世の中には「一億総○○(時代/社会)」という言葉がたくさん存在する。かつては一億総中流、一億総白痴化というのもあったし、今でも一億総活躍社会という政策も掲げられている。ちなみに新聞記事でさかのぼるなら、戦時中には一億総進軍という言葉が朝日新聞に登場していたという。


このように、すべての国民が~というものを指すに当たっては、一億総○○という表現は使いやすいのかもしれない。今日でも書籍のタイトルや記事において、一億総○○という造語はたくさん存在する。



あえてそれを使って表現するのなら、現代は"一億総コメンテーター社会"だなと思っている。


まずはワイドショー的番組が乱立したことで、学者とか評論家という肩書きの人物のみならず、お笑い芸人やモデル、俳優までもがそういう番組にコメンテーターとして出演するようになった。


これは専門家の堅苦しい話よりも、タレントの話のほうがお茶の間目線に近くなり、視聴者の共感を得やすいという利点があってのことである。


ちょっと前まではインテリタレントが起用されることが多かったが、最近ではインテリを売りにしていない人物の起用も増えてきている。それはおそらくインテリよりもそうじゃない人の目線のほうがさらに視聴者目線に近くなるということなのかもしれない。


そして、我々もSNSで簡単に意見を発信することができる。Twitterである発言をして、それに賛否両論となって議論になっている光景があるが、それはまるでワイドショーで意見をぶつけ合っている構図そのものである。



さて、こう言うと気取ってんじゃねえよと言われるかもしれないが、Twitterとかブログ、特にツキイチコラムであれこれ述べている自分も、間違いなく一億総コメンテーターの一員であろう。


これまでいろいろ意見を言っているが、そこで密かに気をつけていることがある。それは、断言をあまりしないことだ。


あくまで自分の意見で、自分の感想にすぎないからだ。いわゆる「それってあなたの感想ですよね」ってやつだ。なのでけっこう最後に「~と思う」を入れることが多い。通常のブログでもツキイチコラムでも、そこに着目してみるとおそらく目立つのではないだろうか。


ただ悪く言えば、もし情報が間違っていたときなどに、自分の考えであり事実かは分からないということでセーフだろうという予防線を張っているのだ。


これでは、当然説得力も欠けてしまう。なので例えばYouTubeとかで、このような言い方をしていては支持が得られない。あるYouTuberが言っていたのは、意見を発信する際に「~と思う」って言うのをやめて、はっきり断言するようになってから、再生回数やチャンネル登録者数が伸びたという。


はっきりと、感情こめて断言したほうが、見ている人に刺さりやすく、支持を集めやすいのだ。ちなみに余談だが、YouTubeではおなじみの言い淀みや間を切ったジェットカットも、やはりそのような編集のほうが見ている人に刺さりやすいため、多くのYouTuberが用いている手法である。



ならこのブログもそうすればいいじゃないかと言われるかもしれないが、これが難しいところでもある。断言しすぎることは、デマを伝えかねない懸念もあると思っているからだ。


誰が見ても明らかなことはほぼ断言できるが、自分の感想や憶測までも断言してしまうと、それが事実かは分からないものが事実かのように受け取られかねない。たとえ拡散力が低いこのブログだあっても、ネットに公開している以上は、いつどう広まるかは分からないものだ。なので、そういう部分は気をつけないといけないと思っている。


あまり断言していないこのブログ。前のも含め9年間いろいろな持論を展開してきたが、きっと刺さっているものはそんなにないんだろうなと思う。そうなると、もはやそれはただの"ひとりごと"にすぎないのではないだろうか。



さて、Twitterであるツイートに対して思わぬ反論が殺到して、どうしようもない状況になっている光景がある。おそらくその場合、ツイートした人物は誰かと議論したくてツイートしてるわけじゃなく、ひとりごとのようにつぶやいたら炎上みたくなってしまったというケースなのかなと思う。


それはやはり、断言してしまうことで反対の立場の人を刺してしまっている部分もあるのではないだろうか。本人はそうじゃなくても、攻撃されたと思ってしまう。それで反撃してしまう。


ならば、断言せずに、刺さらないような言い方で「~と思う」と、予防線を張るのがそういう巻き込みに合わないひとつの防御なのではないかと思う。



一億総コメンテーター社会だからこそ、世の中の発言1つが議論化しがちなところがある。ワイドショーのみならずバラエティー番組でのおもしろ発言が議論になるし、SNSでいわゆるネタ投稿したものにマジレスして議論を巻き起こす人もいる。


さらにそもそも、1億ものコメンテーターから発せられた言葉には、優れたものもあればデタラメなものもあるだろう。それがすべて、伝え方によって共感され、本当のことのように伝わり、広まるのである。その点、この社会ではやはり情報の取捨選択能力、リテラシーも重要になる。



一億総コメンテーターというと、誰でも簡単にコメンテーターになれる感じがする。しかし、コメントする側も受け取る側も、それぞれ意識すべきことがあるのだ。


そう考えると、少なくとも自分は、今までのスタイルを崩す自信はまだない。このツキイチコラムでも、断言を避けている部分がある時点で、きっとこれも単なる"ひとりごと"として、1億の中に埋もれていくのだろう。