ジャン・ロシュフォール主演最新作『ふたりのアトリエ~ある彫刻家とモデル』上映記念に、渋谷の「ル・シネマ」で1週間だけ本作が特別上映された。劇場のスクリーンで本作を観るのは随分久しぶりのことである。

本作は、主演のジャン・ロシュフォールの代表作といってよいだろう。パトリス・ルコント監督の名を一躍有名にした作品でもある。

少年時代から女性の理容師に憧れ、髪結いの亭主になることを夢見てきた男が、夢を叶え、妻・マチルドと2人だけの生活を送るという、お伽話のような物語だが、実際に主人公・アントワーヌが存在するのではないか、マチルドのような柔和な微笑みを湛えた美しい女性の床屋がどこかにいるのではないか、そう思ってしまう。
(少し前に、とある床屋で髪を切ってもらった際、若い女性が担当してくれたのだが、髪の切りくずを取り除くのに柔らかい手つきで何度も耳に触れられるという経験をした。何でもないことの筈なのに、その瞬間耳に全神経が集中したかのような気になった。本作や『最強のふたり』のことを思い出していた。)
殆ど全編が小さな床屋の一室だけで繰り広げられるこの作品は、男の夢に満ち溢れている。
冒頭の赤い毛糸の海水パンツの回想~タマへのいたわりの話といい、シェーファー夫人に髪を切ってもらう際の夢見心地の体験といい、少年が性に目覚める萌芽のようなものを見事なまでに描ききっている。男なら誰もが覚えのある、わくわくするくすぐったい甘酢っぱい気持ちだと思う。
そして少年がそのまま大人になったようなアントワーヌの前に現れるのが、美しき女性理容師・マチルド。アントワーヌの突然のプロポーズに応えるあたりも実に寓話的だ。マチルドをただひたすら愛して生きるアントワーヌ。
*****

この夢のような物語にひときわ彩りを添えたのが、マイケル・ナイマンの音楽であったろう。
アントワーヌが踊る奇妙なアラビア・ダンスのバックに流れる、数々の曲こそがこの映画の独特の魅力を生み出している。本作は歌と踊りの数々に満ち満ちた作品だといってよい。
冒頭、海辺。ポータブルのレコード・プレイヤーにそっと針が下りる。流れてくるのはアラビア風の音楽。白いテラスで身をくねらせる少年期のアントワーヌの姿が映し出される。
(「SAFFAK ALIK」)
海辺でひたすら遊んだ少年の頃の夏の思い出。サクランボを象った飾りのついた母手製の赤い毛糸の海水パンツの思い出が静かに語られる。
アントワーヌとマチルドの結婚式。マチルドの小さな店で挙げられたささやかな晴れ舞台。
ウエディング・ドレスに身を包んだマチルドの手をとり、踊り出すアントワーヌ。
(「WADANA-WADANA」)
散髪を嫌がる男の子を引っ張ってきた金持ちそうな若い婦人。
男の子の髪はぼさぼさに逆立っている。マチルドが懸命になだめすかしても嫌がって手に負えない。こんな時こそアントワーヌの出番だ。
「君が今まで見たことのないものを見せてあげるよ」
不思議な指の動きで男の子を引き付けておいて、徐にカセットのボタンを押す。
流れてきたのはリズミカルなアラビア音楽。身をくねらせるアントワーヌ。曲に合わせて突然アントワーヌの動きが大きくなった。
口をポカンと開けたまま男の子はアントワーヌの踊りに見入っている。その間に髪を切り始めるマチルド。少年のボサボサ頭がみるみるきれいになっていく。あきれ顔でアントワーヌの踊りを見ている母親(養母)。
(「YA-OURRA」)
因みにこの金持ちそうな若き婦人役の女優。本作の2年後、パトリス・ルコント監督による『タンゴ』という映画の冒頭で、浮気がばれてセスナ乗りの夫(演:リシャール・ボーランジェ)に空中から放り出される妻の役を演じていた。ミシェル・ラロックという。
客のいない店。脚を組み、雑誌に目を落とすマチルドの姿に視線を投げかけるアントワーヌ。
気付いて優しい微笑を投げかけるマチルド。夢のような時が流れる。
「新しいのを買ったんだ」流れてくるアラビア音楽。
