瞑想を実践する上でまずやるべき事は瞑想という技術を身に付けることではなく、何が瞑想を阻害しているのかに気づくことです。


それでなければ、それはどこまで行こうが努力性を伴った集中であり、瞑想とは似て非なる代物です。


瞑想により自然に輝き出るのは"わたしのかたち"でありますので、その修練は不自然さの排除に終始します。


前回のシリーズではアカデミックなヨーガ論からの引用で瞑想を説明したのですが、今回はもっとぼくが修練している実際の部分の論理展開をしていきたいと思います。

良かったら最後まで読んでみてください。



瞑想により自然に輝き出る"わたしのかたち"。


それを指してヨーガは、心の作用の止滅と言い、そのときに自己はそれ本来の姿に止まると言われています。

一方で日本の武道にも"後来習態の容形を除き、本来清明の恒体に復する。"という言葉が残っています。


どちらも、その本来の姿に回帰していくような印象を受けます。

要は人が生きていく過程で身に付いてしまう“癖”というものが、ぼくが言う“自然に輝き出るわたしのかたち”を阻害する原因であり、瞑想を阻害しているものになります。


では、それは何か?どのようなものか?

ぼくは4つの観点から、それらの浄化を試みます。

その4つとは、、、


①身体的な癖


②思考の癖  


③志向作用


④自我意識


になります。


まず身体の癖ですが、これはいわゆる緊張や強張り、多少高度な次元だと意識的に操作が出来ていない部分、つまり意識が通っていない部分になります。

脳にとって意識が通っていない部分は無いのと同じように扱われます。

よって、そこは萎縮して固まった状態になり、そのために他の部分が代償行為をすることで“自分なり”という癖のついた動きを終始することになり、場合によっては不調の原因にもなったりします。


この身体的な癖は、思考の癖から生じます。

例えば内向的な人は胸が閉じがちであったり、緊張しいな人は肩が上がって凝っていたり、怒りっぽい人は眉間にシワが寄っていたりです。


そして、この思考の癖は志向作用から生じます。

内向的ということは人と触れ合うことをあまり好まない。

もしくはひとりが好きと言ったような好きや嫌いなどを識別する機能が働いている状態です。

このような自身の快、不快やそれにより、やりたい、やりたくないなどの動的、非動的な作用を生み出す力が志向作用になります。


さらにその志向作用は自我意識から生じます。

これは、自分という感覚です。

自分らしさや、その反対の自分らしく無い、などの自己評価関数が自我意識になります。


つまり自我意識から志向作用が生じ、志向作用から思考の癖が生まれます、そしてその思考の癖が身体性として現れたものが身体の癖です。


これら全てのあらゆる要素に瞑想を阻害する要因が含まれているのですが、いきなり自我意識から手をつけようとするのはあまり賢い選択ではありません。

それは雲を掴むようなものだからです。


なのでヨーガでは通常、行動規範を示した上で、アーサナという身体的な気づきから修練を積みます。

自我や志向作用、思考の癖など実体の無いものより、身体という実体のあるものへの介入の方が簡単だからです。

まずは確実に触れられる箇所から取り掛かるというわけです。


実際に身体の中で緊張している部分に適度な刺激を加えるだけで、過度な緊張が解け集中力は増します。

ぼくの瞑想WSでは、ほとんどの場合ここから入り、その差異を感じ取ってもらうことから始めます。


もちろん身体感覚は思考と直結していますので、身体から思考の変化を感じ取ることが出来るようになって行きます。

これはヨーガでなくとも、ランニングや筋力トレーニングなど一般的な運動でも見て取れる効果だと思います。

ヨーガと、そのようなエクササイズの違いはヨーガは始めから心にアプローチをするという目的で身体感覚を開発しているところです。


そこからは呼吸法に入っていきます。

呼吸とは唯一、随意的に自律神経に介入出来る方法です。

身体が無意識に行ってくれている機能(いわゆる心臓が動く、汗をかくなど)の中で呼吸は唯一、比較的簡単にコントロールが出来ます。

これは言葉を変えれば呼吸は意識と無意識をつなぐツールであるということです。


人は意識(顕在意識)が2割、無意識(潜在意識)が8割と言われています。

呼吸はこの広大な無意識の世界に介入するための糸口になります。

この辺りの感覚を掴むと自覚的に思考の癖に介入することが可能となります。


普段の日常生活でも起きるような“気づき”を瞑想により引き起こすことが出来るようになっていきます。


そのような心身の状態を獲得することで、外界を捉えるだけに機能していた感覚器官(目、耳、鼻、舌、皮膚)が統御可能となり正しい内観が出来るようになります。

この段階に行くと自らの志向作用に客観性を持ち自らの内的な癖に明確に"気づく"ことが可能になっていきます。


このプロセスは積み重ねもありますが、大半は気づきのプロセスです。

強く拳を握りしめていることに気づくとフワッと力が抜けるように、気づくことで、支配されている対象(身体的癖や思考の癖など)から解放され、逆にその対象への支配力を得ます。 


例えば過度な緊張の原因にまで気づきが及ぶことで、その緊張は解けて、さらに緊張するという機能を適切に保つことで、重要な場面で程よい緊張感を維持出来るようになる、など今までの悪癖は使用可能な機能のひとつに変わります。


ただ、あくまでそれは気づきの副次効果であり、ヨーガ、瞑想という純粋な自己に帰すという目的からしたら取るに足らないものです。 


そう言った副次効果は多岐にわたりますが、このような副次効果は世俗的な道では有効であるが、ヨーガの目的からしたら障害である、とはっきりヨーガ教典に記載があります。

世俗な道では有効なのだから、現代社会において瞑想を実践する我々は臨機応変な対応をすれば良いと、ぼくは思います。

そこはクライアントの目的に委ねるようにはしています。


さて、ここまでの全ては瞑想を阻害しているものに気づき、その効果を無効化していくというヨーガの手法でした。


そして、最後に残るのが全ての元凶であり、福音でもある自我意識です。 


人はその自我ゆえに人であります。

自我とは宇宙のあらゆる情報を自分にとって重要なものに並び替える関数になります。

例えば鉛筆と母親なら母親の方が重要!みたいなことです。

しかし、母親と彼女だったら?

