奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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奈良県奈良市とその近郊を中心に、墓石販売、石碑彫刻、霊園・墓地紹介を行なっております、池渕石材のブログです。
どうかよろしくお願いします。

今回ご報告する施工事例は、お墓のリフォーム工事の定番のひとつと言ってもいいでしょう。

墓所の雑草対策工事です。

盛夏が過ぎましてこれからは秋に向かい、お墓に雑草が生えてくるのも一段落かな、というタイミングではありますが、とはいえ草むしりが面倒であることは季節を問わないでしょう。

お墓参りの度に、草取りの手間が省けたら、とお考えになる方も多いはず。

そんな草むしりの負担を軽減してくれるのが、このお墓の雑草対策施工というものです。

 

今回の現場となるのは、近鉄の富雄駅から少し北に行ったところにある三松墓地です。

近くの法融寺さんというお寺さんが管理しておられる墓地ですね。

弊社からは車で15分内外といった距離でしょうか。

では早速、三松墓地にある現場区画をご案内しましょう。

参道の坂道を上った先にある墓所は次のようなところです。

 

 

非常に敷地面積の広い、大きなお墓であることがひと目でわかると思います。

中央に代々の石塔が立ち、その脇に夫婦墓が二基、そして右側には霊標とお地蔵さんも立っているという立派な墓地です。

間口は5メートル近く、奥行も4メートル以上という墓所です。

ただ、全体的に土が痩せ、三枚の拝石もそれぞれ傾いてしまっているのが見て取れます。

これはおそらく、巻石のどこかに隙間があり、そこから雨の度に少しずつ土が流れ出している、ということかと想像されます。

そこで巻石の隙間をセメントで塞ぐ、といった工事も同時に行なうことになります。

 

では作業です。

まずは除草作業も兼ねて、表面の土をある程度削り取り、整地します。

元の土が痩せているとはいえ、表面には雑草の種など混じっていますので、多少の土を処分するのは必要なことです。

その上で新しくきれいな土を補充し、傾いている三枚の拝石を直します。

 

 

これで雑草対策工事の準備が整った、という段階です。

次はこの土の上に、お馴染みの草の生えにくい土を均等に広げていきます。

草の生えにくい土は、自然土由来の土の中に樹脂を混ぜてあり、水で締めるときつく固まります。

それによって雑草の定着を妨げる効果を発揮するというわけです。

防草シートなんかですとどうしても隙間ができ、風で浮いたりそれ自体が劣化したりという問題がありますが、こちらは区画全面にほぼ隙間なく施工できますので、なかなか優秀です。

 

 

袋から出したばかりは、砂漠の砂のように粒子が細かい土なのですが、水で締めるとご覧のように見た目は普通の土と変わらなくなります。

ただ、指でじかに触っていただくと、明らかに固いのはすぐわかります。

非常に密度を感じます。

この上に玉砂利を敷きますと、防草施工の完了です。

 

 

とてもきれいに整備されました。

草の生えにくい土は、雑草が100%生えてこなくなる魔法の施工というわけではないのですが、少なくともお墓参りの都度の草むしりは非常に楽になると思います。

お墓の雑草に困っておられる方にはオススメです。

三松墓地での雑草対策工事、これにて完成です。

 

奈良をはじめ、近隣地域でのお墓工事のご用命は池渕石材まで。

雑草対策をはじめとしたお墓のリフォーム工事も新規建墓工事も、あるいは戒名彫刻から墓じまいまで、お墓のことなら何でもご相談承っております。

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今回もちょっと豆知識系の記事になるのですが、表題をご覧ください。

お墓によく使われる石の産地って、どんなところがあると思いますか?

 

こんな風に問いますと、まずそれは日本国内の話なのか、それとも世界全体のことを言っているのかはっきりさせろ、とおっしゃる方もおられるかもしれませんね。

あるいは日本のお墓に外国の石が使われている、ということをあまりご存知ない方もおられるかもですね。

 

そこでまず基本的な話をしますと、毎年日本で新しく作られるお墓の材料となる石は、大半が外国からの輸入石材です。

日本を含めますと、お墓に使う石の「三大産地」とでも呼べる国がありまして、日本の他に中国、インドが挙げられます。

最近は少し事情が変わりつつあるとはいえ、特に主力となっているのは中国の石材で、一時は日本で年間作られるお墓の8~9割が中国材だ、と言われていた時期もありました。

なんといっても安価、かつ大量に採掘されるので製品としても安定していて、墓石本体としても外柵材としてもよく使われます。

 

 

上の写真は、黒竜江省で採掘されるので「黒龍石」と呼ばれている御影石のサンプルです。

中国内では福建省と黒竜江省が日本向け石材の二大産地と言えるでしょうか。

 

中国に続いて、日本向けの墓石用石材を多く産出しているのが、いまや世界最大の人口を擁するこれも大国のインドです。

インド産の石材で特徴的なのは、やはり黒でしょうか。

黒にもいろいろあるのですが、クンナムとかパンとかYKDとか、石の業界ではよく知られた黒御影が数多く採掘されています。

 

