ここ数日で解脱への道筋を完全に理解するに至りました。

そして、それは今までその指標としていたヨーガスートラという経典の否定という思いもよらない結果を生み出しました。


順を追って説明して行きたいと思います。


まず瞑想(ヨーガ)の実践には明確な目的があります。

それが解脱になります。

要は繰り返す生存と消滅の輪廻からの脱却になります。


瞑想とヨーガは同意義です。

ただ、現代において瞑想はもっとより広義の意味で捉えられ、ヨーガは逆に狭義の意味で捉えられていると、ぼくは思います。


瞑想はその目的を解脱だけではなく、ストレス低減や集中力アップ、リラクゼーションなど多岐にわたり、かつその抽象的な全体像から瞑想風の何かと言わざる得ないものまでに広がりを見せています。


しかし瞑想の本意は止観と呼ばれるもので、要約すると正しく観ることになります。

瞑想には瞑想者と瞑想行為と瞑想対象の3つが伴います。

瞑想者は瞑想をする本人。

瞑想行為は瞑想をすると言う行為そのもの。

瞑想対象とは、瞑想する対象、つまり意識を向け集中する対象になります。

例えば呼吸に意識を向けてくださいと言われたなら呼吸が瞑想対象です。

阿字観やトラタカなどであれば阿字や炎や、その概念などが瞑想対象になります。

瞑想にはこの3つのプロセスが必要です。


つまり瞑想とは自分が意識を向けたい対象に的確に意識を向けていく技術であり、その結果、対象を正しく捉えることになり、それが対象を正しく観るということに繋がります。

なので、瞑想の実際はとても多目的なのです。

その技術を使い繰り返す生存の根本因を正しく観ることにより、それからの解脱を試みることが古代のヨーガ(瞑想)の目的でした。


それが現代では実践者の目的に対して行われる為、瞑想は広義の意味で捉えられるようになっているのですが、ぼくは初めから元来の瞑想を実践しようと決めていました。


そして、そのきっかけとなったのがヨーガスートラという教典になります。


それはある一節からでした。

何度かこのブログでも書いていますが

『心の作用を止滅させることがヨーガである』

このスートラを目にしたときに、ああ、おれがやりたいのはヨーガだ、と直感しました。

同時に今までおれがやろうとしていたことも全てヨーガであった、と理解しました。


それは次に続く一節

『そのとき自己(プルシャ)はそれ本来の姿に止まる』

というスートラによってです。

お笑い芸人や営業職に従事していたころ、自分本来のパフォーマンスが過不足なく発揮出来るのは、いつも“心の作用が止滅”している時でした。

そして、ぼくはそのときの感覚が心地良く、自分を一番感じることが出来る瞬間であると直感的に理解していた為に、すぐにヨーガの道に入りました。

と言うのも、このスートラを目にしたのは同時友人の紹介で知り合ったばかりの、後の師匠となる人のツイートだったからです。

すぐに、ぼくの上記の思いを伝えて、師匠が当時開催していたクラスに参加させて貰いました。

時間軸が、どうだったか定かでは無いのですが確か師匠も当時インドでのヨーガ修行から帰って来てヨーガ講師の資格を取ったばかりで、さあこれからクラスを始めようと言うタイミングだったかと記憶しています。

師から学んだインドヨーガや、そのご縁で連れて行って貰ったインドの聖地リシケシでのティーチャートレーニングは紛れもなく、ぼくの宝物です。


その様な経緯でヨーガに出会い、実践を試みることになりましたので、いわゆる世間でやられているヨガとはだいぶ違ったゴールをぼくは持っていたと思います。

どちらが良い悪いとかでは一切なくゴールの違いです。


ですので、ヨーガを学ぶ当初から、ぼくは手が真っ黒くなり、逆に本にはぼくの手垢がびっしりとつくほどに、ヨーガスートラを読み込みました。

多分、こういう人は相当珍しいです。  


当時のぼくにとってはヨーガスートラこそが、ぼくの指標でした。


そして、今からそれを完全に否定したいと思っています。


ヨーガスートラの何を否定するのか?

