神戸・元町のことを幾つか書いたが、もう一つ、忘れられない洋菓子店がある。
『パティシェ・トレトゥール・コム・シノワ』。
何だか舌を噛みそうな名の、本来の言葉の意味からすれば、さしずめ「菓子職人がやっているテイクアウト店のコム・シノワ」とでもいうのだろうか。
実際にはケーキ屋というよりは、神戸周辺でレストラン、ベーカリー(ブランジェリー)などを展開する『コム・シノワ』の、デザート専門レストランといった方が合っている店なのであった。
現在は、『フリュティエ・コム・シノワ』に統合されたのであろうか。
この店はかつて南京町の広場北側に面した場所にあった。周囲は中華料理店ばかりという中にあって、純然たるフランス菓子を出すここだけが、かなり異質な空間を感じさせたが、考えてみれば「コム・シノワ」という店の名前からして、中国との深い縁を感じさせるのである。
「びっくり卵」という、可愛らしい家鴨の器に入った、玉子そっくりな、その実、ココナッツムースの「白身」に、あんずの実を「黄身」に見立てたデザートを良く食べた。
が、この店に来ると、何はさておき頼んだのが、「クレーム・ダンジュ」であった。
「天使のクリーム」という名の、このデザートは、ふわふわの甘いチーズケーキにフランボワーズソースをかけたもので、別名「クレーム・アンジュ」。
私が最初に知ったのは、東京・市ヶ谷の『シェ・シーマ』という店のものである。
白い陶器に入った、ガーゼに覆われた不思議なケーキ。中に真っ赤なソースが隠れている。誉められた話ではないが、終わりに近づくと、ガーゼの隙間に残ったチーズを、フォークの縁でこそげ取っては嘗め…と随分往生際も悪いし、お行儀も悪いことをした。
『コム・シノワ』の「クレーム・ダンジュ」は、言うなればそれをもっとゴージャスにしたもので、ふわふわの白いチーズにメレンゲが重なり、紅いフランボワーズ・ソースが絡まりあっている。
ここまで来ると、デザートというよりも、アントルメといった方が良さそうな、背筋をシャンと伸ばして、ナイフとフォークで頂戴する。そんな雰囲気を持っていた。
ガイドブックによれば、1日6食限定だったのだが、売り切れと言われたことはなかった。
新大阪からあるいは新神戸から直接ここを訪ね、何度も頂いたものである。
ある晩秋のこと、「クレーム・ダンジュ」を頼むと、出てきたのは、いつもと違う真っ白なもの。
フランボワーズ・ソースではなく、アングレーズ・ソースがかかっていた。
外は雪でもないし、ホワイト・クリスマスといった洒落た時期でもない。
「材料切れなのかなー」などと色気のないことを思いつつ、この白い「クレーム・ダンジュ」を頂くと、殊のほか美味しい。
帰り際にお店の方に伺ってみたが、特にこれといった理由も判らず、結局、白い「クレーム・ダンジュ」は、この時一度限りなのであった。
後で振り返って心に残るのは、存外こうした「異端児」のほうなのである。
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岩井俊二さんという監督の大分以前の映画に、『Love Letter』という作品がある。
結構有名な作品だが、簡単なあらすじを書くと、次の通り。
神戸に住む渡辺博子(演:中山美穂)は、フィアンセだった藤井樹を、二年前の山の遭難事故で亡くしている。三回忌を済ませ、彼の母・安代(演:加賀まり子)に誘われ、久しぶりに樹の家を訪れた。
樹の中学の卒業アルバムを見ながら、思い出話に浸る。博子は、かつて樹が住んでいた小樽の住所に手紙を書くことを思いつく。そこには既に家はなく、国道になっているという。
彼女にとって、それは天国への手紙なのだ。
決して返事が来ない筈なのに、小樽から返事が来る。
それは、彼の中学時代、三年間同じクラスだった同姓同名の女子、もう一人の藤井樹(演:中山美穂二役)からのものであった。
…この先、舞台は小樽へと移り、中学時代の回想シーンへとつながってゆく。
男性の藤井樹の登山仲間で、今は小樽でガラス工芸職人として働く秋葉役の若かりし日のトヨエツが、ベタッとした関西弁で、『青い珊瑚礁』を唄う様が愉しいが、小樽の街中で、そっくりの二人の女性(渡辺博子と藤井樹)が、一瞬すれ違う様は、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『ふたりのベロニカ』を思わせる、とても美しい場面だった。
この映画、最後の最後にハッとさせられる鮮烈な場面があり、そのまま美しくも穏やかなピアノ曲のエンディングとなる。
気に入って、映画館に3回観に行ったが、3回が3回とも、終映後、客席で涙をポロポロ流している女性の姿を見た。確かにそれも頷ける、そんな素敵な結末の映画である。
ところで、この映画の最初の方の、博子が樹の家を訪れる場面で、母・安代との会話に、こんなシーンがある。
「博子さん、ケーキ召し上がる?」
「…いえ…。」
「コム・シノワのよ。」
「…じゃあ…」
こうして、義理の母娘になる筈だった二人は、ケーキを味わいつつ思い出に浸ることになるのだが、考えてみれば、これは、少々穿った見方をするならば、
「コム・シノワのケーキなら食べる」→「それだけ、コム・シノワのケーキは美味しい」
そういうことを言っているのではないか。
これは相当強力なPRになるはずである。
だが、『Love Letter』が、『コム・シノワ』の宣伝になりました、といった話は一度も聞いたことがない。
…ここまで書いてきて、もしかして、この文章も微力ながら『コム・シノワ』の応援になっているのだろうか?
そんなことを思ったが、そうだとすれば、美味い「クレーム・ダンジュ」を幾度も味わわせて貰った、ささやかなるお礼である。

