前回の続き 。
『ベルばら』話に終始することになりそうなので、今回に限り、旅程は省略とします。
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第2幕。
小公子・小公女の場面は廃され、いきなりスウェーデンの花祭りから物語は始まる。
人々が花祭りに浮かれている中、軟禁状態のフェルゼンは「愛の面影」を熱唱。失ってしまった愛の痛手に傷心は癒えない。
そこへ妹ソフィアが現れ、名も名乗らぬ来客を告げる。
不審に思うフェルゼンの前に姿を現したのは、ジェローデルであった。
ジェローデルはフェルゼンに、革命の勃発、それに伴い国王一家が幽閉されてしまったことを告げる。
あまりのことに呆然としながら、オスカルはどうしたのだと尋ねるフェルゼン。
ジェローデルは、オスカルとアンドレが共に革命で戦死したと告げる。
そこから回想シーン。
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ジャルジェ夫人とオスカルの姉・オルタンスが、オスカルのことを心配している。
オスカル、パリ出動を明日に控え、自室を見回しながら感慨に耽る。
オスカルはアンドレを呼び、アンドレに礼を言う。
アンドレはこの先もずっとオスカルの傍にいると誓う。
そんなアンドレにオスカルは気持ちを確かめ、ついに2人は結ばれる。
「今宵一夜」の場面である。
「ああ、見果てぬ夢よ。永遠に凍りつき、セピア色の化石ともなれ…俺は…俺は今日まで生きていて良かった…」
パリの練兵場。衛兵隊員たちがパリ情勢を話し合っている。オスカル隊長がパリに出動せず、ベルサイユに呼び戻されるという噂に動揺する隊員たち。彼らのリーダー格アランは、彼らを諌め、オスカル隊長を信じようと呼びかける。
“オスカル隊長が撃てと命じれば、自分は市民を撃つ。”
そうまで言い放つアランの姿をちょっと意外に感じる。
いよいよパリ市内。
軍隊が市民に向けて遂に攻撃を仕掛けた。
衛兵隊員たちは、その家族である市民たちと戦わねばならぬのか、と激しい動揺を隠せない。
アンドレは懸命に彼らを抑え、オスカル隊長の帰還を待とうと言う。
オスカルが戻ってくる。
続いてやって来たブイエ将軍は、隊員たちに市民の殲滅を命ずるが、彼らは隊長オスカルの命令を待つと宣言する。
業を煮やしたブイエ将軍は、オスカルが女性であることを理由に侮辱する。
オスカルは意を決し、市民側に就き、革命に参加しようと宣言する。
砲撃が始まる。オスカルを心配して戻ってきたアンドレ、オスカルの前で撃たれ、戦死する。
オスカルは悲しみを振り切り、毅然として市民たちを率い、手始めに同士が囚われているバスティーユの攻撃へと向かう。
激しい戦闘の踊り。
やがてオスカルの胸を非情の銃弾が貫いた。
気力を振り絞り、敢然と立ち向かわんとするオスカルを再び銃弾が襲う。
その時、バスティーユに白旗が揚がった。
「ついに陥ちたか…フランス…万歳。」
オスカルは息を引き取った。
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第1幕終盤で、フェルゼンがスウェーデンへの帰国の挨拶にルイ16世の元へ伺候した後、舞台はスウェーデンへと移り、アンドレとオスカルの戦死の様子が、フェルゼンを遠路訪ねたジェローデルの回想という形で語られるのは、2006年星組公演が最初であろう。
それ以前のフェルゼン中心の版では、第1幕後半でアンドレもオスカルも物語から早々と退場する。フェルゼン中心の筋を変えず、なおかつアンドレとオスカルの出番を後半まで引き伸ばすという、相反する難しい要求に応えた巧みな筋書きである。
しかし、それゆえにアンドレとオスカルの革命勃発に伴う戦死の模様は、いかようにも縮めて描くことができ、特に今回の通常公演版では、唐突にオスカルとアンドレが結ばれた感がある。
パリ出動を目前に、突如としてオスカルにジェローデルとの結婚話が持ち上がり、アンドレが思い詰めてオスカルに毒酒を振舞おうとする場面さえもカットされてしまった。結局、アンドレがオスカルへの想いを描く「白ばらの人」も歌われずじまいである。
(特別出演版でだけ歌われるようだ。)