目を輝かせるアントワーヌに、優しく笑みを浮かべるマチルド。マチルドを踊りへ誘うアントワーヌ。
「踊り方がわからない」とためらうマチルドを、「自己流でいいんだ」とアントワーヌはいざない、二人は踊り始める。
(「SA ALOUNI ANNAIS」)
「いつか宝くじを買う。1枚だけ。すると大当たり。二人でナイルへ行き、船のデッキで踊るんだ。1日中抱き合って、ピラミッドに沈む夕日の中で踊ろう。」
(「SA ALOUNI ANNAIS」は1:37頃から)
10年間でケンカは1度だけ。マチルドの好きな寄席芸人をアントワーヌがけなしたことが原因だった。夜中、眠れずに店に降りてきて1人煙草をふかすアントワーヌ。
そこへマチルドもやってきて仲直りする。オーデコロンやヘアコロンを混ぜ、カクテルにして飲み、乱痴気騒ぎをやらかす。
しかしこの夢の生活も永遠のものにはならなかった。
常連の2人客が店を出て行くのを心の中で指折り数えるアントワーヌ。激しい夕立が降り始める。店内で激しくアントワーヌを求めるマチルド。
行為を終えると「買い物してくる」と言い残し、大雨の中を飛び出して行ったマチルドは、発作的に濁流に身を投じる。
“あなたが死ぬか、私に飽きる前に死にます…”という遺書が。
その後もアントワーヌはいつもの長椅子でクロスワードに興じている。
散髪に来たチュニジア人の客を洗髪してやり、唐突に始めたアラビア・ダンスで盛り上がる。
「誰に教わった?」
「自己流さ 昔からそうだ」
「私がお手本を見せる」
お客の手本はアントワーヌ以上に奇妙奇天烈な動きだ。懸命に真似るアントワーヌ。
「君も大したもんだ」
「本当に?」
「ウィ、ウィ」
はしゃぐ2人の男たち。
アントワーヌは踊りながらラジカセのスイッチを突然切り、またクロスワードに戻る。
「家内が戻ります」
アントワーヌは客と共に還らぬマチルドを待ち続ける。
静かに流れる管弦楽の調べ―――そしてエンディング・クレジット。
夢のような話に悲劇的結末をぶつけ、男と女の恋愛観の違いを浮き彫りにした監督の視点は一方でとても厳しい。フランス映画ならではのシニカルな結末だということもできる。
マチルドの死に、泣き叫んだり心神喪失したりするでもなく、マチルドが本当にちょっとそこまで使いに行っているかのようにただじっと待っているアントワーヌの淡々とした姿が、一層もの哀しい。その姿をカメラは天井から静かに映している。
*****
本作を初めて観たのはやはり「ル・シネマ」だった。
もう22年近くも前のことになる。
初めてこの劇場へ来たのは、その少し前のジェラール・ドパルデュー主演『シラノ・ド・ベルジュラック』だったが、その後頻繁に「ル・シネマ」へ通うようになったきっかけは実質的に本作だったといってよい。
当時のプログラムを引っ張り出して、久しぶりに読んでみた。
川本三郎氏、岸田今日子さん、小野耕世氏…錚々たるメンバーの文章が載っている。
だが私の心を捉えて離さないのは、映画評論家・稲田隆紀氏が記した「アラブ風踊りをマスターしたい…」という一文である。
「男はそれぞれ理想の女神像を裡に秘めていて、許される限り、そのイメージを追い求める。…もちろん、そんな存在は現実になかなかいるはずもなく、勢い、男は容姿のメガネにかなう女性にそのイメージをむりやりあてはめようとする。」
「…自分の理想の女神と思える対象に対して、徹底的な献身と優しさで接していく(と、少なくとも自分で任じている)。しかも、相手の心の動きにはあまり気がいかない点までアントワーヌ的だから困ったものだ。」
アントワーヌにとって、幼少期のシェーファー夫人の思い出が、その後の人生観を形成する全てであったといえる。父親に頬を張られようが、母親に心配されようが、夢見心地の少年は、大人になったら女性の床屋さんと結婚するという強い願いを胸に抱く。
シェーファー夫人との突然の別れが却ってその想いを強くさせたのだといえよう。アントワーヌはそのまま大人になる。