それは、その背景にあるサーンキヤ哲学になります。

それと同時にアートマンを否定することにもなります。

これは否定したくて否定するわけでは無く、結果否定することになったということです。

そして否定の原因は、もっと以前からのぼくにとってのスーパースター“釈迦”の原始仏教をより深く理解したことに端をはっします。


まず古代のインドには様々な哲学、宗教がありました。

その代表的なものが梵我一如を説くヴェーダンダ学派と、真我(プルシャ)と自然(プラクリティ)と言う多元的二元論を説くサーンキヤ学派だと思います。

ヨーガスートラは基本的にサーンキヤ哲学をバックボーンとしていますが、他の教典にはヴェーダンダをバックボーンとしたヨーガも存在します。


そして、これはあまり知られていないのですが釈迦はヨーガによって悟りを開いたとされています。

と言うよりも当初お伝えしたようにヨーガと瞑想は同義です。

瞑想により悟りを開いたと言うイメージが強いかも知れませんが、釈迦存命当時は、それらひっくるめてヨーガという呼称が使われていたとご理解ください。


そして、ヨーガによって悟った釈迦が何をしたかと言えば、平たく言うと今までのインド(バラモン)文化の否定です。

その中で決定的だったのがアートマンの否定になります。

いわゆる無我とはアートマンの否定のことになります。

そしてサーンキヤ学派の多元的二元論の核となる真我(プルシャ)の概念も否定します。


ここまでは、以前のぼくでも理解をしていました。

しかし、それを否定するに至る釈迦の悟りにより得られた“縁起”という法(ダルマ)の理解がまだ乏しかったことと、ぼく自身がヨーガスートラにそって修練をしていたことが盲点となり、その確信に至ることがありませんでした。


ただ、先に断っておきたいのは釈迦はヴェーダンダ学派が聖典と定める様々なヴェーダ(教典、アーユルヴェーダとかが有名)の全てを否定した訳ではありませんし、ぼくもヨーガスートラの全てを否定するわけではありません。


否定されるべきはひとつで、それは真我やアートマンなどの存在になります。

これは平たく言うと"本当の自分"と言う単体で存在する“自我”の否定になります。

サーンキヤ哲学の二元論はかなり複雑な為、ここからはアートマンだけに的を絞って話を進めますが要は、釈迦以前のインド文化は"有我"であったということです。

それを否定して"無我"と言ったのが釈迦なのですが、例えば天動説から地動説に変わり回っているのが天ではなく地球そのものだと言うことがわかった今でも、日が昇る、日が沈むなどの表現が示す通り直感的、体感的には地球の自転を感じている人よりも、あたかも天や空、太陽が動いていると感じている人の方が多いかのように、釈迦が無我と看破した後の世界を見ても、ほとんどの人の体感はおそらく有我なのではないでしょうか。


しかし、それは当たり前のことで、釈迦の原始仏教とはこの無我を体得することが、最終目標でもあるので、知的理解では無く体得となると、相当な修練が今までは必要でした。

ただ、これはぼくの期待も含みますが、これからは、その体得は容易になって行くと思います。

ぼくでも、ここまで無我に肉薄出来たんです。

ぼくより賢く、聡明な人をぼくは沢山知っています。

時代も進歩をしています。

常識はことごとく覆され、隠された真実がまざまざと露わになっていく、この時代に置いて、釈迦の法も必ず顕になると、ぼくは予感しています。


さて、本題に戻ります。

釈迦が否定したアートマンとは何か?

