大学院生だった時の話だ。


同期の中国の留学生に「海行ってバーベキューしたいです!」と言われた。"バーベキュー"という単語に火がついた自分は、本当に日にちをセッティングして場所を決め、友達も誘って準備をした。


そして後日、準備したから行きましょうと言ったら彼女は喜んだものの、後から「日本人特有のあれだと思っていたので、本当にやってくれるとはおもいませんでした」と言われた。"あれ"とは、社交辞令とか建前とかのことだろう。


中国はどうなのか知らないが、確かに日本は"タテマエ文化"があるなんていう話を聞いたことあるし、表向きに"ホンネ"とは真逆のことを言って場を切り抜けるなんてシチュエーションは数多であろう。自分も、そういうことは何度もしている。



だが、おそらくホンネとは裏腹のことを並べ、時として付き合いだからと、感情をも押し殺してタテマエでやりくりし続けると、当然フラストレーションが溜まるのではないだろうか。


ちょっと前ぐらいに、メディアとかで"ホンネ"が流行っていたなと思っている。主にワイドショーの乱立がそれなのだが、あらゆる芸能人が"ホンネ"でニュースを斬るさまが痛快で、当時はウケが良かったんじゃないのかなと思う。


テレビだけじゃなくて、YouTuberが台頭した1つの要因は、商品レビューなどで忖度やタテマエをなくした"ホンネ"の感想や、素のありのままの世界を映すホンモノ感が視聴者にウケていたのである。



わりとワイドショー的ホンネを言う番組が乱立した時代とYouTuberが台頭してきた時期は2010年代半ばから後半と一致していて、実は老若男女共通の認識で「言いたい事も言えないこんな世の中」にフラストレーションを抱いていたのではないだろうか。なぜこの時期に?という分析は、またさらに背景をさかのぼる必要があるが、それは割愛する。


そのフラストレーションゆえに、"ホンネ"で代弁してくれるメディアの人たちに共感するのは、想像にかたくないのである。



そうなると、"ホンネ"を言うとウケるみたいな感じに思う人たちも当然出てくるのである。


だが、何でもホンネを言えばいいわけでは当然なくて、その一例が、先日のフリーアナウンサーによる"男性の体臭"投稿ではないだろうか。


その言動によって所属事務所の契約が解除になったということはともかく、あの発言は、ホンネに共感されるだろうという願望がフリーアナウンサーにはあったのではないかと思う。


男性差別的な発言だとまでは自分は思わないが、やはり伝え方としてはきつい印象にあった。だが、そういうインパクトある言い方だからこそ、芯に刺さるのでは…というのは、どこか感情としてあったと推測している。



思えば以前、ツキイチコラムで持論を断言することの是非について書いたことがある。それに通ずる部分もあるのだが、やはりふわっとした言い方よりも、ズバッと言うほうが、効果があることはある。


しかしこれは、投稿を見たユーザー、ネット世論の感情に訴えるものなので、とても脆く、諸刃の剣でもあるのだ。だから、共感されなくなった途端に、その言葉は悪として批判の的になるのだ。そしてその批判は誹謗中傷へと化していき、最初の発言者すら被害者になるような、あらゆるところで問題となっていくのだ。いつもその繰り返しだ。



さて、先に述べたフリーアナウンサーの匂い発言問題では、契約解除はやり過ぎだという立場の意見の中には「何も言えなくなる危険性がある」という意見もある。


処分の是非ともあれ、そしてフリーアナウンサーを擁護するわけではないのだが、ここには一理あると思っている。コンプラ社会のリスク回避においては、ちょっとした言動が炎上し、結果契約解除というケースが頻発する懸念は想像に難くない。


今、誹謗中傷問題がかなり深刻化している。当然誹謗中傷なんてダメだが、他方で"誹謗中傷"という4文字だけが独り歩きしていて、批判やちょっとした意見すら、誹謗中傷というくくりにされかねない状況になりつつもあるような気がする。


そうなると、本当の誹謗中傷問題に目が当てられなくなる危険性もあると思う。



そして、一層"ホンネ"が言いにくい社会になっていくと思う。もちろん何でもホンネを言えばいいわけではないが、過剰に"ホンネ"を封印するとどうなるか──。おそらく、そのフラストレーションがよくない方向に爆発してしまい、陰湿な陰口、そして誹謗中傷へ向かってしまうのではないだろうか。


よく言われているのが、犯罪でもそうなのだが厳罰化すればするほど逆に犯罪率が高くなるということだ。プロセスは若干違うのかもしれないが、あまりきつく縛りすぎてしまうと、どこかで噴出してしまいかねないのだ。それでは本末転倒だ。



じゃあどうすればいいのか、おそらく、ダメなものはダメとしつつも、それ以外のところでギスギスしない寛容な社会になることなのだろうか。でもその社会と"タテマエ"社会は、ある意味で紙一重なような気がする。"タテマエ"で争いを避けてきた一面もあるからだ。


つまり、一番大事なのは、"タテマエ"と"ホンネ"のバランスなのではないだろうか。それが求められているのだと思う。