日々、さまざまな選択を行なっているのが私たちです。朝起きたときから、夜眠る時まで、選択の数々です。

 「わたしは選択をしている!」という認識のひとよりは、「会社にいかなければ」「起きなければ」「メールの返事をしなければ」というように、気づいていないうちに選択をさせられている人が多いのが現実です。

 最新刊は「この選択が未来をつくる」というタイトルですが、さまざまな人たちに「選択ってどれだけの人が意識しているんでしょうね」という声がありました。「なにかをしている」という意識はあっても、「選んでいる、選択している」という意識はそこにはないのではないか、ということを思われたのかもしれません。

 ぼく自身は「選択主義」とも言えるくらい、人生は「選択」によってつくられていると思っています。1日に行う無数の選択、それが1週間、1ヶ月、1年となったら、どれだけの選択をしているのでしょう。それを意識的にやっている人と、淡々と「こういうことはしなきゃいけないんだよ」と決められたことだからやっているかのようにいきているひととでは、どれだけの違いが生まれるのでしょう?ましてや10年も経てば、大きな違いになるのではないでしょうか?

 気づかないうちに「そういうものなんだ」という選択が私たちの人生には星の数ほどあります。気づいたら「朝はご飯を食べるんだ」「起きたら顔を洗うんだ」「寝る前には歯を磨くんだ」「人にあったら挨拶をするんだ」「寝癖は直すんだ」「服装は‥‥‥というような挙げだしたらキリがない選択を「そういうものだから」という風に受け入れてしまっているのが私たちなのです。

 それを「常識でしょ」というひとがいますが、ぼくはそういうのが受け入れられませんでしたし、今もそうです。

 常識を受け入れるとき、ひとは「仕方ないよな」と諦めて弱くなるのだと思います。自分で「仕方ないことなんてない。選ぶことができるんだ」ということに気づくとき強くなっていけるのが人間の仕組みです。

 ずっと常識や、習性や、慣習にしたがっていきてきた人たちにとっては、いきなり選択をするというのは、そんなことをやったって何も変わらないだろう、と思ってしまいます。仕方なく受け入れていた習慣を、自分で違うものを選択していても、それで人生が変わるようには感じないかもしれません。海に浮かぶゴミを1つ拾ったところで、海全体の汚れにとっては違いなんてないって感じてしまうかもしれません。

 わたしがこころから信じているのは、「なにもしない」ということと「なにかしたけれど、結果には現れなかった」というのは大きく違う、ということです。アメリカ大リーグで活躍しているダルビッシュ選手は、テレビのインタビューの中で、自身が1年間で読もうとしている栄養学や生理学、脳科学などの書籍を前にして次のように話していました。

 「全部は理解できないかもしれないけれど、読み終われば必ずなにかの違いが生まれる。なにもしなければなにも変わらない」

 押さえておいて頂きたいのは、超一流とよばれる人たちですら、「なにかの違いがあるはず」というぐらいの確信なのです。全部が完璧にわかっているから取り組むのではないのです。「きっと違うはず」「なにか変わるはず」そういった可能性を感じる気持ちが、未来をつくりだす人たち、一歩踏み出し続けているひとたち、挑戦しつづけている人たちなのです。

 毎日無数に行われている選択が、いきなりすべて変わるものではありません。でも、1つずつでも変えていけば、ある日、全く別の生活をしている自分に気づくと思います。そのとき、あなたは全然違う毎日を送っているのです。

 

 少しでもヒントになったら幸いです。

 

 池田貴将