わり現れるところが、本作は一人芝居。

現れるのは毬谷さんと操演の野口さんの2名だけだ。

この日は奇しくも毬谷友子さんにとり、一足早くの千穐楽。

毬谷さんは全てを出し切って、完全燃焼の体。挨拶の言葉が言葉にならず、感極まって涙にくれる。おいおい泣く姿。そこにはまさしく“婦長”がいた。

その大熱演に鳴りやまぬ拍手と、スタンディングオベーションが自然に沸き起こったのであった。

「姐さん、ボクも飴ちゃんもらいたかったです」

「キャンディいっぱいもってきな」


もう少し前のほうの席だったら、終演後、“婦長”が山ほど投げた飴玉、何とか探し出して拾って帰りたかったんだけどなー。


両バージョンを見比べられていれば、もっと面白い発見があったかもしれない。何だか『赤い糸の女』が無性に見返してみたくなってきた。


観劇後、“婦長”の飴玉の恩恵に浴することのできなかった私は、池袋の地下道を潜り抜け、東口の「タカセ」のティーサロンで甘いものにありつこうとしたら、大雪のせいなのかパフェ類は全滅。(といいつつしっかりプリンは食べている。)

腹いせに甘いパンをしこたま土産に買い込み、帰路に就いた。


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『障子の国のティンカーベル』


作:野田秀樹

演出:マルチェロ・マーニ

出演 毬谷友子または奥山佳恵、野口卓磨

2014.2.13~2.17 毬谷友子バージョン

2014.2.20~2.23 奥山佳恵バージョン


東京芸術劇場 シアターイースト



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以上一部敬称略