前回の続き。
私が「レッドアロー」の存在を知ったのは、東京に移り住む前、1970年代半ばに遡る。
幼少期だった私は、買ってもらった絵本(今のような写真ではなく、本当に「絵」本でした)を何気なく眺めていた。
するとそこに、山岳トンネルから走り出てくる電車の絵があった。
それが人生で初めて目にした「レッドアロー」の姿であった。
幼少期ゆえ、南海高野線や近鉄吉野線の特急のことは知らず、山から出てくるカラフルな私鉄特急というものを知らなかった。
正面の大きなガラス窓、下方の四角いライトケースに収まった横並びのライト、中央に配された愛称板。
幼な心に、「何かバスみたいな電車やな~」というのが第一印象であった。
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数年後、父親の仕事の都合で、東京へ移り住むことになる。
当時、鉄道以上に熱中していた虫取りが出来なくなると、泣いて嫌がったのだが、幼い子供にそれ以上の何が出来るというのだろう。
親にさんざん言いくるめられ、渋々東京行きを承知する。
ひと月前に既に東京に単身赴任していた父から、
「今度住むとこは鷺ノ宮言うて、特急も急行も全部停まる。」
そう聞かされていた。
だが、父の言葉は嘘であった。
東京のどんなビルの谷間に住むのかと思いきや、田んぼこそなかったが、当時の鷺ノ宮は畑や空き地が多く、周囲は一軒家ばかりが目についた。
拍子抜けした気分になりながら、やがて西武新宿線に乗る機会を得た。
当時の鷺ノ宮駅は、錆びた線路が空しく佇む行き止まり線が真ん中にある古ぼけた駅で、幼い私が電車に乗せてもらう日中は、急行電車すら走っていない。
今の「急行」は当時「準急」であった。
その「準急」が20分おきに走る以外は、全て普通電車で、特急など走ってはいなかった。(後で、休日に一往復だけ走っていることを知る。)
鷺ノ宮の北側、中野区の北の外れの家から、更に北へ向かえば西武池袋線が走っており、富士見台と中村橋という駅にもそれぞれ歩いて行けた。
否、寧ろ、鷺ノ宮よりも富士見台のほうが近い場所であった。
やがて東京暮らしに徐々に慣れ始めると、母の買い物によくついて行った。
8歳だった私を一人で留守番させておくわけにはいかなかったのだろう。
当時、鷺ノ宮と富士見台は商店街が中心をなしており、中杉通り沿いの「いなげや」も「OKストア」もまだなく、ちょっとした規模のスーパーといえば、中村橋の「西友」しかなかった。
因みに「OKストア」は、開店当初「スーパーポテト」という別のスーパーだった。
この西友にはよくついて行った。
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今では高架複々線になってすっかり様変わりしてしまったが、当時は電車は地上を走っていた。
西友中村橋店は線路際にあり、古枕木に鉄条網を張った背の低い柵が線路との間を隔てていた。その柵に頭を突っこむようにして無造作に自転車が多数置かれている。
幼い私はいつも、母の買い物に店内へついては行かず、まだ舗装すらされていなかった道の、簡易な自転車置き場で、母が戻ってくるのを待っていた。
すぐそばを西武鉄道の電車が行き交う。
実に様々な形式の電車を目の当たりにした。
「レッドアロー」と同じ1969年にデビューした「ASカー」こと101系電車は、西武の本格的な近代化の立役者として、黄色にベージュの軽やかな衣を纏い、軽快なモーター音を響かせた。
「赤電」と呼ばれる旧性能車群、その中にも実に色々なバリエーションがあり、それらを覚えていくのが楽しくてならなかった。
「赤電」の中にも、601系、701系という新性能車もあり、更に701系には冷房改造車も出始めていた。
よく観察していると、黄色の「101系」にも、非冷房車、分散型冷房機を積んだ試作車、通常の冷房車と三つの種類があることに気付く。
ごく稀に、ひと際低い唸り音をたてながら、見慣れぬ真っ赤な車体に白帯の荷物電車も走って行った。「クモニ1形」というこの車両は、そのすぐ後に廃車となってしまったから、今にして思えば、ぎりぎりの時期に大変貴重な経験をしたことになる。
その中にあって、やはり「レッドアロー」はスターであった。
アイボリーホワイトの車体の上下に走る赤い帯。黒いゴムで縁取りられた角の円い大窓が、車端の折り戸と共に、ヨーロッパ調の優美な雰囲気を醸し出す側面とは裏腹に、正面は直線が立体的に組み合わされた実に男性的なスタイルで、いかつい感じさえしたものだ。