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ジェローデルは回想を終え、フェルゼンに王妃様救出に手を貸してくれと頼む。
フェルゼンは、妹ソフィアの止めるのも聞かず、再びジェローデルと共にフランスへ向かった。
国境近くの森。先を急ぐフェルゼンとジェローデルに国境守備隊たちが襲い掛かる。
応戦しようとするジェローデルを制するフェルゼン。彼は、アントワネットに災いが降りかかるのを避けるため、自慢の剣を封印したという。
それを聞きつけた隊長・ジェファーソンが興味を抱く。
フェルゼンの話を聞き、ジェファーソンは「子供のお伽噺」と笑い飛ばし、フェルゼンに戦意のない事を馬鹿にする。
更にジェファーソンは、そこまでして愛した女が何と言われているか、とアントワネットを侮辱する言葉を隊員たちと共に次々に発する。
遂にフェルゼンの堪忍袋の緒が切れた。
電光石火の早業で、彼らを峰打ちで薙ぎ倒し、足早にその場を立ち去った。
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このスウェーデンの森の場面は初めて観た。
似た場面を挙げるなら、1990年の花組(大浦みずき版)や、2001年の宙組(和央ようか版)、2005年星組韓国公演(湖月わたる版)にあった、フェルゼンがスウェーデンを脱出する決意を固め、国王・グスタフⅢ世の生誕祝いの席に伺候する場面であろう。
フェルゼンは、国王に自らの確固たる愛の信念を訴える。
愛する人の苦難に直面したら、命をも捨てる覚悟だと告げるフェルゼンに、国王は歌を所望する。
歌うのは勿論「愛の面影」。その朗々たる歌声のさなか、兵士たちがフェルゼンを取り囲む。四面楚歌の絶体絶命の中、歌を引き継ぐ形で鳴り響く哀愁のトランペットの響きが切ない。
兵士たちと剣を交え、包囲網を突破する。
その後ろから掛かる国王の声。
「フェルゼン行ってやれ。そなたの愛を貫き通せ。」
そしてフェルゼンはフランスへ、アントワネットの元へ急行するのだ。
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ところが今回の森の場面はどうだろう。
フェルゼンの愛を問いただしたジェファーソンは、彼を「大馬鹿者」と笑い飛ばし、彼の愛するアントワネットに部下をも交えてあらん限りの侮蔑を与える。
「驕慢、遊興女、高慢、無節操女、破廉恥、無自覚、欺瞞女、享楽、浪費家、ふしだら女」
ここまで愛する人を侮辱されてはフェルゼンも黙ってはいられない。
先に挙げた国王・グスタフⅢ世が、フェルゼンの愛の信念の強さに心打たれ、感極まって愛の遂行を認めるのとは随分な違いである。
所詮ジェファーソンという隊長位では、そんな度量もなかったということか。
国王伺候の場面では、フェルゼンの純粋な愛の強さ、一途さ、男の孤独さえも伝わってきた。
だが、森の場面からは、残念ながらフェルゼンに降りかかった苦難しか伝わって来なかった。
大半の観客は、フェルゼンとアントワネットの味方になってこの舞台を観ている。
その彼らに対し、ありったけの侮辱を加えるだけのジェファーソン以下兵士どもを、私は、申し訳ないが、憎しみ以外の感情で見ることはできなかった。
執拗なまでのアントワネットに対する侮辱。
例えば2006年の星組版では、アントワネット(演:白羽ゆり)が、幽閉先で公安委員の男たちに、夫・ルイ16世に続き、子供たちからも引き離される。
「あなたたちも人の親でしょう」と激しく抗議するアントワネットに、男たちは侮辱の言葉を投げつけ、彼女の髪をひっつかみ突き飛ばす。
男たちは、アントワネットが贅沢な暮らしを続けていた時、酷い窮状にさらされ、疾うに子供たちを失っていた。
そこには革命という歴史の事実に至る、抑圧され続けた民衆の悲哀、恨み、窮乏が込められていた。アントワネットへの侮辱も、引き離されようとしている子供さえ疾うに失っていた彼らにとっては、正当以外の何物でもない。そんな大きな説得力を感じさせたのであった。
フランスの民衆に比べると、遠い異国のスウェーデンの兵士たちが、そこまでアントワネットに侮辱を加える必然性がまるでない。
あるとすれば色男・フェルゼンへの、男の醜い嫉妬である。
何故こんな救いようのない気分の悪い場面を加えたのか?