そこで出会ったのがマチルドという孤独を愛する美貌の女性理容師。
「会話は苦手だ」と述懐するアントワーヌ。
マチルドに髪を切ってもらい、帰りがけに唐突にプロポーズし、何もなかったかのように店を立ち去るが、その実興奮して店の前で夜明かしする。
数週間後、再び店を訪ね、髪を切ってもらうアントワーヌ。マチルドは何の躊躇いもなく結婚を承諾する。その瞬間、アントワーヌが少年時代の姿に入れ替わり、にっこりと満面の笑みを浮かべる。
家族がおらず、旅行が嫌いなマチルドは、アントワーヌと始終2人だけで暮らし、店の2階に住まい、1人で店を切り盛りする。妻の体型が変わるのを嫌い、子供もいらないとアントワーヌ。
それはまさに夢のような世界。この幸福は永遠に続くかと思われた。
「ねえひとつだけ約束してちょうだい。愛してる振りだけは絶対にしないで」
「しっかり抱いて…胸がつぶれ苦しくなるほど 私をずっと離さないで」
よく見ると、マチルドはその愛の最高潮の場においても、アントワーヌにしっかりと自分を愛の力で繋ぎとめておいてくれと懇願し、いつかその愛が終わりを告げるのではないかと不安に駆られている。
楽天的なアントワーヌはそのことに気付く筈もない。溢れるような愛をマチルドだけに注ぎ、優しさと幸福感で包みこもうとする。ただひたすらに妻を愛し、好きで好きで堪らぬ様子がこれでもかというほど伝わってくる。
「…この生き方、アプローチを変えられるはずがない。無自覚、無反省といわれても、愛に溺れていたい。」
「女性の気持ちは、年が増えるにしたがってますます分からなくなってきている。相手がどう思っているかに思い惑うよりも、ひたすら自分の気持ちを伝え続ける。それしかないと思っている。」
「「ふ、情熱的なのね」
なんていわれると喜んだりしてしまう、なんて単純な男だ。この人生はひとつきり、そう思い知ってからは、ただひたすら愛に生きようゾ…なんて、まァノー天気な決心ではあることよ。」
物語の最後、マチルドは愛されることの最高潮を実感したところで、発作的に自らその命を絶ってしまう。
残されたアントワーヌには、その現実が受け入れられない。まるで夢の中の出来事であるかのように、楽天的であり続ける。妻が用事から帰ってくるかのように、客の洗髪だけ済ませて、パズルに興じて椅子に座って待ち続けている。
だが、時折挿入される真っ暗な背景を背負って現れるアントワーヌは、独りバリカンで自らの髪を刈りながら、物語を振り返ってみせる。その表情はどこか寂しげだ。そこにマチルドを喪った後のアントワーヌの孤独、喪失感、絶望…。そうしたものを私は感じ取ってしまう。
もしかすると劇中で次々と現れるあの奇妙なアラブ風踊りは、アントワーヌの思考から不安や心配といった悲観的要素を取り除く麻薬のようなものだったのかもしれない。
真っ暗な背景を背負ってバリカンを入れるアントワーヌは、果たしてアラブ風踊りを陽気に踊ることができるのであろうか。
アントワーヌがラジカセのスイッチを入れ、アラビア音楽が流れる。アントワーヌは腰を振り、腕を回しながら、奇妙な踊りに興じ始め、時にマチルドをその踊りに誘い込もうとする。
そんな時、マチルドは決まって
「もう…しょうがない人ね」
そんな含みを僅かに込めながらも、柔和な微笑みを湛えて、アントワーヌの気持ちに応える。そのマチルドの微笑みが女神に見えた。
男という生き物は、案外単純な思考回路の持ち主なのであって、好きで堪らぬ女性の前では少々のバカなこともしてみせるし、またその女性に「…んもう、バカねぇ」などと言われるのがどうしようもなく嬉しいものなのだ。
女性の皆さま、どうかそんな男どものバカさ加減を、寛容と幾ばくかの慈愛と憐憫をもって、暖かく見守り微笑みかけては下さるまいか。
さて件の稲田氏の文章は、こんな文で結ばれている。
「今、ぼくはアラブ風踊りをマスターしようと思っている。ぼくの“髪結いの女”のために。