既に6連化されてはいたが、かつての重連運転の名残で、電気連結器が装備されており、一層その表情に鋭さがあった。何だか噛みつかれそうな気さえした。
「特急ちちぶ」、「特急むさし」の2種類があった。
前者は池袋―西武秩父を結び、後者は途中飯能止まりである。
新宿線とは違い、池袋線では日中でもほぼ1時間おきに走っていた。
当時は、プレート式の愛称板が掲げられ、上半分は紺色地に赤文字で「特急」、下半分は山吹色地に愛称名が黒文字で書かれていた。
紺色と山吹色の配色は、相当考え抜かれた末のものではなかったかと、今にして思う。
赤と白は車体色で使っている。緑色だと、山岳路線の木々の緑に埋もれ、黒だと地味すぎる。
特急とはいえ、特別に速く走っていたものではなかった。
寧ろゆっくりと流して走っていたといえる。
国電の「新快速」、阪急、阪神の「特急」を見慣れた目には、正直なところ随分鈍足にさえ見えた。
しかし、見た目と内装はひと際華やいで見える。
ゆっくり走っていたから、線路際で観察するには却って有難かった。
この中村橋西友の待ち時間が、私の西武鉄道に対する鉄道趣味の原体験である。
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東京へ越してきて間もなく、家族旅行で立て続けに、箱根、日光、秩父を訪れている。
小田急ロマンスカー・「はこね」(3100形)、東武DRC・「けごん」(1720形)、西武レッドアロー・「ちちぶ」(5000系)。
当時の私鉄花型車両ばかり乗せてもらった。
富士見台から一旦池袋へ出て、特急ホームから「ちちぶ」に乗り、終点・西武秩父から秩父鉄道に乗り換え、長瀞へ行き、ロバ車に乗った。
「虫捕りができなくなる」と、泣いて東京行きを嫌がった息子の関心を、何とかもう一つの興味の先である鉄道へと向けさせ、気持ちを紛らせてやろうという親心だったのかもしれない。
実際、当時、気難しかった父親が、勤め帰りに高田馬場の「芳林堂」という本屋で、高価な鉄道書や雑誌を、この頃だけ土産に買って帰ってきてくれたものだ。
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やがて三年生になり、クラス替えとなった。
前の席に、大の電車好きの子が居り、彼と意気投合して、西武線の話ばかりした。仮にS君としておく。
小三の社会科の授業は、自分たちの住む町について学ぶ。
『わたしたちの中野』という副読本が使われたのだが、当然、中野区を走る交通機関として西武鉄道のことが出てくる。
私とS君は有頂天になった。
社会科用の「ジャポニカ学習帳」は、上半分が図表を書く用で、下半分が文字用である。
上半分の大きな空白スペースは、全てのページが西武電車の絵で埋め尽くされた。
まだ正確な車両形式名を把握しきれていなかった私たちは、勝手に各車両にあだ名をつけた。
「101系」は「黄色」、「701系」は「赤」、その冷房改造車は「赤の冷房車」、黄色一色に塗り替えられたものは「真っ黄色」、「クハ1411」は失礼ながら「ボロ」等々…。
休み時間になると、決まって西武線の駅名を池袋から、あるいは西武新宿から順に暗唱してゆく。こうして私たちはすっかり西武電車フリークになっていった。
そしてS君は、
「実は「レッドアロー」には「ちちぶ」、「むさし」の他にもう一種類「おくちちぶ」という列車がある。西武秩父の一駅手前・横瀬という駅に貨物用の線路が沢山ある。そこからもっと先に秘密のトンネルが通じていて、「おくちちぶ」はそこへ入ってゆくのだ。だから「おくちちぶ」というのだ。」
とまことしやかに語るのである。
私は半信半疑であった。
路線図にはそんなことはどこにも書いてはいない。
後に「おくちちぶ」号が、新宿線の西武新宿を始発とし、途中・所沢で池袋線に入り、西武秩父へと至る列車であることを知るのだが、ついにそのことをS君に言うことはなかった。
ほどなくしてスーパーカーブームの嵐が吹き荒れる。
私もそちらに熱心になり、こうして東京の暮らしにもすっかり馴染んでいった。
「おくちちぶ」号を見に、わざわざ日曜朝9時過ぎに鷺ノ宮へ出かけていくことは遂になかった。
当時、水泳が大の苦手だった私は、関西時代からスイミングスクールへ通わされており、それは東京へ越してからも続いた。