とうに戦死してしまったオスカルとアンドレに、あの世から戻ってきてもらい、奴らを叩きのめしてもらいたいほどである。
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一方パリ市内。ロザリーに問い正され、夫ベルナール、そしてアランが国王一家救出計画を告白する。この革命は失敗だった。市民たちの生活は少しも改善されてはいない。結局は貴族たちの権力争いに利用されただけだと吐き捨てるように言うベルナールとアラン。
ベルナールだけではなく、アランも救出計画に加わっているというのが新鮮である。
漸くフランス国境にまで至ったフェルゼンとジェローデル。
農夫たちの噂話から、ルイ16世処刑を知り、アントワネットが今ではカペー未亡人と呼ばれ、近く裁判にかけられると聞かされる。
馬車を駆り、王妃の元へフェルゼンはひた走る。(「ゆけフェルゼン」の場面)
コンシェルジェリー牢獄。一人囚われの身となっているアントワネット。その身の回りの世話をロザリーがしている。
ロザリーの夫ベルナールが、最後の面会人を連れてきた。
メルシー伯爵であった。
彼はアントワネットに、ステファン人形を返しに来たのであった。
輿入れの日、一日も早く大人になって頂きたい一心で、アントワネットが大切にしていたステファン人形をとり上げたのだった。ところが大人になってしまったばかりに…と王妃の運命を嘆くメルシー伯。
アントワネットは、そんなメルシー伯をねぎらう言葉を掛け、最後の別れを告げた。
一人残され、ステファン人形に語りかけるアントワネット。もはや死を待つのみ。
そこへ黒マントに身を包んだフェルゼンが現れた。全ての手順を整え、今、王妃救出に来たのだ。アントワネットは感極まって涙を流す。だが、フェルゼンの申し出を断った。
フランス王妃として、幼き王太子、王女の母として、その責任を放棄することはできない。行方知れずの子を放って逃げることはできない。切々と訴えかけた。
尚も懸命にかき口説こうとするフェルゼンに、アントワネットは、これまで耐えに耐えてきた互いの愛のありようを説き、このまま死なせてくれることがせめてもの思いやり、愛の証だという。
フェルゼン、苦悩と無念の気持ちをぐっと抑え、精一杯の笑顔を愛する人に向けて見せた。
フェルゼンの胸に飛び込むアントワネット。力強く抱きしめながら、今生の別れに無念の思いがこみあげる。
そこへ遂にアントワネット召喚にベルナールがやって来た。
アントワネットは咄嗟に形見にとステファン人形をフェルゼンに渡し、フェルゼンは身を隠す。
召喚に応じるアントワネットを物陰から飛び出して追おうとするフェルゼンに、ロザリーが必死に追いすがる。
どうしようもないやるせなさに深い哀しみを覚え、フェルゼンは涙ながらに歌う。
「♪愛、それは悲しく 愛、それは切なく…」
手にはしっかりとステファン人形を握りしめながら。
断頭台を昇ってゆくアントワネットの姿が重なる。一歩一歩確と階段を踏みしめるように。
「王妃さま…あなたは私の胸の中にいつまでも生きています。
あのベルサイユに咲く紅薔薇のように。」
「さようならベルサイユ、さようならパリ、さようならフランス」
アントワネットは静かに段上へと消えた。
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続いてフィナーレ。
・初舞台生たちの元気なロケット(ラインダンス)。青基調のトリコロールカラーの衣装が華やかである。
・「愛の柩」。紅い衣装の女役たちを従え、フェルゼン役・壮一帆現れる。背後のダンサー、男役たちに代わり、群舞。やがてアントワネット役・愛加あゆとのデュエットダンスとなる。
・ロウソク状の飾りが上下から出てくる。大階段上に斜めに開けられたスペース。白い衣装に身を纏った女役たちが、幻想的に舞う。やがて上方から黒燕尾の男役たちが下りてくる。ロウソクの飾りが上方に引き上げられ、群舞となる。