こういう風に並び替えることも出来るけど、出来ないものもあると言ったような変則的な関数が自我です。


ではなぜ故に人は自我ゆえに人なのか?です。


それは人の自我は完全に全員違うからです。 


例えば先程の母親と彼女の例だけとってみてもAさんとBさんでは違いがあるでしょう。

そして、それが宇宙のあらゆる情報を並び替えるとしたら誰一人として同じ処理結果になることはあり得ないでしょう。


しかし、動物は違います。

犬なら犬の重要度です。

猫なら猫の重要度です。

つまり個体差がほとんど皆無と言っていいでしょう。

もちろん性格的な違いは個体によりあるのでしょうが、重要度関数という自我の定義からしたら動物はその種内ではほぼ同じ処理結果を弾き出します。


つまり人はその自我ゆえに人であると言えます。


しかし、その強すぎる自我が瞑想を妨げている元凶になるのです。

それはいわゆる固定観念や執着と言われるものです。

これらが志向作用を生み、思考の癖を生み、身体的な特徴として現れているのが人間です。


つまりヨーガ、瞑想の階梯とは身体、呼吸、感覚器官などの統御を通して自我そのものを再定義していくようなものなのです。


Aという自我からA'という新たな自我へと変更を要請していくものになります。


つまり、ぼくの提唱するヨーガ、瞑想、とは今のままの自分を良くしていくことではなく、自我そのものを越えていくことが目的になります。


ただし、それを自身の欲求のままに変容、超越させていく行為を、ぼくはヨーガだとは思いません。

事実として、そのような手法は密教的なヨーガの行法の中には山ほどありますし、ぼくが行っているコーチングにもそのような密教的な手法は多分に含まれます。


しかし、ヨーガの定義はすでに数千年前に済んでいます。

それが最初に書いた

ヨーガとは心の作用の止滅である。

そのときに自己はそれ本来の姿に止まる。

という2節の言葉です。


ぼくの瞑想、ヨーガ、コーチングもそれに準じます。

ぼくの言葉を使わせていただくのであれば、瞑想により自然に輝き出る"わたしのかたち"こそが大切であり、そのようなわたしで生きることを目的とします。


武道で言う"後来習態の容形を除き、本来清明の恒体に復する"です。


自我を越えていくとは大層なことを言ってしまいましたが、要は人の本来のあるべき姿に戻っていくことが目的になります。


人とは、その全ての人が宇宙でたったひとつの唯一無二の自我をもつ生命体になります。


しかし、本当の意味でそれを実感している人がどのくらいいるのかは疑問です。

それを実感するためには徹底した“自我の再定義”を必要とします。

自分に正直に偽ることなく、自らを曝け出す必要があります。

もしかしたら、それは強い人にしか出来ないことなのかも知れません。

けれど、ぼく個人的には“その生き方しかないよな”って思います。


なぜなら人間って本来そういうものだからです。


自らの癖を取り除き、自己本来の静けさを体感してみて分かって来たのですが、人はどこまででも静寂に帰することが可能なようです。

ただ、それにはそれを可能とするような瞑想対象を必要とします。

つまり自我を捨て去り、その対象に自分の全てを捧げてしまえるような"何か"です。

それが何なのかは、ぼくには分かりません。


なぜなら、人の自我は誰ひとりとして同じでは無いからです。


ぼくにとってのそれはヨーガや武道なのかもしれませんし、好きな人との幸せな生活がそうだったりするのかも知れません、もしくは未来の子どもの為や社会の為、愛する人の為なら、いくらでも自分を変化させられるのかも知れません。


ぼく自身様々なものを対象に瞑想をしています。

ヨーガや武道では主に身体や呼吸、動きなどになりますが、もう少し詳しく述べれば瞑想対象の核は“関係性”になります。

釈迦はそれを縁起と呼び、のちに空という概念が発見されました。


しかし、実際はそんな大それた話しではありません。

あなたにも大切にしたい“関係性”ってあるよね?ってことです。


それは仕事だったり、家庭だったり、趣味だったり、友人関係だったり、パートナーだったり、自身の夢だったりするのかも知れません。 

それらは全て関係性の中に生じます。

人はひとりでは何も生み出せません。

全てのものが、あらゆる関係性から生じます。


おそらく洗練させるのはそこです。

その中でひときわ輝くものがあるはずだと、ぼくは経験からそう確信しています。

この短い人生の中で、洗練させるべきはそこだと思っています。

そして排除すべきは、それを妨げる何かです。

ただ、大体の場合排除するべきは自身の固定概念や執着であり外界の出来事ではありません。


そういう意味でも、ヨーガとは今の自分をより良くするものでは無くて、自分そのものを越えて行くものになります。


そのようなサイコーの自己錬磨のツールがぼくの提唱する瞑想です。


最後まで、お読みいただきありがとうございました😊