こうなればとことんアントワーヌ、なのだ。」
本作に関する色々な文章を随分読んできたが、私は未だかつて、氏の書いたものほど本作への愛情に満ちた文章に巡り会ったことはない。
大昔、レーザーディスクの発売日、新宿の某店に駆け込んで買い求めたものだが、家に帰って中を開けてみたら、スリーブに氏の文章が解説として記されていた。
このLDを製作した人も自分と同じ思いをしているんだ。
私は再び幸せな気分になった。


22年ぶりにスクリーンで本作を観ながら、こんな思いやあんな思いや、色々なことが甦った。
私にとってフランス映画好きの原点である。
最後に本作の邦題・「髪結いの亭主」という言葉について触れておく。妻の稼ぎが良いから働かなくてよい夫。即ちヒモのような意味がある、古典落語に因んだ言葉だという。そういわれてみればアントワーヌも、一体何の仕事をしているのやら、正体不明である。
「髪結いの亭主」――そのどこか文学的でありながら蠱惑的魅力を湛えた古風な言い回しに、そこまでの意味を込めたのだとすれば、なかなか奥の深い邦題ではないか。
だがこの物語にとって、そんなことなどどうだって良いのだ。必要なのはアントワーヌという男が、マチルドという女性を好きで好きで堪らぬということだけなのである。
それにしても顔を隠して斜めに脚を組んで座るマチルドの絵姿が、何故実際よりも胸元の切れ込みが深く、丁度バレリーナの衣装の如く、それを隠すように白く覆われているのであろう。
その謎だけは今もって不明である。
******************************************
『髪結いの亭主』
(1990 仏)
監督・脚本:パトリス・ルコント
脚色・台詞:クロード・クロッツ、パトリス・ルコント
音楽:マイケル・ナイマン
主な出演者(括弧内は役名):
ジャン・ロシュフォール(アントワーヌ)
アンナ・ガリエナ(マチルド)
アンリ・ホッキング(12歳のアントワーヌ)
*******************************************
参考文献:プログラム

本作は、主演のジャン・ロシュフォールの代表作といってよいだろう。パトリス・ルコント監督の名を一躍有名にした作品でもある。

少年時代から女性の理容師に憧れ、髪結いの亭主になることを夢見てきた男が、夢を叶え、妻・マチルドと2人だけの生活を送るという、お伽話のような物語だが、実際に主人公・アントワーヌが存在するのではないか、マチルドのような柔和な微笑みを湛えた美しい女性の床屋がどこかにいるのではないか、そう思ってしまう。
(少し前に、とある床屋で髪を切ってもらった際、若い女性が担当してくれたのだが、髪の切りくずを取り除くのに柔らかい手つきで何度も耳に触れられるという経験をした。何でもないことの筈なのに、その瞬間耳に全神経が集中したかのような気になった。本作や『最強のふたり』のことを思い出していた。)
殆ど全編が小さな床屋の一室だけで繰り広げられるこの作品は、男の夢に満ち溢れている。
冒頭の赤い毛糸の海水パンツの回想~タマへのいたわりの話といい、シェーファー夫人に髪を切ってもらう際の夢見心地の体験といい、少年が性に目覚める萌芽のようなものを見事なまでに描ききっている。男なら誰もが覚えのある、わくわくするくすぐったい甘酢っぱい気持ちだと思う。
そして少年がそのまま大人になったようなアントワーヌの前に現れるのが、美しき女性理容師・マチルド。アントワーヌの突然のプロポーズに応えるあたりも実に寓話的だ。マチルドをただひたすら愛して生きるアントワーヌ。
*****

この夢のような物語にひときわ彩りを添えたのが、マイケル・ナイマンの音楽であったろう。
アントワーヌが踊る奇妙なアラビア・ダンスのバックに流れる、数々の曲こそがこの映画の独特の魅力を生み出している。本作は歌と踊りの数々に満ち満ちた作品だといってよい。
