下村 海翔(しもむら・かいと)投手 右投右打 21歳(02年3月27日生)174㎝73㎏
九州国際大付高校−青山学院大学 兵庫県西宮市出身
学生屈指の即戦力右腕
【球歴】
樋ノ口小学校3年時に甲武ライオンズで野球を始める
入団時は、遊撃、三塁、捕手を守っていたが、監督に勧められ、小学6年の後半に投手に転向
下村自身も投手が一番好きだった。
甲武中学1年時春に入っていたチームではチーム事情で捕手を頼まれた。
投手希望だったが、下村は「試合に出られるならどこでもいい」としばらく捕手を務めていた。
数カ月後、練習から帰宅すると、突然父に「本当にやりたいのはキャッチャーなのか」
と問われた。「やっぱりピッチャーをやりたい」。
本心に気がつき、自然と涙が出そうになった。そこで下村は大きな決断をした。
中学1年の冬に退団し、田中将大(現楽天)らを輩出した名門「宝塚ボーイズ」の体験へ。
中学2年から入団。中学3年ではエースの後を受けて登板することが多かった。
中学3年夏には全国大会の「ジャイアンツカップ」にも出場した。
九州国際大付に進学し、1年時秋季大会で公式戦デビューを果たす。
チームが秋季大会で敗退すると、楠城監督から突然「Aチーム(上のチーム)についてこい」
と命じられた。そして遠征先で試合に登板。1失点だったにもかかわらず、監督に怒られた。
「一回ピッチング禁止や。ネットスローからもう一回作り上げてこい」
まさかの“投球禁止令”。下村は訳も分からないまま、翌日からネットスローを始めた。
すると今度は監督にブルペンに呼ばれた。「これからは毎日ブルペンを俺が見る」
このマンツーマンレッスンが下村の“武器”の原点となった。
そして11月の練習試合で秋季大会でチームが敗れた東福岡に対し、2桁奪三振で完投。
そこから急成長を遂げた下村は2年の春から背番号1をつけ、九州大会で優勝。
同時期に中学卒業時135キロだった球速も145キロにまで伸びた。
続く2年時夏の北大会を2回戦で終え、同年秋に県準V(九州1回戦)を達成。
3年時春の練習試合で自己最速となる149km/hを計測した。
3年時夏の福岡大会は筑陽学園に0-3(4回1失点リリーフ)で敗れ4強で敗退。
最速149㌔をマークし九州№1投手と言われたが、プロ志願届を提出はしなかった。
下村は高校時代、プロか進学で悩んでいた。そんな時に青山学院大から声がかかり決めた。
青山学院大学に進学するも春ごろから新型コロナが流行し始め、春のリーグ戦の中止が決定。
1年秋季リーグは開催されたため、下村も公式戦で登板。
リーグ最終戦では9回14奪三振の完封勝利を記録。
最終的に秋季2部リーグで2勝1敗、防御率1.93の好成績を残し、
チームの1部昇格に大きく貢献した。しかし1年冬に入学直前から右肘を痛めており、
同年冬にクリーニング手術を受けて長期離脱した。
3年春のリーグ戦でクローザーとして復帰し、同年秋から先発を務めた。
4年春のリーグ戦ではチームとして33季ぶりとなる優勝を成し遂げた。
同年6月に開催された全日本大学野球選手権大会でチームは優勝した。
7月には日米大学野球選手権大会の日本代表に選出された。
4年秋もリーグ戦を制し神宮大会出場も決勝戦で慶應大学に敗れ史上5校目となる4冠を逃した
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