毎週日曜日の午前中、高田馬場「BIG BOX」のスイミングに通い、何故かこの付添は父の仕事で、終わると「BIG BOX」の小料理屋で昼食を食べた。メインの料理は忘れてしまったが、イナゴの佃煮をよく食べさせてもらったことだけは鮮明に覚えている。「鷺ノ宮スイミングクラブ」(現鷺ノ宮フィットネスクラブ)が出来、そちらへと移ったのはその後のことである。
時折、高田馬場をそろそろと通過してゆく「おくちちぶ」号を目にした。
客の乗降が多いターミナル駅を通過するのは奇妙な感じがしたが、当時、京成「スカイライナー」の日暮里通過、東武特急、急行などの北千住通過など、似たことは他でも行われていた。
東海道新幹線の「のぞみ」が全て品川に停まる今では信じがたいことだが、当時は"特急列車に乗るなら始発駅から乗れ"、という風潮があったのかもしれない。
但しいずれも、下り列車のみに見られる現象で、上りは乗客の利便のためか停車していた。「おくちちぶ」も上りは高田馬場に停まっていた。
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やがて小学校高学年に至ると、家族で日曜日、朝から奥武蔵方面へハイキングに出かけるようになった。
天覧山、宮沢湖に始まり、名栗川の飯盒炊さん、顔振峠には随分行ったが、芦ヶ久保の果樹園には行ったことがない。
レッドアローは、池袋を出ると、所沢、飯能、芦ヶ久保、西武秩父にしか停まらない。(注:現在は芦ヶ久保通過、横瀬停車に改められている。行楽シーズンには芦ヶ久保にも停車。又、途中、入間市にも停まる。)
特急の停まらぬ途中駅である富士見台から、吾野などの、やはり特急通過駅へと向かうのに、わざわざ特急に乗せてもらえるはずもなく、レッドアローは専ら飯能などで見かけるだけの存在だった。
当時、寧ろ私が乗りたがったのは「ハイキング急行」のほうである。
一般車両ながら正面に「急行・奥武蔵」とヘッドマークを掲げた姿は、特別な晴れ姿を感じたものだが、この「急行・奥武蔵」でさえも、池袋・所沢・飯能と途中までは特急と全く変わらぬ停車駅で、飯能から先は西武秩父まで各停であり、我々家族が乗るチャンスといえば、偶然所沢で乗り換える機会を得るか、飯能から各停と化した後で乗るしかなかった。
少し余計なことを書けば、1976年までは「奥秩父」という名のハイキング急行もあったそうで、こちらは飯能から先も通過運転しており、「奥武蔵」号と合わせ、随分と多くの本数のハイキング急行が運転されていたことになる。
代りに「特急」の本数が少なく、それだけ「レッドアロー」は特別な風格のある列車だった。
(レッドアローによる新宿線直通特急「おくちちぶ」が設定されたのは、ハイキング急行「奥秩父」の廃止と入れ替わりのことである。)
よく富士見台から下りホームへ向かうと、目の前を「急行・奥武蔵」が通過していくのを恨めしく見送ったものだ。
そんなわけで我々家族が乗るのは専ら、お隣・石神井公園から先は各停となってしまう、準急・飯能行ばかりであった。
西武百貨店へ家族で出かけた帰りの日曜夕方、上りの「奥武蔵」が池袋駅の7番線に到着する姿を時折見かけた。車内に吊り下げられた「急行」の愛称板はいち早く取り外され、行先方向幕も赤文字の「回送」に変わっている。
それでも正面腰部に吊り下げられたままの「奥武蔵」のヘッドマークに、レッドアローとは一味違った看板列車の風格を尚感じたものである。まだ、「赤電」も多く使われていた。
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1979年、西武ライオンズが誕生した。
西鉄時代の栄光をぎりぎりで全く知らない私は、「太平洋クラブ」、「クラウンライター」という超マイナー球団にしか思えなかった「ライオンズ」というプロ野球チームをそれまで全く知らなかった。
「西武ライオンズ友の会」という子供向けのファンクラブが発足するや、少なからぬ数のクラスメイトがいきなり西武ライオンズの野球帽を被り始めたが、元々関西人の私は一貫して「阪神タイガース」の帽子を被り続けていた。
西武ライオンズ発足と共に、一部の駅名が改称され、「狭山湖」が「西武球場前」に、「多摩湖」が「西武遊園地」、「青梅橋」が「東大和市」に変わった。
翌1980年には西武鉄道のダイヤが大改正される。
それまで「特急」、「急行」、「準急」、「普通」の4種類だったが、実は同じ「急行」、「準急」という名の列車でも様々な停車駅パターンがあった。
