今日の話題                 2008年10月29日

池上 惇


━━第15部━学校創設と永続的経営━━━━━━━━

   私の教育人生 3 「この機会に考えるべきこと」

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大学院大学の認可が不可となり申請が一年延びることになった。


このことは確かに不運と言うか、屈辱と言うか、
何となく、自嘲することではある。


不可の理由も公開されているが、その文章を読んでみると、
理由をまとめられた方々はさぞかしご苦労が多かったのではないかと

心から同情した。


何しろ、文化政策・まちづくり学は、西欧発の概念
(Cultural Policy on Urban Regeneration & Regional Growth)を、
日本語に翻訳するなかで、英語に対応する概念として成立したものである。
しかし、「不可」とされた各位は、日本語だけの次元で議論しようと

努力されているからである。

それは大変な努力の要ることで、感謝の他はない。


ところで、この学術用語の英語と日本語、この対応を行ったのは、

ほかならぬ私である。


日本では、文化政策という概念も西欧から輸入して翻訳せざるを得なかった。
残念であるが、このたびの
Cultural Policy on Urban Regeneration & Regional Growth
についても、日本には、それに直接に照応する概念がない。


直訳すれば「都市再生と広域的成長に関わる文化政策」と言うことになろうか。


私が検討した限りでは、都市再生(Urban Regeneration)というのは、
研究の内容から見ると、「文化的価値を取り戻す都市の再生」と言う意味である。
都市ルネッサンスなどという用語にも類似の概念であろう。


例えば、都心に創造的な芸術文化の拠点を作るとか、
古典的文化財を蘇生さえて歴史文化都市を再生するとか、
都心に緑地や動物園などの「自然」を再生して、
荒廃した都市をつくり直すなどのことである。

また、文化財や自然と再生するには、従来の都市地域と農村地域を

総合的に交流させ、水や緑を広域的な視点から再生してゆく必要がある。
運河を再生し、緑地帯や農村林漁業を見直して広域的な成長を展望してこそ、
人間は文化的価値を享受することができるのではないだろうか。


私がこのような概念に接して日本に紹介し、導入しようとしたのは、

今から十数年ほど以前のことで、

国際文化経済学会(日本の文化経済学会にも参加)に出席して
「創造都市」とか「文化インフラストラクチャー」などの
概念とともに大きな刺激を受けたのがきっかけであった。


それでは、日本には、これに対応する概念が全く無かったのであろうか。


そんなことはない。

「文化による‘まちづくり’」という立派な概念がある。

これは1990年代ごろには既に行政用語としても定着していた。


例えば、名古屋に芸術センターが、多くの緑地とともに誕生し、
「文化施設や緑地化、芸術文化創造活動などを‘中核’とした、
都市の再生」を「文化による‘まちづくり’」と呼んでいたのである。


この点は、私も、愛知県の公務員から熱心に説明を受けたことがある。


ただ、この語は、日本語の常で、現場で具体的な「はなし」をきけば
「実例はよくわかる」。
しかし、学術的に検討しようとすると、あまりに広範囲な漠とした概念である。
しかも、学術の必要から抽象的な表現に転換しようとすると
内容はよくわからない。
そのかわり、生活の中に溶け込んでいて馴染み易く、
誰にでも親しめる、よい言葉である。


日本には、いわゆる文献研究学者が多い。
私も、そのひとりである。
これはこれで各領域の文献研究が進むから、学術の発展には有益である。


しかし、この研究姿勢は、落とし穴がある。
現場感覚で実例を見ることに不慣れなのである。
私も、現場になれるのに、数十年を要した。


例えば、通例の研究における真理への接近法では、この概念の構成要素は何か。
要素に分解して再構成するにはどうすべきかなどということになる。


そうすると、「文化政策・まちづくり」は、

「文化政策」 と 「まちづくり」 という二つの要素になる。


さらに、「文化」「政策」、「まち」「づくり」などと細分してゆく。


すると、意味のある概念としては、曖昧なものが増えてくる。


例えば、文化と政策とは、
そもそも、あまり接近して欲しくないと考える人々も多いから
意味があるのかと、疑われる。


ましてや、「まち」を「つくる」となれば、
建物・道路をつくる、橋を架けると連想が進むから
「都市計画」という概念に向かうことになろう。


これはこれで、欧米発の述語を持つ概念であるが、
regenerationとは、また別の概念であり、
これはこれで、体系化は可能ではあるけれども、
今回、私がご説明したものは、また別の学術用語として展開すべきものである。

これらを混同しては、科学の発展は難しい。

それゆれに、「文化による‘まちづくり’」は
直感では理解されるが、学術としては理解が容易ではない。


今回のご助言は、
「あなたの提起された概念は、私どもの常識ではよくわからないから、
ただちに研究教育の場をつくるのはどうか。
もうすこし、よく考えてからつくってはどうですか」ということになる。


しかし、その間に、都市の荒廃は進み、農村は過疎化が進む。
「文化による‘まちづくり’」も一つの方法なのだから、
「良くは分からないが、まあ、やってみてはどうですか」
くらいが妥当であろう。


滅び行く地球を前に論争しているようなもので、意味が貧しいからである。
一年間の空白は研究教育の遅れと対策の遅れを生むからだ。

学者は、静かに論争しながら着実に「文化政策・まちづくり学」の研究教育を

前向きに進め、論争は保留して一刻も早く人材を育て

苦境に対処するべきであろう。


私が文献学者から何とか、脱却しようとして、
現場を歩き回り、この日本語=「文化による‘まちづくり’」を
学術的に研究しようとして、慣れない述語に接近して、
西欧で発展した対応可能な概念を発見しようとした。
そこで、Cultural Policy on Urban Regeneration & Regional Growthを
自分なりに参考にして、学術的な内容を与える。
そして、日本語特有の「表現のよさ」を取り込んだ。
これが、「文化政策・まちづくり学」である。


このように、各国や各地域で、人間は別々の空間で
生活をしているにも拘らず、人間と言うものは、似たような生き様をする。
公共的な社会をつくり、都市や農村を形成してきた。
西欧には西欧の、日本には、日本の個性的なものや固有性がある。
したがって、営みを概念化し象徴化するなかで、
独自の言語による表現が生まれる。


この意味では、西洋的な伝統と日本的伝統の結合や置換は、
翻訳によって可能になる。
翻訳をしないで、一つの国の概念をいきなり抽象化しようとすれば、
それは、いま提起されている論点とは、全く別の方向への展開を生む。

これは、分析と総合と言う。

デカルト的な方法論の限界である。


イタリア人、G.ヴィーコは、それぞれの国で成立した概念は、
個性的なよさを持つ。
それとともに、一定の「神話性」があるとも言っている。
いわば、科学には、不確実性やこれから検討して初めて分かるものが残っている
と言うことであろう。
これを翻訳によって是正する謙虚さがあってこそ、
当該の科学の発展があるのではないだろうか。


さらには、デカルトの方法もヴィーコの方法も、
それぞれのよさがあるのだから、相補い合ってこそ、学術の進歩があろう。
議論の場を保ちながら、研究を進める場をつくることが
研究教育の場、学校法人の設立には求められるように思う。


私はヴィーコ的な方法が認められないからと言って、
デカルト的方法をうらむ気持も無ければ、言葉を荒げて論争するつもりもない。
論点は保留して合意できる形で研究教育を進める場を創ればよいのである。


元気に再申請。
日本社会における大学院の再生に臨みたい。