・パレード。久しぶりに女役のエトワール(演:夢華あみ)である。個人的には男役が勤めるよりも、女役のソプラノがエトワールをしてくれるほうが好きだ。まして男役が複数で出てくると、胡麻化された気がして、それだけで印象を悪くする。歌は「青きドナウの岸辺」。だが、残念なことに、最後の「♪…変わることなく」で音程が下がってしまった。声を張り上げ音程を上げてこその女役エトワールだと思うのだが…。
この後、「フェルゼン編」の主題歌といえる「愛の面影」を歌いつなぎ、銀橋。
そして華やかな舞台に幕が下りた。
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上で随分と辛辣なことも述べた。
前回も含め、かなり長い文章になってしまった。
今一度、何に不満を抱いているかを、以下に要約して記すことにする。
・冒頭の仮面舞踏会の場面。パペットに擬した描写では、フェルゼン、アントワネットの相思相愛、やがて恋心へと変わるオスカルのフェルゼンに対する清々しい感情、これらが何一つ描かれていない。
・アントワネットの登場場面のあまりの少なさ。フェルゼンにとり最愛の女性にも拘らず、その女性との美しく楽しい思い出が全く省略され、最初の場面は別れ話というありよう。
・このことが尾を引き、最後の牢獄の場面で、メルシー伯が返しに来たステファン人形の意味がよく伝わらない。(ステファン人形の説明さえ、フェルゼン屋敷の場面でメルシー伯が語るにすぎないため、印象が薄い。)
・定番主題歌の省略が多いこと。特にアンドレがオスカルを思う「白ばらの人」は、通常公演版ではイントロしか流れない。
・オスカルが軍服姿で、フェルゼンに一瞬でもよよと寄り添うのは変ではないか。軍服のオスカルは女性としての感情を封印し、男として生きているのではなかったか。
・第1幕最後のフェルゼン帰国の挨拶の場面。フェルゼンはオスカルに対し、終始友情のみを抱き、愛するのはアントワネットのみなのだから、「白薔薇」、「紅薔薇」と2人を対比させて語るのは、「両手に花」で喜んでいるかのような誤解を招きかねない。
・オスカルとアンドレの出番を第2幕にまで持ち越すためだと思うが、彼らの戦死が回想という形で描かれるため、断片的な描写になりかねない。特に通常公演版では、思い詰めたアンドレがオスカルに毒酒を勧め、長年封印してきた想いを吐き出してしまう場面すらカットされてしまった。そのため「今宵一夜」の場面が唐突に感じる。
・スウェーデンの森でフェルゼンに立ちはだかった国境守備隊たちの場面。彼らはフェルゼンとアントワネットに侮辱を与えるだけでしかなく、その必然性も、その先に描かれるべきフェルゼンの愛の深さも、何もない。彼らを憎たらしいという感情のみが生じる。
・「特別出演版」にのみ、毒酒の場面が存在し、アンドレの「白ばらの人」独唱場面がある。代わりに「森」の場面がない。如何に客演者を目立たせるためとはいえ、こうまで大幅に内容を変えてしまう(しかも「通常公演版」は改悪だと思う)のは、良い印象を抱けない。良いものを観たけりゃ「特別出演版」を観に来いと言われているかのようだ。
・ベルナールやアランに対する説明が乏しく、特にアランは今回版では国王一家救出作戦にも加わっているから、アランが何者なのかが、この舞台しか観ていない場合、非常にわかり辛い。
・フランス情勢を語る貴族たちの場面は何度か出てくるが、ジャルジェ将軍(オスカルの父)が出てこない。その割にジャルジェ夫人やオルタンス(オスカルの姉)は出てくる。ブイエ将軍も出てくる。
・個人の好みの問題だが、フィナーレ場面で何故「薔薇のボレロ」という特徴的な名デュエット場面を採用しなかったのか?映像ソフト化には著作権上の問題が伴う曲のようではあるが、昔からの定番なのだから、それ位は入れてほしかった。
ざっと挙げるとこんなところである。
ベルナールやアランについては、先の『オスカル編』と併せて観ろということなのであろうか。
だが、アントワネットは『オスカル編』にはそもそも出てこなかったのではないか?