それは簡単に言えば輪廻転生の根本因子になります。

つまりアートマンという唯一不変の個別の魂の様なものがあり、それが輪廻を繰り返す要因である、という立場です。

例えば、現在のぼくにもアートマンは存在していて、ぼくがこの世での生存が終われば、アートマンだけになり、そのアートマンが輪廻していきます。

過去世からアートマンを引き継ぎ、現世で生まれて、また来世に引き継いでいく。

ひとりの人間にひとつの魂があるような感じで、前世でタケシくんだった人が来世では同じ魂のままサトシくんになるようなイメージです。


そして、そのアートマンとの合一を果たすことが解脱の道であるという考え方です。 

アートマンはブラフマン(宇宙の根源)と同一である為、アートマンと繋がることで宇宙全体と繋がり解脱は果たされると。


サーンキヤ哲学は多少立場が異なりますが、これを説明し出すとさらに複雑になるので、やめておきます。

要はどちらも“個”が存在しているという立場です。


そして釈迦はそれを真っ向から否定します。

アートマンは不変の魂です。

まず釈迦は不変など無いと言います。

それを諸行無常と言います。

常は無い、つまり不変では無いです。

釈迦は輪廻を否定したとも言われていますが輪廻は否定していません。

アートマンを否定したのです。

輪廻とは絶えず流転すると言うことです。

ある生存状態から別の生存状態に移転するように、この世での生存が終わっても、別の生存状態に生まれ変わるということです。


釈迦は言います。

アートマンが不変なのものが、なぜ流転するのか?と。

不変なものが流転することは無い、流転するのであれば不変では無い、よってアートマンは輪廻の根本因にはなり得ないと。

当時も今もアートマンの概念はインド文化の根底にあります。

それはカースト制度と言う支配体系を支えている概念だからです。


今世で良い生まれに生まれて来れたのは前世で良い行いをしたからだ、だから良い暮らしや高い身分を謳歌出来る。

逆に今世で貧しい身分に生まれて来たのは前世での悪行が原因だ、だから今世では罪を償いなさい。

今世で幸せになろうとせずに、今の身分を受け入れなさい。

この様なカースト制度の根底にあるのがアートマンと言う概念になります。

過去世からアートマンを引き継ぎ、現世で生まれて、また来世に引き継いでいくことが決定されている為、現状の世界での身分を受け入れる以外の選択肢は無くなります。

それで一番得をするのは誰なのか?

言わずもがな、支配階級、特権階級の人たちです。

アートマンという概念にはじめからその意図があったかどうか、もちろん定かでは無いですが、結果論として、当時から現代までに続くカースト制度と言う支配体系を盤石のものとして行ったのです。


そして、その制度の根幹にあるような概念を釈迦は真っ向から否定します。

もちろんただ感情に任せて否定したわけではありません。

事実を悟ってしまった為に否定せざるを得なかったのです。


それは輪廻の根本因子が無明(無知)にあると言う結論です。

無明からは行(潜在的形成力、志向作用)が生じます。

簡単に言えば分からないからは分かりたいが生じます。

この作用が輪廻の根本因子だと気づいたのです。

これが釈迦の法の根幹を担う“縁起”の思想です。

縁起とは縁して起こること。

つまり、それ単体では存在し得ないと言うことを表しています。


無明があるから行が生じます。

無知があるから、知に向かうエネルギーが生じると言うことです。

無知が滅すると、知に向かうエネルギーも滅します。


つまり無知から知に向かうエネルギーが輪廻の根本因子であり、無知を滅することが輪廻を脱すること、解脱に至る道であるという法則です。


輪廻はアートマンを因としてではなく、今世で生じた無明を因として起こるというわけです。


よって、今世で無明を生じさせないこと、今世に生まれてくる因となった無明を滅ぼすこと。 


これが解脱(悟り)への道筋です。


原因があるから結果がある。

この場合は誕生が結果であり、無明が原因となります。

結果には必ず原因があります。

つまり必ず止滅させるべき無知を携えてぼくらは生まれて来ます。

それを突き止め、滅すること、そして来世に向かう無知を生じさせないこと。

これが解脱の為にやるべきことです。


もしも解脱に興味が無いという人でも、世俗の楽しみを味わいたい人にもこの道は有効な道だと思います。

端的に言えば、止滅させるべき無知とは『自分にとって最もやりたいこと』だからです。


無明とは、ただの無知ではありません。

行を生む要因であると言う条件がついた無知です。

例えば、ぼくは野球が出来ません。

野球については今でも無知です。

しかし子どもの頃から野球を深く知りたいと思ったことはありませんし、なんならやりたいとも思ったこともありません。

それが良いとか悪いとかでは無く、この無知は行を生まない無知です。

つまり知に向かうエネルギーを生まない無知であると言うことです。


逆に、ぼくはまだ解脱に至る無知の抑止には成功していません。

これに関しては、生涯をかけて取り組みたい問題だと確信していますし、子どもの頃から何故かぼくは神社仏閣が大好きで、釈迦や一休さんなど有名な僧侶に子どもながらに憧れを抱いていました。

