大学時代、法学部政治学科という学科に所属していた。主に政治学や、政治に付随した法律を中心に学んだ4年間だった。ゼミも、政治をテーマに取り扱うゼミだったし、何ならそのゼミの教授は「選挙オタク」を自ら名乗るほどだった。

 

そして最近、仕事柄政治の話を聞くことが毎週あって、撮影なのだが個人的には大学時代の講義を受講しているような懐かしさも感じている。

 

だから、自分にとって"政治"というのに関心がある方なのかな、と自負している部分はある。何なら、最近政治の話を聞くようになってからまた少し関心を持つようになったので、いい機会だなとも思っている。とはいえ、熱弁できるほど知識があるかと言えば、そうではないのだが…。

 

その上で、いつも思っているのが「政治は0か100ではないな」ということである。だから与党と野党で度々攻防戦が繰り広げられているし、それが民主主義なのかなとも思っている。あるテーマにはほぼ必ず対立する意見が存在するし、そしてそれが一概に間違っているものでもないのだ。

 

そういった意味では、自分の政治的立場は右寄りでも左寄りでもない、中道に近い立場だと思っている。でも、それが悪いとは思っていない。極端に判断できるようなものではないと、自分ではそう思っているからである。

 

 

さて、都知事選がカオスだと非常に話題になっている。

 

特に選挙ポスターをめぐっては、団体に寄付をした者に独自のポスターを貼る権利を与えるといった掲示板ジャックや、全裸の女性のポスターを貼ったことで警視庁から警告を受けた者もいる。政見放送でも、公約はそっちのけで服を脱ぎだす候補者がいるなど、まさに"カオス"な状態となっている。

 

今回の都知事選で、立候補したのは過去最多の56人だという。しかしその中にはこうしたカオスな状況を生み出している、おそらく世論として「本当に都知事として当選する気が本当にあるのか?」「選挙を利用した売名行為では?」と疑問に感じてしまう候補者もいるのが実態である。

 

こうした状況で「立候補のハードルを上げるべきだ」とか「メディアが取り上げる政党も考えるべきだ」という意見がちらほら見受けられる。ある意味では、本当に当選する気がなくて選挙を使った売名やおふざけをしている者がいるのだとすれば、こうした意見が出るのも無理がないと思う。

 

しかし他方で、これも「0か100か」で考えてはいけないのが難しいところなのである。

 

例えば「立候補のハードルを上げる」というのは、仮に年齢や居住条件以外に何か基準を設けてしまった時に、政治の根本でもある市民の意見を反映しにくくなるという懸念がある。そもそも年齢ですら、今の被選挙権が与えられる年齢では若者の意見が反映されにくいという批判もあるのだ。立候補の届け出の際に納入する供託金の引き上げも、同様に立候補できる人物が限られてしまい本当に立候補したい人ができなかったりしてしまう恐れがあるのだ。

 

メディアが取り上げる政党についても同じである。放送の政治的公平が決められている放送法4条はしばしば話題なるが、多くのメディアが今取り上げがちな小池氏vs蓮舫氏の構図に「公平に取り扱っていない」という批判がある一方で「政見放送に制限をつけるべきだ」というのはそれこそ「公平に取り扱っていない」のだ。ダブルスタンダードなのである。

 

ましてや誰を取り上げて、誰を取り上げないかというのを放送局判断でしてしまうと、それも大きな問題なのである。これは、泡沫候補(当選する見込みが極めて薄い立候補者)をめぐる報道において問題視されることがあるテーマだ。

 

 

このように、カオスな状況である一方で、じゃあとうすればいいのかというところについては、非常に難しいのである。もちろん公職選挙法だったり迷惑防止条例に違反した場合においては逮捕されたり警告されたりするのだが、"法をすり抜けている"ことでカオスを生み出しているのだとすると、これを今後どうしていくかという議論は、法改正も含めて選挙後になされる可能性はあるかもしれない。

 

 

ところで、立候補のハードルの話が先ほど出たが、一方で「政治を語るハードル」はあまり健全ではないのかな、と思っている節がある。

 

投票率が著しく低いことはよく問題視されている。もちろん自分の一票を投じたところで…と考える人がいたり、投票したいと思う候補者がいないから…という理由で投票しない人も一定数いると思うが、そもそも政治に関心を持っていない人も多いと思う。とりわけ若者の投票率が低いことが言われるが、それはやはり政治に関心を持っていない若者がそれなりにいることが背景にあるとも言えるだろう。

 

それこそ大学時代のゼミで「若者の投票率を上げるためにはどうすればいいか」というテーマで議論したことが何度かあった。投票券に特典をつけるとか、SNS戦略に力を入れるべきなどといった意見があった気がするが、もし政治への関心度を上げることが前提だとするならば、それは「政治を語るハードル」なのかなと思っている。

 

今回の都知事選に関連して、ある芸能人やYouTuberがSNSやYouTubeで特定の選挙立候補者を応援する旨の発言をしたことで、批判コメントが届くなどといったことが起きている。

 

お金をもらって応援しているのではないかという陰謀論めいた意見はさておき、この手の発言に対し「政治的発言はしないほうがいいですよ」とアドバイスする人たちもいる。もちろんそこの発言部分は表現の自由的に制限されることではないのだが、一方でこのアドバイスも的を射ていないわけではないな、と思う。

 

特にSNS上では、ある政治的発言に対しては、反対側の立場の人々から攻撃される事が多い。あえて"攻撃"という言葉を用いたのは、決して議論や批判ではなく、ただ相手を攻撃し、最終的には「勉強不足」だの「頭の中がお花畑」だの罵倒するようなものが多くて、そこに建設的なものだったり冷静なものはないことが多いからだ。

 

そういったものを目にした時に、政治的発言をすることに対してどう思うだろうか。発言をするのは憚られるだろうし、勉強しないと入り込めない、と思うのではないだろうか。

 

少なくとも自分は、政治的意見があったとしても、やはり攻撃されることを恐れて今まで控えてきたという経験がある。

 

しかし、ここも「政治は0か100じゃない」というところで言うなら、攻撃されたから全て間違いでもないし、攻撃されなかったから全て正しいわけでもないのだ。発言や、その根本にある考え方に正解不正解はないのだと思う。

 

だから、政治に対して「自分はこう思う」というものがあれば、それを発信するかどうかはともかく、それがその人の中で正解でいいと思う。それで言うなら、いろんな人がいろんな意見を言っているが、それは結局その人の中での正解に過ぎないのである。共感することはいいが、共感できなかった時に自分の意見が不正解なのかといえば、そんなことはないと思う。

 

政治とは身近な存在であるはずだ。だから、何も感じないはずはないし、全く関係ないはずがないのだ。生活する上では、必ずどこかで関わってくるものなのである。

 

 

さて、今回の都知事選をめぐっては、様々な角度で多くの批判が起きている。非難と批判は異なるし、政治に批判はつきものなので、そういうものなのだが、批判するのは投票という政治参加をしてこそ、はじめてできることであるはずだ。

 

有権者でないならともかく、有権者でありながら投票もせずに色々言うのは、それは学校のクラスなどで決めごとをする際にまともに参加せずに適当にあしらっておきながら、ただ陰で文句を言ったり決まってから文句を言う構図と一緒だと思っている。そういうのはセコいし違うだろ、ってなるのと同じである。

 

政治に参加することの大きな手段の1つが、選挙の投票なのだから。