原作漫画やアニメ版、過去の宝塚の舞台の多くを既に観ているから、情報不足を補って観ているが、この舞台のみではよくわからないことが多すぎるような気がする。
以上、筋書きについてばかり書いてきたが、最後に出演者について。
私は今の宝塚スターのことは全く詳しくないので、主演のフェルゼン役・壮一帆さんについてだけ。
フェルゼンのテーマ曲ともいうべき「愛の面影」を最初に歌う場面で、「♪どうして どうして 忘れることが出来よう…」、その出だしの「どうして」の「ど」はいきなりの低音だが、今回観に行った3回が3回とも音程が安定せず、綺麗な歌い始めとは思えなかった。心配になったものだが、その後はちょっと和央ようかさんを思い出させる、独特の高声の響きをもった、なかなかどうして朗々たる歌声が、最初に思ったよりはずっと良かったと思う。
ビジュアル的には若々しく堂々たる貴公子ぶりが板についていた。
フェルゼンに関しては、初っ端で日向薫のフェルゼンを観、大浦みずきフェルゼンにビデオとはいえ大いなる感銘を受け、後で鳳蘭を観てさすがと唸った。
今でも自分にとってはフェルゼン役者の基準は大浦さんである。
そんな比較をしてしまうのは酷なことかもしれないが、一昔前のフェルゼンは青年貴公子でありながら、もっと大人の風格があったと思う。
しかし、トップスター就任前に他の組から移籍ということが多いようで、旧来の組のカラーというものが希薄な気がする。
紫苑ゆうの後任が麻路さき、安寿ミラの後任が真矢みきだったように、かつては2番手スターとしてその組で活躍してきた人が、次に満を持してトップ就任という印象があったが、今は組み替えでトップ就任という、組のカラーというものを無視したことが起こっているようだ。
生え抜きが次期社長になるかと思いきや、いきなり天下り役人に社長の椅子をかっさらわれたような違和感を感じる。
凰稀かなめ、柚希礼音、龍真咲といった他組からの特別出演者が、アンドレ、オスカル役に加わる「特別出演版」が大劇場公演の一部にあり、残念ながら今回観に行けなかったが、「特別出演版」だけが上に挙げた不満の一部を解消してくれているようである。それのDVDも別に出るようなので、是非買って観てみようと思っている。というよりも「特別出演版」しかDVDを買いたくない。
こうした思いを抱きながらも、本編最後でアントワネットが断頭台の露と消え、大階段~銀橋のパレードを経ると、「ああ良かったね」そういう感想に化けるのは、偉大なる宝塚マジックといえようか。
もうすぐ東京公演が始まる。
今更アントワネットの出番を増やせと言ってみても無理な話だろうが、せめて冒頭のパペットを通常の芝居に戻し、アンドレの毒入りワイン場面を復活させ、スウェーデン国境森の場面の削除、アンドレの「白ばらの人」独唱復活、それ位の改変はして頂けないものだろうか。
長い歴史があり、昔NHKの番組で植田紳爾さんが確か仰っていたと思うが、歌舞伎のような「型」がある。古いものをなぞるだけでは発展は望めず、宝塚は時代に合わせて常に変化するだけの柔軟性を備えているのは事実だが、何でもかんでも変えりゃいいというものではないだろう。
確かな「型」をふまえつつ、潤色を加えていくことにこそ妙味があるのではないのか。積み重ねがあるだけにファンはあれもこれもとついつい期待を寄せたくなる。
それで色々と注文をつけたくなるのだが、どれもこれも『ベルばら』好きゆえの感想である。特に特定のスターさんの熱心なファンの方には、不快に思われる記述もあったかもしれないが、どうぞご容赦下さい。
これにて大劇場で観劇した『ベルばら』感想文、まずは完結。
以上、敬称略。