思春期の少年がロックスターに憧れるかのように。

これが釈迦の言う無明になります。 

つまり止滅させるべき無知とは『自分にとって最もやりたいこと』だと言うことになります。


もちろんそれは人それぞれに全く違います。

誕生の要因は人によって様々なのです。

そう言った意味でも人にはアートマンという本性などなく、無我であると言えると思います。


しかし、現代において、もしくは遠く過去に置いても、多くの人が知に向かうエネルギーの少ない無知に時間を割いているのではないでしょうか?

そして、欲に駆られて心地良く得られる知や快を求め、いたずらに無知を拡大しているのではないでしょうか?


そういう生き方を改めて、本当に自分のやりたいことに専心する智慧が釈迦の佛法にはあると思います。

それこそ、解脱が心からの目標とならないような人であっても、その人が心から叶えたい人生を送るのか、まーまーの人生で良いのか、惰性で生きるのか、どれを選ぼうとも個人の自由だと思いますが、ぼくとしては皆が心から叶えたいことの為に生きて貰えたら嬉しいと思っています。 


最後に、なぜこれがヨーガスートラの否定になるのか?ですが、途中お伝えしたようにヨーガの全てを否定するわけではありません。

スートラの中にあるサーンキヤのエッセンスと、それによる弊害を観てしまったという事です。

細かい部分に関しては追及するつもりもなく、ヨーガの修習が、ぼくのゴールの一部であることには一切変わりはありません。


しかし『そのとき自己(プルシャ)はそれ本来の姿に止まる。』と言う、ヨーガの最終目標の状態の解説に関しては否定せざるを得ません。

これはヴェーダンダの梵我一如に関しても同じです。


こちらは共に瞑想により至る境地でもあります。

梵我一如の境地は数年前に体感しました。

とてつもない快体験でしたし、その無上の喜びはしばらくの間、それこそ数ヶ月から半年単位で続きました。

しかしあるとき苦痛と共に、その境地は崩れ去ります。

さらにしかし、瞑想の実践や、心地の良い環境を整えることで、その感覚は再び蘇ります。

それを何度か繰り返すうちに、コレは違うと確信しました。

そんな不安定な境地を求めてヨーガを始めたわけではないと、絶望に似た感情も持ちました。


しかし、それはまだ自分が真の自己に達していないからだと言う結論に至り、様々な方法でヨーガを深めて行きました。

結果、瞑想の技術は向上して行きますが、それは脳内伝達物質による快体験の域を出ませんでした。


それでも心の作用の止滅の精度を上げて行く道を進みました。

それにより、様々な瞑想状態を体得はしていきます。

ただ、それでも真我は見えません。


そして、縁起の法の理解が進むことで、ようやく分かりました。

プルシャという真我の独存は有り得ないことだと。

もしかしたら感覚的にはあるのかも知れません、ただそれは実ではなく虚。

単なる個人的な快体験に過ぎないことを、確信しました。


その様な快体験を元に自己を確立させ、迷妄赴くままに、社会的地位を獲得している人も多くいます。

快体験が生むエネルギーの高さを理解している身としては、それでこの世を渡って行くことが可能であることも分からなくもありませんし、それはもしかしたら自分にとって心地の良いものであったかも知れません。


しかし、ぼくの無明はそれを一切ぼくには許しませんでした。

より高いゴールへ行けと茨の道を歩ませました。

ゴールだけでなく、師匠を含む様々な人たちの縁もぼくを無明を滅する道へと案内してくれているように、またはいたように感じます。


なのでぼくは、これまでのぼくの指標でもあったヨーガスートラを一部真っ向から否定することにしました。


この世で成すべきことを全て成し、成すべきことの滅した境地に進む為に。

まだまだ、自分にどのような無明が残っているのか全ては分かりかねますが、はっきりと見えた道筋を信じて進んで行きたいと思っています。


最後まで読んでいただいてありがとうございます。

そして、この場を借りて、ぼくをこの道に案内してくれた師に心から感謝御礼申し上げます。

ありがとうございました。