冒頭、海辺。ポータブルのレコード・プレイヤーにそっと針が下りる。流れてくるのはアラビア風の音楽。白いテラスで身をくねらせる少年期のアントワーヌの姿が映し出される。
(「SAFFAK ALIK」)
海辺でひたすら遊んだ少年の頃の夏の思い出。サクランボを象った飾りのついた母手製の赤い毛糸の海水パンツの思い出が静かに語られる。
アントワーヌとマチルドの結婚式。マチルドの小さな店で挙げられたささやかな晴れ舞台。
ウエディング・ドレスに身を包んだマチルドの手をとり、踊り出すアントワーヌ。
(「WADANA-WADANA」)
散髪を嫌がる男の子を引っ張ってきた金持ちそうな若い婦人。
男の子の髪はぼさぼさに逆立っている。マチルドが懸命になだめすかしても嫌がって手に負えない。こんな時こそアントワーヌの出番だ。
「君が今まで見たことのないものを見せてあげるよ」
不思議な指の動きで男の子を引き付けておいて、徐にカセットのボタンを押す。
流れてきたのはリズミカルなアラビア音楽。身をくねらせるアントワーヌ。曲に合わせて突然アントワーヌの動きが大きくなった。
口をポカンと開けたまま男の子はアントワーヌの踊りに見入っている。その間に髪を切り始めるマチルド。少年のボサボサ頭がみるみるきれいになっていく。あきれ顔でアントワーヌの踊りを見ている母親(養母)。
(「YA-OURRA」)
因みにこの金持ちそうな若き婦人役の女優。本作の2年後、パトリス・ルコント監督による『タンゴ』という映画の冒頭で、浮気がばれてセスナ乗りの夫(演:リシャール・ボーランジェ)に空中から放り出される妻の役を演じていた。ミシェル・ラロックという。
客のいない店。脚を組み、雑誌に目を落とすマチルドの姿に視線を投げかけるアントワーヌ。
気付いて優しい微笑を投げかけるマチルド。夢のような時が流れる。
「新しいのを買ったんだ」流れてくるアラビア音楽。
目を輝かせるアントワーヌに、優しく笑みを浮かべるマチルド。マチルドを踊りへ誘うアントワーヌ。
「踊り方がわからない」とためらうマチルドを、「自己流でいいんだ」とアントワーヌはいざない、二人は踊り始める。
(「SA ALOUNI ANNAIS」)
「いつか宝くじを買う。1枚だけ。すると大当たり。二人でナイルへ行き、船のデッキで踊るんだ。1日中抱き合って、ピラミッドに沈む夕日の中で踊ろう。」
(「SA ALOUNI ANNAIS」は1:37頃から)
10年間でケンカは1度だけ。マチルドの好きな寄席芸人をアントワーヌがけなしたことが原因だった。夜中、眠れずに店に降りてきて1人煙草をふかすアントワーヌ。
そこへマチルドもやってきて仲直りする。オーデコロンやヘアコロンを混ぜ、カクテルにして飲み、乱痴気騒ぎをやらかす。
しかしこの夢の生活も永遠のものにはならなかった。
常連の2人客が店を出て行くのを心の中で指折り数えるアントワーヌ。激しい夕立が降り始める。店内で激しくアントワーヌを求めるマチルド。
行為を終えると「買い物してくる」と言い残し、大雨の中を飛び出して行ったマチルドは、発作的に濁流に身を投じる。
“あなたが死ぬか、私に飽きる前に死にます…”という遺書が。
その後もアントワーヌはいつもの長椅子でクロスワードに興じている。
散髪に来たチュニジア人の客を洗髪してやり、唐突に始めたアラビア・ダンスで盛り上がる。
「誰に教わった?」
「自己流さ 昔からそうだ」
「私がお手本を見せる」
お客の手本はアントワーヌ以上に奇妙奇天烈な動きだ。懸命に真似るアントワーヌ。
「君も大したもんだ」
「本当に?」
「ウィ、ウィ」
はしゃぐ2人の男たち。
アントワーヌは踊りながらラジカセのスイッチを突然切り、またクロスワードに戻る。
「家内が戻ります」
アントワーヌは客と共に還らぬマチルドを待ち続ける。
静かに流れる管弦楽の調べ―――そしてエンディング・クレジット。
夢のような話に悲劇的結末をぶつけ、男と女の恋愛観の違いを浮き彫りにした監督の視点は一方でとても厳しい。フランス映画ならではのシニカルな結末だということもできる。