それを「快速急行」、「通勤急行」、「通勤準急」という名称に分け、更に池袋線には「快速」というそれまでなかった停車駅の列車も新設された。
この時、「急行・奥武蔵」は「快速急行」に改められ、名称上は格上げだが、石神井公園、ひばりが丘にも停まるようになり、富士見台からは乗りやすくなった反面、逆に格が下がってしまったように感じられた。
特急・レッドアローにはこのダイヤ改正での特別な変化はなかったと思われるが、それに先立つこと2年前、1978年、久々に増備車が新製される。
5511編成といわれるこの増備車は、部分的なマイナーチェンジが施され、前面愛称表示が電照式に改められた。
これに伴い、従来の車両も同様の改造が施されていく。
当時はとにかく新し物好きで、愛称表示が電気で光るようになったのをかっこいいと思ったものだったが、赤地に白の「特急」、白地に紺色の愛称名(「おくちちぶ」号は緑色)に変わり、特徴的な紺色と山吹色の愛称表示板は廃止されてしまった。
5000系・レッドアローは、その登場時、よく愛称板すら掲げられていない姿が記録されている。
すっきりとした実にスマートな印象を受ける。
だが、この改造により、そのスマートさが損なわれてしまった。
今、西武鉄道横瀬車両基地で保存されている「クハ5503」は、途中で新製当初の姿に近付けるべく復元工事が施された結果、再びスマートな姿を取り戻しているが、私は未だ横瀬のイベントに出かけたことがなく、同車の写真は持っていない。
元は「赤電」姿のまま、冷房化改造が施された「701系」電車が、「冷房車は黄色」というイメージ戦略ゆえか、「真っ黄色」に塗り替えが進められたのもこの時期であった。
元は同じ系列だから、その過渡期においては、「赤電」と「真っ黄色」の混結も見られた。
一度だけだが、夕ラッシュ時、西武秩父行の「急行」として、その混結編成が富士見台駅を通過していくのを見て仰天したことがある。
いずれにせよ、嘗て「質より量」と揶揄され続けてきた西武鉄道が、その車両の質的向上を図ったのは、1969年の秩父線開業が契機であろうが、「西武ライオンズ」のオーナー企業となったこの時期もまた、大きなイメージアップを果たし得た時期だったといえるのではないだろうか。
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レッドアローに関しては、この後、冷房装置の更新など小変化はあるものの、1980年代の西武鉄道は、「赤電」の置き換えに注力していたように思われる。
我が家は1980年代半ば、鷺ノ宮からもう少し西側の西武沿線へと移り住んだ。
西に行くと、池袋線と新宿線の間隔は離れていき、私も専ら使うのは新宿線となって、池袋線とはすっかり縁遠くなってしまった。
ということは同時に「レッドアロー」の姿を見かける機会も減ってしまった。
こうなってはもはや「幾度となくその姿を目にし、あまりにも近しい存在だったため、憧憬というよりは日常風景といってよい」などとは言えなくなってしまった。
中野区在住時代は足繁く通った西武百貨店池袋本店もまた縁遠くなってしまったのである。
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1988年、遂に念願の秩父鉄道乗り入れが開始された。
「4000系」というセミクロスシート車両が新製され、秩父鉄道への乗り入れの他に、休日の「快速急行」にも使われるようになる。
「奥武蔵」の愛称板が付かなくなってしまったのが残念だったが、西武秩父の一駅手前・横瀬で、4両編成ずつに分割され、長瀞方面と三峰口方面へとそれぞれ直通するさまはダイナミックであった。
乗り入れ列車は今よりもっと数が多く、「(長瀞方面)野上行」と「三峰口行」の併結だけでなく、片方が西武秩父行という組み合わせもあったと記憶する。
いずれ「レッドアロー」も直通するのでは、という期待があった。
昔、級友のS君がまことしやかに語った「おくちちぶ」の偽話が、形を変えて実現するのだ。
そう思っていたが、色々な制約があるのか、今に至るまで「レッドアロー」の秩父鉄道への直通はない。
それどころか乗り入れは縮小傾向にあり、「快速急行」の本数も随分減ってしまったのは寂しい限りである。
こうして「レッドアロー」に関してはまたしても大した変化もなく、バブル期を迎える。
