身体が冷えてきていた。
 このままだと間違いなく動けなくなる。何とかしないと。でも今は逃げないと。
 そんな単純な思考だけを巡らせて、私は雨の音をかき分けながら、追っ手から逃げていた。
 私の両親が生んだ罪、その呪われた結末から、その手に掛かるまいと、必死に逃げていた。

「知ってたじゃない。いつか、こんな日が来るって! だから……!」

 復讐という刃が、私たち家族を引き裂くって。

「……!」
 ふと、近い場所でバシャっと音が聞こえたような気がして、私は立ち止まった。
 一旦屋根にへばりつき、じっくりと辺り一面に気配を巡らせた。獣のように、すんすんと鼻も動かす。そして気が付いた。
「やぁ、罪の落とし子さん」
 私の背後に、薄い気配がざわめいていた。声からして、男だろう。成人はしているだろう声音は、ほくそ笑んでいるように感じる。
 私は意識だけを彼に向け、その動きを警戒。それと同時にゆっくりと屋根に伏せていた身体を起こしていった。
「……」
「おはよう。是非こっちを向いて欲しいな。顔を見せてよ」
 男は私の身体が完全に立ち上がるまでじっと立ち尽くしたまま、立ち上がってみればそんな事を優しくも冷たい声で囁いた。
 私がゆっくりと振り返った先には、サバイバルナイフを両手に携えた20代前半の若い男の姿。
 男は冷徹な笑みをたたえ、私をじっと舐めるような視線で見つめていた。
「君が、ゼフィーナ・シベリスだね」
「……ええ、そうよ」
「勿体ないなぁ、凄くかわいいのに。出来る事なら、もっと違う形で出会いたかったよ」
「……」
 私は気付かれない程度に、重心を右足に傾けた。男から感じとれる殺気が、私の目には立ち上る煙のようにはっきりとその存在を感じさせていて、半ば恐怖に駆られた。逃げなければと。私の腕では、到底敵わない相手だと。
「君自身に恨みはないけれど……」
「……っ」
「ここで死んでもらうよ!」
 その言葉と共に屋根を蹴った男の身体は、一瞬にして私の元まで辿り着くと、容赦なく持っているナイフを振りおろしてきた。
 私はそれを間一髪の間合いで避ける。髪が少しだけ切られて雨に叩き落とされていった。
 それを見送る事も暇もなく、続いてきた2発目も避け、バク転を2回。3回目のバク転時に両手でぐっと屋根を押し返し、大きく跳躍して、向いの屋根の上に降り立った。
「へー、なかなかじゃん」
 時間を置かずに銃を取り出し、相手に発砲。男は楽しそうにそれを避けつつ、私のいる屋根へと迫ってくる。
 その笑い声が……異様に腹立たしいけれど……ここは冷静に動かなければ。
 男がこちらの屋根に移るため飛び立ったのを見計らって、私は発砲を止めて逃げ出した。

(ティセラ……ごめんね……!)



 屋根の上に置き去りにされたクマのぬいぐるみは、雨に打たれ寒そうに震えているようだった。
 ふと、ぬいぐるみの作られた目に、1つの影が映り込む。
 影はそのままぬいぐるみを拾い上げると、小さく笑った。

 


「……あの子、使えそうね」
 私は脇道に入った瞬間感じた気配にティセラをぎゅっと握って、警戒を強めた。
 雨の音が相変わらず、私の耳と集中力の邪魔をする。それでも、雨の音を脳内で処理しながら僅かな音を拾っていく。
「……3人」
 誰かいる気配がする。このままこの道をまっすぐ歩いていけば確実に捕まるだろう。
 私はその気配がこちらに向かっているのを再度確認して、近くの民家の屋根に上った。そうして屋根にへばりついてじっと様子を伺う。
 こうして動かないでいれば、雨の音は逆に私の姿を隠す味方となってくれるだろう。
(ティセラ……これがいつも2人が言っていた……罰ってものなのかな?)
 私の友達のクマさんは答えない。ただ嬉しそうな柔らかい微笑み顔を私に向けている。
(でも、安心してるの。やっぱり、友達はティセラだけにして良かった。他に友達なんて作らなくて良かった)
 いずれこんな時が来る……誰かが私たちに復讐という牙をむける日が……。
 それは子供ながらに両親の言葉から悟った結論だった。この幸せは絶対に永遠ではなくて、そもそもこの世に『永遠』なんてものはなくて、いつかは壊れる日が来て、その時は全てを捨てて逃げなきゃいけない。
 そう考えた私は、友達を決して作らないと決めた。いつか捨ててしまなければいけない存在なら、そんなもの、はじめから手にしなければいい。

