『文芸春秋』11月号に財務事務次官の矢野康治氏が「このままでは国家財政は破綻する」という寄稿論文が掲載され論議を醸し出しました。

 

 日本国家の破綻論は決して珍しいものではないのですが、天下の現役事務次官が執筆しているとあって、内容の信ぴょう性については問題ないように思われます。

 矢野氏の記述の中に『日本は氷山に向かって突進しているタイタニック号』的な論述があります。この船には船長はいないのか?どうして衝突回避の行動を取ろうとはしないのか?などの素朴な疑問が生まれてくるわけなのです。

 選挙が近づくと政治家先生諸氏はこぞって「甘い蜜」の話を持ち出します。今回の総選挙の争点は「バラマキ」とのことで、各政党とも『〇〇万円を支給します』のオンパレードです。

 累積する財政赤字をもろともせず、借金に借金を重ねている状況です。

 とにもかくにも、政治家の中で真剣に国の借金を返済しようと思っている人は存在しているのかどうかと考えると、心配になってきます。

 まだこの世に存在しない将来世代の返済を当てにして現世代が借金をしている構図です。将来世代にとってみれば、これは明らかに「負の遺産」と言えるものなのですが、どうして現世代である私たち自身の切実な問題として捉えることができないのでしょうか。

 

 その理由の一つとして挙げられるのが『財政錯覚』というものです。簡単な例でお話すれば、よく以下のようなケースはないでしょうか。

 気の合う者同士が旅行会を組織しています。各人が会費を出し合って、その旅行会の貯蓄を利用して楽しい旅行に行くのです。

 旅先では、美味しいものを食べ、酒を酌み交わしたりします。勢い気が大きくなることでしょう。日頃できない贅沢なんかをしたりもします。

 そんな時、旅行会の会計担当から『会のお金で支払っておきますから.....』なんて言われると、“魔法の財布”よろしく、どんどん使っても良いような気になったりもします。

 

 これが「財政錯覚」です。会費は自分たちで出し合っているのに、将来の負担のことは全く頭から抜け落ちた状態になってしまうのです。

 

 では話を戻して、各政党の「バラマキ合戦」や、それについて何の意識も持たない私たち国民は、この「財政錯覚」に陥ってしまっているのではないでしょうか。

 私たちの意識では、“国家”とは自らの領域の「外」にある、何か遠い存在という距離感があるのではないかと思います。まだ見ぬ将来世代の人たちのためにも、今を生きる私たち一人一人が、自分自身が“国家”の構成員であり、“国家”の担い手であり“国家”そのものであるという認識を持つべきなのです。

 

 世の中には「返さなくても良い借金」なんてありません。民間の常識で考えれば、借金の返済を考えない資金繰りをして、お金を使いまくる会社経営者なんていないでしょう。また、返済のことを全く考えないで住宅ローンを組む会社員もいないでしょう。双方とも自分自身に跳ね返ってくる「自分ごと」だからです。

 

 会社の借金は、『将来実現できる利益額を前借して今使わせてもらう行為』であり、会社員の住宅ローンは『将来獲得できる給料を前借して今使わせてもらう行為』です。将来あげることのできる利益、将来獲得できる給料がそれぞれ見込むことができるから、借金をすることができるのです。民間では、「ペイゴーの原則」が当たり前となっているのです。

 ※ペイゴー原則とは、新たな財政支出を求める場合に、その財源が同時に必要だというもの。