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バブル期になると、西武線の乗客数は増える一方であった。
池袋線は、練馬から地下鉄有楽町線に直通し、練馬・石神井公園間の高架複々線化の工事が進められていた。
激化する通勤ラッシュ対策として「通勤快速」という列車が1本新設されたのは1988年のことである。
「千鳥式運転」と呼ばれる、優等列車同士で互いに停車駅を変え、運転間隔を縮める運転方法は、西武線には元々あったが、「通勤快速」はそれをさらに徹底させるものであった。
即ち、所沢を出ると「急行」は途中、ひばりが丘・石神井公園と停まり、次が池袋であるのに対し、「通勤快速」は途中、大泉学園にしか停まらなかった。(後に東久留米にも追加停車)
暫く経って後、社会人になった私は、ある日勤務先とは別の場所で開かれる集合研修へと出向くことになった。所沢回りで秋津で降り、新秋津まで歩いて武蔵野線に乗る積りだったのだが、所沢で偶々次の電車が件の「通勤快速」であると気付いた時、「この好機を逃すと一生乗れないかもしれない」と気紛れを起こし、思い切って乗ってみた。
「通勤快速」は流石に座れるほどではないにせよ、意外なほどに空いていた。
このある意味名物列車に乗ることが出来て、私は大満足であった。
だが、お蔭で研修に遅刻しそうになり、随分走って、何とかぎりぎりで間に合った。
この一度だけの乗車経験は後から振り返ってみると、大変貴重なものであった。確か(旧)101系電車で、「通勤快速」の種別札が窓に下がっていた。
一方何の変化もなかった新宿線に、突如として「地下急行線」計画が立ち上がり、新聞一面に載った。
上石神井という途中駅から現在線の真下に大深度地下線を掘り、途中、急行停車駅の鷺ノ宮にさえ駅を作らず、高田馬場、西武新宿にのみ地下駅を作ろうというものである。
西武新宿駅は、JR・小田急・京王の各線が集まる新宿駅から北に外れており、歌舞伎町には近いが、ここで乗り換えるには不便な場所にある。
新宿マイシティ(現ルミネエスト)に、その昔、西武線の乗り入れ計画があったが、6両編成しか入れないことから計画は頓挫し、そのまま準備工事の跡だけが目立った。
1990年代半ば頃、流石にオープン当初の外壁の、それとわかる構造物は改装されてはいたが、中に入ると2階部分に、奇妙な細長い通路が駅構内の吹き抜けを取り囲むようにしてあり、よくそこで古本市が開かれ、時折立ち寄った。
地下急行線計画では、折角大深度地下駅を作るのだからと、地下の西武新宿駅は、現行の駅とJR新宿駅の中間、昔映画の看板が立っていた辺りの地下が考えられていたようである。
当時の計画図には、元々は大宮から分かれて新宿へと至る上越新幹線の地下計画線も載っていたり、更にはこの地下急行線をそのまま永田町方面へと延伸し、やはり中途半端な位置にあるJR京葉線・東京地下駅と結んで直通運転をしようという構想まで出るなど、随分と景気の良い時代であった。
新しい急行線が出来るということは、それだけ車両の増備も必要ということになる。
新宿線の終点・本川越の一駅手前、南大塚という駅から、入間川河畔に伸びる安比奈線という、元は砂利を採取するための路線が休止状態で残っている。それを再利用して、入間川べりに車両基地を作ろうという計画が持ち上がった。
上石神井から高田馬場までノンストップで急行が走るということは、特急も休日の「おくちちぶ」とそれの送り込みに走る「むさし」(当初西武新宿-所沢間、後に本川越まで)に留まらず、終日運転に拡大されるかもしれない。
そうなったら、地下線を走る用には出来ていない5000系「レッドアロー」をどう改造するのか、或いは全く違う専用車両を作るのか、妄想に近い夢がどんどん膨らんだ。
ところがその後、確か阪神淡路大震災がきっかけだったと思うが、法規制が強まり、長距離の地下トンネルには、計画よりも多くの縦坑が必要となった。建設費が当初の2倍以上に膨らむ見通しとなり、又、景気後退、少子高齢化に伴う利用者数の減少もあって、計画は頓挫してしまった。そういう記事をどこかで読んだ覚えがある。
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5000系「レッドアロー」は座席のリクライニングシートへの換装など小改良を経て走り続けていたが、1993年、遂に新しい特急車両が建造される。
