ダーラナへの適正を得ることで、ヨーガ瞑想の最初の段階。

“尋”へのアプローチがジワリジワリと可能になって行きます。


それはダーラナ(断続的な集中)からディアーナ(継続的な集中)、サマディ(三昧)という瞑想の段階を深めていくことで可能になります。


集中が深ければ深いほど深い気づきを得られるからです。


論理的思考から反射的思考、純粋な喜びに至るまで、高い解像度で自己を観ることで、深い気づきと共に、それらの自己に対する高度な統制が可能となります。


しかし、そのような集中状態を得るには物質的な身体と非物質的な身体が共に自己の制御下にあることが必須です。

言葉を変えると氣の身体と物理の身体の相関関係と、その構造を直感的に掴んでいる必要があります。


そういう身体性を伴った瞑想は深い集中をもたらし、その集中は深いレイヤーで気づきを起こします。


では、気づきとはなにか?


それは良く観ることになります。


良く観るとは何か?


集中して観ることになります。


集中して観るとはどういうことか?


大体の人は力いっぱい観ようとします。


それは間違いです。


集中して観るとは、集中して観れていないの逆をしていけば良いのです。


つまり"集中していないこと"に気づくことです。


正しく気づくことは対象への支配力を得ます。


なので、正しく集中していないことに気づくことが出来れば、その集中を妨げる対象への支配力を得るため、もはや、それが集中を妨げることはありません。


それを手放すとか表現する人も居ますが手放すわけではありません。

気づくだけです。


そして、ほとんどの人が"気づく"を知りません。

気づいた気になっている。

そう思い込んでいる。

その様な人がほとんどです。


思い込んでいるときは、それが思い込みだとは思えません。

自分の中では、それが真実かのように振る舞うからです。


しかし、それは思い込みです。

それは、それが思い込みであると分かったとき、言葉を変えたら、さらに深い真実が目の前に現れた時、それが思い込みであったことにはじめて気がつくように、そのときが来るまでは決して分かりません。


それが"気づく"ということです。 


そして気づきは永遠に進化していきます。

より粗大な気づきから微細な気づきへと。

それがヨーガの瞑想の階層性をより奥へと進むということです。


そして、集中が深いということは、集中を妨げるものが極端に少ないということです。


ですので、集中が深ければ深いほど良く観える、良く気づけるということになります。

不純物が極端に少なくなった結果、それそのものの本質が自然と浮かび上がる、それがヨーガにおける瞑想の真髄です。


そして深い気づきは自己への強固な支配力を得ることになります。

よって論証性や反射などへの介入、理解、統御、超克が可能となります。


仏教における止観とはまさにそれです。

仏教はヨーガから派生したものになり、釈迦の悟りをベースとして、それを体得するものになります。

彼は一切の不純物を自ら取り除き、この宇宙をまざまざと観たのでしょう。

それが究極の気づきだとぼくは思っています。


ヨーガの修練は自らの不純物を取り除き真実を観る眼を育むことにあります。


ヨーガや瞑想とは“わたし”に気づくことです。

もちろん今のわたしとは全く違う“わたし”です。


それは様々なレイヤーで同じ構造をしているため、余計にぼくら実践者を惑わします。

それを段階的に滅していく方法論が古典ヨーガであり、その方法論から生まれたのが釈迦の仏法であり後の仏教、つまり止観です。


まずは集中の感覚を持つ、その深い集中状態で対象を観る。

その結果、正しい気づきを得る。


それがこのシリーズの最初にお伝えした、"瞑想とは気づき"が本質であり、その本質を捉える為に"集中"がある、と言った構造になっている。

ということです。


そして、この気づきの先には新しい地平が広がっています。


そこには、さらに微細でとりとめがなく、不可思議な世界が広がっていきます。

しかし、そこでも同じように正しく観ていく。

よぉく観る、集中して観る。

それが出来たら、また新しい気づきが起き、思い込みが消滅して行く。

そうやって意識の地平を広げていくことが瞑想という道の本文だとぼくは思っています。


この道は、曖昧にされがちです。

曖昧にしやすいからです。

しかし、はっきりとした境界線があります。


それは自転車に乗れると乗れないの境界線のように。

乗れるようになった頃には乗れなかった頃の世界とは全く違う世界にいるはずです。

それくらいはっきりと違います。


そして、その境界線を越えてからは、それを深める段階に入ります。


それはあるいはヒーリングかも知れません、あるいはビジネスかも知れません、あるいは恋愛かも知れません。

これらに共通するのはコミュニケーションです。

関係性の構築になります。


瞑想により真に深まる能力は理想的な関係性を構築する能力にあるとぼくは思っています。


だからこそ、それは人それぞれに成長曲線が違います。

真理は人の数だけあるからです。

しかし宇宙は同じ構造になっています。

太陽は東から登ります。

ひとりだけ西から昇ることなんてあり得ません。


なので、この宇宙の使い方はみな同じです。

ただ、どう使うかが人それぞれ違うのです。


瞑想とは正しく気づくことです。


それが自分にとっての正しい宇宙の使い方になっていくはずです。


ぼくが瞑想の道に入ったきっかけ。

修練してきたヨーガというもの。

これら全ての経験を与えていただくに至った全ての存在に感謝します。


この道に強制的に入った2014年。

ヨーガに出会った2016年。

師匠のご縁でインドでヨーガを学んだ2018年。

ヨーガは誰からか教えてもらえるものではありません。

人生を懸けて、それを繋ぎ築いていただいた先人たちから学ぶものだと、ぼくは考えます。


この記事が瞑想を学ぶ手助けになれば幸いです。

最後まで読んでいただきありがとうございました😊


終わり。