それは、まさに妖術のようだった。
 私の記憶に、そっと大切な何かを残すように、その声音は、心に鎖を巻き付けていった。
 元々、エキドナはどこか儚さを纏ったような人で、でも強くて、私はそんな彼女が放つ空気がどこか居心地が良かった。
 きっと、ママはエキドナを私のお守りにと決めた時、そんな私の心を見抜いていたんじゃないかと思う。

「私、もう長くない。昔から病を持ってて」
「何を……」
「でも、私は最後までママの手駒。だけど、私は最後に貴女に言葉を贈る。それが、ママのためだと信じて」

 この世界で別れなんて当たり前だけど、エキドナとの別れは……寂しいと思った。
 ママは私にとって恩人であって憧れではあるけれど、同時にどこか違う世界の人のような気がしていたから、そういった意味でエキドナは蝶の中で私が信頼し、身近に感じていた唯一の人だったのかも知れない。

「ママは、とある人物を探してる」
「とある……人物?」
「ん……私の仕事は、その人物の情報を得る事と、確保する事。そして……ママの弟の生死を確認すること」
「弟……?」
「ママの、最期の人の部分」
「……」
「ママには手に入れたいものがある。どうしても欲しい事実がある。それがあったらから、辛うじて人でいる」
「私は……風前の灯の渇いた蛇。魔女を見守る事、もう敵わない。だから、貴女に託す」

 私は言葉を紡げないでいた。
 彼女の瞳に私の顔が見える。その私は少し泣きそうな顔をしていた。
 エキドナは普段と変わらず、その物憂げな瞳で、それでも表情は少し悲しそうで……。

「ママを、見ていてあげて。彼女の道は誰にも外させる事が出来ない。だから、見ているだけでいい。そしていつか、私に教えて」
「……エキドナ」
「お願い」

 エキドナの最後の姿は、最初で最後の優しく、綺麗な笑顔だった。
 私はその笑顔を忘れない。この赤いチョーカーがエキドナの形見だとするならば、私はこれをつけて、この蝶で行動していこう。
 そうする事でずっと、私を通してエキドナが見ていてくれるような……そんな気がするから。
「レマ」
「……エキドナ」
「一緒にいい?」
「…………ええ」

 アジトの食堂は地下にあって、窓もないためいつも薄暗い。
 おまけに女性しかいない集団の食堂だというのに味も見た目も悪く、メンバーのほとんどはここで食事をするのは本当に時間がないときだけで、後は大抵外食をしている。
 だがレマはそんなメンバーとは対照的に、外食は滅多にせず、基本はこの薄暗い食堂で1人空腹を満たしていた。
 彼女が食事をしている時の食器の音、そしてママに預けられた乳児の両手足をバタつかせる音とたまにあがる声。その2つだけが、この防空壕のような食堂に響き渡っていた。

「どう? その子」
 私の問いにレマは視線を食事に向けたまま答える。「別に。静かでいい子だとは思うけど」
「……やっぱり、納得してない?」
 さらに追撃をした私の言葉に、レマの食事の手が止まる。スプーンにすくわれたご飯が少しこぼれた。
「……ママは、どうしてこの子を私に任せたの?」
「貴女が拾ったんじゃない」
「それは……」
「ママも、そうやって貴女を拾って、私に勝手に預けて……ふふ」
 当時の事を思い出して、今のレマの態度と全く同じだったと思わず笑みがこぼれた。
 レマをそれを察したのか、自分が拾った乳児を見つめる。
 乳児は自分の服を不思議そうに握りつつ、泣く事もなく相変わらず両手足を愛らしく動かしていた。
「……ねぇ、レマ。貴女はどうして1人でいる?」
 それは私がずっと彼女に聞きたかった言葉。でも、答えてくれないと確信していたため、避けていたのもある。
 しかし、あえて今聞いたのは、これを逃せば、もう聞く機会がないと思ったからだ。
 彼女は言いたくないだろう。それでも私は最後にどうしても聞きたかったのだ。ここを離れるにあたり、それだけが最後の心残りだった。
「別に」
 レマは即座に回避してきた。私はそれでも攻める。「どうして1人でいる?」
 レマは攻めた私の態度に少し驚いたように目を見開いた。私が否定された言葉を再度強く聞いたのは今回が初めてだった。
「………………。怖いのよ」
 レマは少し考えた様子で沈黙した後、そう呟いた。私は「何が?」と静かに聞き返し、そらなる言葉を待つ。
 長い沈黙。それでも私は答えを聞くまで絶対に動かないと意思表示するように、レマを見つめた。
 レマは視線を逸らしてはいたが、私の視線が自分からずっと離れない事に諦めたのか、やがて諦めたよう息を吐いた。
「一度大切にしてしまったら……もう手放す事なんて出来ない。そうやってまた私は……」
「……大切なものを踏み台にして生きてしまうのが、怖い?」
 私の一言に、レマの動きが止まった。乳児の声だけが、食堂に響く。
 ママの言う通り、この子はこの世界に向いていない。でも、だからこそ新しい風にはなれるはずだと思った。
 ママのことは救えないだろう。でもこの後、レマみたいな子が来ることも十分あり得る世界だ。そんな子にとって、きっとレマの光は救いとなるはずだ。そしてそれは私の願いでもある。
 私の消えた未来を託すに値する彼女に、私に残せるものはなんだろう。思考を巡らす。
「……レマは、天命って信じる?」
「天命……?」
「私は、人にはそれぞれ役目があって生まれて来てるんじゃないかと考えてる。そして私自身が考える私の役目は、ママの知りたい事を運んでくる事と……貴方に、仲間の大切さを少しでも分かってもらう事だった。……後者は、ちょっと失敗?」
「エキドナ……」
「この世界での名前、エキドナ。異名、妖魔の渡り鳥………ちょっとおかしな組み合わせ。どっちも自分で決めたのに」
「……ふふ、何それ」
「レマが笑った」
 私は最後にレマの笑顔が見れて良かったと思いつつ、彼女を見つめた。レマも少しだけ頬を染めながらこちらを見る。
 そうして笑いあい、私は満足した気持ちでレマの右腕をそっと掴んで、その手のひらに赤いチョーカーを置いた。