10000系と名付けられ、NRA(=New Red Arrow)という愛称を持つこの新型特急車両は、当初、新宿線に新設された「特急・小江戸」号用として投入される。
バブル末期にはこの「小江戸」用とは別に、秩父特急用には豪華仕様のリゾート特急車両の計画もあったようだが、結局、それは立ち消えとなり、池袋線系統の「ちちぶ」、「むさし」に長年用いられてきた5000系「レッドアロー」の置き換え用としても、1994年から10000系「ニューレッドアロー」投入が始まった。
山岳特急を思わせるいかついスタイルの5000系「レッドアロー」とは異なり、10000系「ニューレッドアロー」は丸みを帯びた大人しいスタイルで、濃淡グレー三色の塗り分けを基調に、深紅の帯が一本入り、それがアクセントとなると同時に、「レッドアロー」たるアイデンティティーを示しているかのように思われた。
しかし、5000系を見慣れた目には、個人的には何とも個性のない車両に思えた。
後に横引きカーテンに改良されたが、大きな窓に、座席2列分まとめてしか開閉できないロールスクリーン式の日除けが当初採用されるなど、簡素で実用本位に思えた。
とはいえ、実際に乗ってみると、シートピッチが大幅に拡大され、居住性は大幅に改善されている。
そのため5000系6両編成と同数の座席店員を確保するのに、10000系では7両編成となった。
当初、編成中央の4号車・「サハ10400」のみが喫煙車となり、屋上にはクーラー両脇にいかつい形の大型換気装置が取り付けられた。
インターネット上では「毒ガス車」などと口さがなく書かれていた。
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いよいよ5000系「レッドアロー」の置き換えが進んでゆき、その終焉がそう遠くないと思われた。
ある日、久しぶりに池袋へ出かける用が出来た時、普段は高田馬場へ出て山手線に乗り換えるところを、ふと遊び心を出して所沢回りで池袋線で行くことにした。
所沢駅に着いてみると、次の池袋線上りは「特急」とある。
更に気紛れを起こした私は、池袋までの特急券を買い求めていた。
やって来たのは思った通り5000系「レッドアロー」であった。
実際に乗り込むのは東京へ越してきた当初の長瀞行以来のことである。
狭い折り戸から車内に入ると、茶色い全面アクリル板製の仕切り戸がデッキと客室を隔てている。
「何だか昔の喫茶店みたいだな…」そう思いマットを踏むと、音もなく戸は開いた。
昔と違い、色鮮やかな青色のリクライニングシートがずらりと並ぶ。
禁煙車に乗ったが、昔は有料特急に禁煙車などなかった。
子供の頃、ひどい乗り物酔いに悩まされ続けた私は、密閉空間の有料特急に乗るのが実は内心憂鬱であった。
昔から大の鉄道好きゆえ、有料特急車両を見るのは大好きである。
だが、その思いとは裏腹に、実際に乗ると、もうもうと立ち込める紫煙に悩まされ、決まって乗り物酔いを起こす。
東京に越してきてほどなく乗せてもらった、東武鉄道のDRC・「けごん」では、ビュフェでアイスクリームを食べさせてもらったが、その乳脂肪分の味が更に乗り物酔いを惹き起こし、終点手前の駅では顔が青ざめ、トイレで格闘していた。「下今市」という駅名には、ほろ苦い思い出が付きまとう。
シートは取り替えられ、十分なクリーニングはなされているのであろう。
それでも長年煙が立ち込めていたであろう車内には、どことなく煙草の匂いが染みついているように思えた。
既に滅多なことでは乗り物酔いはしなくなっていた。
そうなってみると、僅かな煙草の残り香が、却って懐かしくさえ思えた。
やがてレッドアローは20分あまりの短い行程をあっという間に走り去り、池袋駅へと着いた。
池袋の特急ホームは、7番線の奥にある。
かつてここからレッドアローに乗り込んだことは一度だけあったが、逆にここにこうして降り立つのは初めての経験であった。
すぐ隣には今乗って来たばかりのレッドアローが停まっている。
過去に一度だけ乗せてもらい、幾度となくその姿を目にし、あまりにも近しい存在だったこの電車も、間もなくこの路線を去ることだろう。
「ご苦労様でした」
心の中でそうねぎらいの言葉を掛けた。
長年見慣れてきた、かつてはその姿を目にするのが日常風景でさえあった特急車両への、私なりの別れの積りであった。
ほどなくして5000系「レッドアロー」は全車引退した。
1995年のことである。
以下、次回に続く。