 

今度の写真はインド産の青御影で、アーバングレーという商品名で知られている石種です。

少し石目は粗いですが、硬くて水を吸いにくく艶もいいというので、非常に人気のあるインド産石材のひとつです。

 

そしてやはり、日本のお墓に使われる石材としては、日本各地の銘石を挙げないわけにはいかないでしょう。

最高級品である香川県の庵治石をはじめ、愛媛県の大島石、岡山県の北木石とか万成石といったあたりが、関西では定評ある墓石用御影石として知られています。

他にも各地域にそれぞれ特色ある銘石があり、佐賀県の天山石、神奈川県の小松石、福島県の紀山石や宮城県の伊達冠石など挙げていけばキリがありません。

 

 

写真は佐賀の天山石です。

近年、奈良でも使われることが増えてきた石種です。

 

他にも、南アフリカなんかはいろいろな石目・色目の石材を産出していますし、中国材が増える前は韓国の石材も数多く使われていました。

最近は使われることが減りましたがフランス、ポルトガル、スウェーデンといったヨーロッパ諸国も有名な御影石の産地です。

といった具合に、グローバル化の時代にふさわしく、日本のお墓の石というのも世界の各地からやって来ているわけです。

お墓を建てようと検討なさっている方は、事前に石の種類など調べてから石材店に行ってみるのもいいかもしれませんね。

 

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各種石材サンプルも取り揃えてお待ちしております。

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

堀山惠子『教誨師』講談社文庫、2018年

 



本書は第一回城山三郎賞を受賞したというノンフィクションですが、非常に面白かったです。

タイトルになっている「教誨師」というのは、刑務所なんかで受刑者の道義心の育成、精神の安定や健全化などのために、面接を担当する宗教者のことを指しますが、本書が取り上げるのはその中でも死刑囚の教誨を担当し続けた渡邉普相という浄土真宗の僧侶です。

 

本書が綴るのは、戦前の広島に生まれて、紙一重で原爆から生き延びた渡邉師が僧侶となり、東京に出て師となる教誨師と巡り会って自身も教誨師となるまでの半生、そして死刑囚たちとの濃密な対話のありさまです。

なにしろ確定死刑囚というのは、何月何日とはわからないまでも、そう遠くない将来に絞首台に上って死んでいくことが決まっている人たちです。

その人たちを教化し、精神の安定や拠り所を提供しようというのだから、たとえ宗教者といえど並大抵ではない仕事で、本書を一読して非常に印象に残るところというのも、渡邉師がいかに死刑囚たちに寄り添ったかという部分以上に、以下に寄り添うことに失敗したかという後悔の部分です。

 

軽口をたたき合っていたはずなのに、死刑囚というのはその内面の奥の奥ではきわめてデリケートな精神で生きていて、ふと漏らした一言で二度と教誨に来なくなる、そしてそのまま孤独に死んでいく、というエピソードも語られます。

彼らは社会で凶悪な犯罪を犯した人間なのだから、その苦悩などに耳を傾ける必要はない、といったご意見もありましょうが、そういった人たちにもなお人としての繋がりを築こうをするのが宗教者の役割だ、という風に言えるでしょうか。

少し引用します。

 

「渡邉は、教誨師として死刑囚と長く過ごすうち、最初は事件について触れようともしない者でも、暫くするうちに被害者遺族と会わせても十分、心からの謝罪を伝えられると思うほどに変化を遂げる者がいるという。一方で日本の司法や行刑の仕組みは、被害者やその遺族と加害者を向き合わせるような形にはなっていない。裁判の時、被害者遺族は加害者に怒りのたけをぶつけ、加害者は加害者で刑を軽くしようと自己保身に走る。そんな敵対関係をマスコミが事細かに報道して負の感情を煽り、憎しみの炎に油を注ぎ続ける。マスコミは往々にして被害者の怒りは取り上げるが、悲しみに寄り添うことはしない。そしていざ死刑判決が確定してしまえば、死刑囚となった加害者は外界との交流を断たれ、あらゆる人間の関係性から排除され、多くの場合、放置され、社会から忘れ去られる。

 世間から完全に切り離され、どんなに反省しようとも死刑という運命しか与えられない彼らに、前述のような厳しい条件を克服することは不可能だと渡邉は言う。そして渡邉自身の教誨師としての心残りもまた、被害者と加害者をつなぐことが出来なかったことだと打ち明けた」

(276頁)

 

被害者と加害者を結ぶと言っても、もちろん一筋縄にはいかないでしょうが、長い間教誨の仕事を続けた人物の眼差しがどこを向いていたのかというのは、興味深いところです。

究極的には、社会における刑罰の意味、という問題にもなりそうな気がします。

死刑囚というのは、自らが犯した罪をその一身で償うために生かされているという矛盾の塊のような存在であり、彼らを人間として社会的に繋ぎとめることの意味とは何だろう、という話ですね。

 

単に死刑制度の是非といった論点を越えて、人間存在にとって宗教が占める位置など、さまざまなことを考えさせられる読書となりました。