マチルドの死に、泣き叫んだり心神喪失したりするでもなく、マチルドが本当にちょっとそこまで使いに行っているかのようにただじっと待っているアントワーヌの淡々とした姿が、一層もの哀しい。その姿をカメラは天井から静かに映している。
*****
本作を初めて観たのはやはり「ル・シネマ」だった。
もう22年近くも前のことになる。
初めてこの劇場へ来たのは、その少し前のジェラール・ドパルデュー主演『シラノ・ド・ベルジュラック』だったが、その後頻繁に「ル・シネマ」へ通うようになったきっかけは実質的に本作だったといってよい。
当時のプログラムを引っ張り出して、久しぶりに読んでみた。
川本三郎氏、岸田今日子さん、小野耕世氏…錚々たるメンバーの文章が載っている。
だが私の心を捉えて離さないのは、映画評論家・稲田隆紀氏が記した「アラブ風踊りをマスターしたい…」という一文である。
「男はそれぞれ理想の女神像を裡に秘めていて、許される限り、そのイメージを追い求める。…もちろん、そんな存在は現実になかなかいるはずもなく、勢い、男は容姿のメガネにかなう女性にそのイメージをむりやりあてはめようとする。」
「…自分の理想の女神と思える対象に対して、徹底的な献身と優しさで接していく(と、少なくとも自分で任じている)。しかも、相手の心の動きにはあまり気がいかない点までアントワーヌ的だから困ったものだ。」
アントワーヌにとって、幼少期のシェーファー夫人の思い出が、その後の人生観を形成する全てであったといえる。父親に頬を張られようが、母親に心配されようが、夢見心地の少年は、大人になったら女性の床屋さんと結婚するという強い願いを胸に抱く。
シェーファー夫人との突然の別れが却ってその想いを強くさせたのだといえよう。アントワーヌはそのまま大人になる。
そこで出会ったのがマチルドという孤独を愛する美貌の女性理容師。
「会話は苦手だ」と述懐するアントワーヌ。
マチルドに髪を切ってもらい、帰りがけに唐突にプロポーズし、何もなかったかのように店を立ち去るが、その実興奮して店の前で夜明かしする。
数週間後、再び店を訪ね、髪を切ってもらうアントワーヌ。マチルドは何の躊躇いもなく結婚を承諾する。その瞬間、アントワーヌが少年時代の姿に入れ替わり、にっこりと満面の笑みを浮かべる。
家族がおらず、旅行が嫌いなマチルドは、アントワーヌと始終2人だけで暮らし、店の2階に住まい、1人で店を切り盛りする。妻の体型が変わるのを嫌い、子供もいらないとアントワーヌ。
それはまさに夢のような世界。この幸福は永遠に続くかと思われた。
「ねえひとつだけ約束してちょうだい。愛してる振りだけは絶対にしないで」
「しっかり抱いて…胸がつぶれ苦しくなるほど 私をずっと離さないで」
よく見ると、マチルドはその愛の最高潮の場においても、アントワーヌにしっかりと自分を愛の力で繋ぎとめておいてくれと懇願し、いつかその愛が終わりを告げるのではないかと不安に駆られている。
楽天的なアントワーヌはそのことに気付く筈もない。溢れるような愛をマチルドだけに注ぎ、優しさと幸福感で包みこもうとする。ただひたすらに妻を愛し、好きで好きで堪らぬ様子がこれでもかというほど伝わってくる。
「…この生き方、アプローチを変えられるはずがない。無自覚、無反省といわれても、愛に溺れていたい。」
「女性の気持ちは、年が増えるにしたがってますます分からなくなってきている。相手がどう思っているかに思い惑うよりも、ひたすら自分の気持ちを伝え続ける。それしかないと思っている。」
「「ふ、情熱的なのね」
なんていわれると喜んだりしてしまう、なんて単純な男だ。この人生はひとつきり、そう思い知ってからは、ただひたすら愛に生きようゾ…なんて、まァノー天気な決心ではあることよ。」
物語の最後、マチルドは愛されることの最高潮を実感したところで、発作的に自らその命を絶ってしまう。