「あげる」
「……」

「貴女には、大した事してあげられなかった。だからせめて受け取って欲しい」
「エキドナ、何を……?」
「私、ママに頼まれて、しばらくここを留守にする。……だから、レマには言っておく」

 これが、最後だから。
 イブリースの部屋のドアがゆっくりと閉まった。
 ドアを閉める前、最後に軽く会釈をした少女は、この前彼女が救った薄紫髪の少女。名前はクレマシオン。
 過去の全てを燃やし葬り去った新しい自分に対して、火葬という名前を付けた、なかなかの期待の新人だ。

「……いいのですか?」
「何が?」
「彼女にあの少女を任せても良いのか、という意味です」
「ふふふ、いいじゃない。レマだって子供っていう歳でもないし」
「ですか……ここに来てからというもの、レマの態度は一変して冷たくなり、仲間からも嫌煙されています」
「……それが、望みなんでしょう」
「え……?」

 レマはあれから、エキドナと共に一度実家に戻った。両親をちゃんと弔いたいと言って。
 そこで彼女が形見として持ち出したものが、母親が愛用していたという銃。しかしレマは、それを使うことなく封印してしまった。
 2人に顔向け出来る人物になるまでは使わないというのが理由だったが、事情を知らない他のメンバーからは、やる気のない奴だとみなされ、嫌みを言われる原因となってしまっている。「根がこの世界向きじゃないのよ。私みたいに、諦めて壊れる事が出来ない」
「ママ……」
「だからこそ人を遠ざけるのよ。仲間ってのは、助け合う事が出来る温かい存在でしょ? それが、恐いの」
「……ママはどうして、相手の心を読むのがそんなにお上手なんですか?」
「ふふふ……さあ、どうしてでしょうね」

 相手を利用するという事は、相手の心を見破り、そこから先手を打って支配する事。
 私はずっとママという存在の下で幹部として働いてきて、そう感じていた。
 ママには絶対的な目的がある。そして私たちも、このバタフライという組織も、全てその目的のための駒でしかない。
 この組織にしばらくいれば、それは誰にだって分かる事だ。現にママはそういった自分の野心的な部分を一切隠そうとしない。
 私たちがママについていく事、それはママという存在が何であろうと、彼女がいなければ、今ここに自分はいない。それが分かっているからだ。
 レマもきっと、そうなのだろう。その意味でも、彼女は仲間を遠ざけているのかも知れない。
 彼女は、ママみたいに冷酷になりたいのだ。その方が、この世界では楽だから。

「でも、あの子には他人を受けて入れていって欲しいわ」
「……あの乳児を任せたのも、それが理由ですか?」
 乳児……銃の訓練にと森へ出かけたレマが、捨てられていたと連れ帰ってきた、1歳ほどの幼い女の子。
 ママはそんな乳児の世話を全てを、今しがたレマに一任したのだった。
「一環ではあるわね。あの子の本当の良いところは、人を惹きつける魅力」
「……」
「いずれ、その魅力が必要になる時が来るわ。……ふふ、それまであの子の良い芽を潰さないように、しっかりと見ていてあげないと」
「ママ……」
「どんなに冷酷であろうとしても、彼女は善を捨てられない。現に捨てられた赤ん坊をわざわざ拾って帰ってきた。捨て置いてもいいはずの、弱くて、小さくて、脆弱な命を……ね」
「貴女は……」
「エキドナ」
「はい」
「私が怖い?」
 そう私に問いかけたママの瞳の奥に、私は彼女の過去を見たような気がした。
 部下にさえ明かした事のないママの過去。ママをこうまで変えてしまった過去とは何だったのか。
 世界に絶対の復讐を誓うその理由は、この苦笑じみた問いかけにこそ、隠れているのかも知れない。
「……はい」
「ふふ……」
「でも、だからこそ私は、死ぬまで貴女の手駒でいます」
「あら、変わった子ね」
「そうでしょうか?」

 私も、ママも知っている。私の命が、もうそんなに長くない事くらい知っている。
 だから私は、ママに救われたこの命が尽きるまで、私の血肉全てを捧げると誓ったのだ。
 そう……ママだけが、小さく脆く脆弱で、捨て置かれて然るべき私の命を、見つけてくれた人なのだから。