(…………ううん、違う。本当は怖かったんだ。友達から……恨みを買う時が、来るかも知れない事が)

 友達を1人作れば、その友達には両親がいる。これで3人つながりを持った事になるすれば――
 友達を10人作れば、その10人の友達にはそれぞれ両親がいて、結果、30人とつながりを持つことになる。親は20人もいるのだ。
 この20人の親の誰かがもし、私の両親のターゲットになったりしたら……そう考えただけで、私は怖くなった。
 それと同時に、それが私の両親の仕事であり、選んだ道だったのだとも理解した。そして、私を産むときに悩んだという理由も。
 だから私は、握りしめたクマのぬいぐるみ……ティセラを友達に選んだのだ。
 決して私を裏切らないし殺さない。泣かないし私の話をちゃんと聞いてくれる。いつもにっこりと微笑んだ顔をして私を和ませ安心させてくれる。

 

そう……結局私は今までずっと、現実から逃げてきただけだったんだ……。
 底なし沼のような現実に埋もれたくなくて、陸でぬいぐるみと一緒にずっとお飯事をしていたに過ぎなかった。
 私を産み、愛し、友達をくれた両親は、目の前の沼に囚われていると、知っていたのに。

(私はどうしようもなく臆病者で、そして卑怯だ…………でも)

 だからこそ……今度こそ、逃げる訳には行かない。
 私は先程感じた気配が、自分のいる民家を通過していったのを確認して、ゆっくりと立ち上がった。
 とにかくここを脱出しないといけない。私は、殺される訳にはいかないのだから。

(行こう、ティセラ)

 私は民家の屋根から屋根へ、慎重に飛び移った。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」

 私は、必死に走っていた。何かに縋るように、大粒の雨が降りしきる中、ばしゃばしゃと音を立てて、ひたすらに走っていた。
 右手には、私の唯一の『友達』ティセラ。両親から買って貰った、たった1つの大切な贈り物。
 その愛らしい顔は雨に濡れて、煤汚れ、肌触りも悪くなっていたけど、それでも私にとっては家族で過ごした楽しい時間も、1人でいた寂しい夜も、全てを共に過ごしてきた掛け替えのない存在だ。
 そして今この時、私の心を支えてくれている、ただ一つの光でもあった。
 右手の異質感が、私を現実へと戻し、そして「逃げなければ」という意志へと繋げていた。

 私は、暗殺業で生計を立てていた両親の元に生まれた。
 父と母は互いに孤児院の生まれで、その孤児院が紛争で焼け落ちてから一緒に行動を共にしていたという。
 まともな知識も地位もなかった2人は、そのまま盗みなどで生きていくが、やがて互いに『殺し』の素質がある事に気付く。
 この残酷な道を、生きていくためにと選び取った2人は、『暗殺』を正式な仕事にして、人の目から逃れるように貧困層の一角に住み始めた。

 そしてそれから数年後の後、母は私を身ごもった。

 ――そして、悩んだ末に、私を産んだ。

 

 人の未来を奪い、人の恨みを受け続ける自分たちが、幸せの証など残してもいいのかと考えたのか。子供に同じ運命を辿らせる事が嫌だったのか――
 しかしそれでも産んだのは、唯一残せる2人の生きた証だったからなのか、神が許した幸せの1つだったのか。今の私にはもう、分からない。

「……この道を、右に、行けば……!」

 私は、2人が自分をどれだけ愛してくれていたか知っている。
 私は、2人にとって生きる希望であったはずの小さな命。無残に散らす訳にはいかない。
 だって……2人がその命を散らしてまで守ろうとした、命なんだから。
「父さん、母さん。私、絶対に……生きのびてみせるから」
 今になって、両親が私に暗殺術を教えてくれていた事を心から感謝していた。そうでなければ、今頃とっくに逃げる事叶わず死んでいただろう。
 降り続ける雨のせいで、前髪が顔にへばりついて気持ち悪い。私は無造作にその髪を1回軽くかき上げると、辺りを警戒しつつ脇道に入った。

『ゼフィーは私たちと違って頭脳派タイプみたいね』
『そうなの?』
『ああ、そうだな。勧める訳じゃないけど……暗殺よりスパイに向いているんじゃないか?』
『スパイ……?』
『情報を盗んだり、敵地に身分を偽って忍び込んで、内部事情を調査したり……そういった事をする人の事よ』
『私が、それに向いてるの?』
『そう。ゼフィーは判断力が優れてるからね』

 2人が私に下した評価、それが正しかったかどうか……私は今、見極められている気がした。

「……!」