残されたアントワーヌには、その現実が受け入れられない。まるで夢の中の出来事であるかのように、楽天的であり続ける。妻が用事から帰ってくるかのように、客の洗髪だけ済ませて、パズルに興じて椅子に座って待ち続けている。
だが、時折挿入される真っ暗な背景を背負って現れるアントワーヌは、独りバリカンで自らの髪を刈りながら、物語を振り返ってみせる。その表情はどこか寂しげだ。そこにマチルドを喪った後のアントワーヌの孤独、喪失感、絶望…。そうしたものを私は感じ取ってしまう。
もしかすると劇中で次々と現れるあの奇妙なアラブ風踊りは、アントワーヌの思考から不安や心配といった悲観的要素を取り除く麻薬のようなものだったのかもしれない。
真っ暗な背景を背負ってバリカンを入れるアントワーヌは、果たしてアラブ風踊りを陽気に踊ることができるのであろうか。
アントワーヌがラジカセのスイッチを入れ、アラビア音楽が流れる。アントワーヌは腰を振り、腕を回しながら、奇妙な踊りに興じ始め、時にマチルドをその踊りに誘い込もうとする。
そんな時、マチルドは決まって
「もう…しょうがない人ね」
そんな含みを僅かに込めながらも、柔和な微笑みを湛えて、アントワーヌの気持ちに応える。そのマチルドの微笑みが女神に見えた。
男という生き物は、案外単純な思考回路の持ち主なのであって、好きで堪らぬ女性の前では少々のバカなこともしてみせるし、またその女性に「…んもう、バカねぇ」などと言われるのがどうしようもなく嬉しいものなのだ。
女性の皆さま、どうかそんな男どものバカさ加減を、寛容と幾ばくかの慈愛と憐憫をもって、暖かく見守り微笑みかけては下さるまいか。
さて件の稲田氏の文章は、こんな文で結ばれている。
「今、ぼくはアラブ風踊りをマスターしようと思っている。ぼくの“髪結いの女”のために。
こうなればとことんアントワーヌ、なのだ。」
本作に関する色々な文章を随分読んできたが、私は未だかつて、氏の書いたものほど本作への愛情に満ちた文章に巡り会ったことはない。
大昔、レーザーディスクの発売日、新宿の某店に駆け込んで買い求めたものだが、家に帰って中を開けてみたら、スリーブに氏の文章が解説として記されていた。
このLDを製作した人も自分と同じ思いをしているんだ。
私は再び幸せな気分になった。


22年ぶりにスクリーンで本作を観ながら、こんな思いやあんな思いや、色々なことが甦った。
私にとってフランス映画好きの原点である。
最後に本作の邦題・「髪結いの亭主」という言葉について触れておく。妻の稼ぎが良いから働かなくてよい夫。即ちヒモのような意味がある、古典落語に因んだ言葉だという。そういわれてみればアントワーヌも、一体何の仕事をしているのやら、正体不明である。
「髪結いの亭主」――そのどこか文学的でありながら蠱惑的魅力を湛えた古風な言い回しに、そこまでの意味を込めたのだとすれば、なかなか奥の深い邦題ではないか。
だがこの物語にとって、そんなことなどどうだって良いのだ。必要なのはアントワーヌという男が、マチルドという女性を好きで好きで堪らぬということだけなのである。
それにしても顔を隠して斜めに脚を組んで座るマチルドの絵姿が、何故実際よりも胸元の切れ込みが深く、丁度バレリーナの衣装の如く、それを隠すように白く覆われているのであろう。
その謎だけは今もって不明である。
******************************************
『髪結いの亭主』
(1990 仏)
監督・脚本:パトリス・ルコント
脚色・台詞:クロード・クロッツ、パトリス・ルコント
音楽:マイケル・ナイマン
主な出演者(括弧内は役名):
ジャン・ロシュフォール(アントワーヌ)
アンナ・ガリエナ(マチルド)
アンリ・ホッキング(12歳のアントワーヌ)
*******************************************
参考文献:プログラム