約8時間半という長尺ぶりにまず驚く。だが映画を見るうち、そこにこめられた歴史の重みに圧倒され、8時間半では短すぎるとすら思えてくる。

 中国出身の映画監督ワン・ビンは、常に自国の歴史と現実に向き合い続けてきた。『鉄西区』(2003年)では廃れゆく工業地帯の現在を、9時間を超えるドキュメンタリーという形で映し出し、『収容病棟』(2013年)では雲南省の精神病院の実態を克明に記録してみせた。8月1日(土)より公開される最新作『死霊魂』の主題は、1950年代後半から60年代前半に起きた中国共産党による「反右派闘争」。ある日突然「右派」と名指された人々が、ゴビ砂漠にある再教育収容所へ送られ、過酷な労働と食糧難のため次々に餓死していった。監督の初長編劇映画『無言歌』(2010年)でも取り上げたこの負の歴史を、本作では、生存者たちの膨大な証言によって紐解いていく。

 撮影は2005年から2017年という長い時間をかけて行われ、その素材映像は600時間以上に及ぶという。見る者に圧倒的体験をもたらすこの驚くべきドキュメンタリー映画は、果たしてどのように誕生したのか。


ワン・ビン監督
生き延びた人々が、真実を語ってくれた
――『死霊魂』についてお尋ねするうえで、まずは同じく「反右派闘争」を主題にした過去作『鳳鳴 中国の記憶』(2007年)と『無言歌』(2010年)との関係性についてうかがわせてください。夾辺溝の再教育収容所での飢餓を描いた『無言歌』の製作の時点で、すでに『死霊魂』の製作も想定されていたのでしょうか。

ワン・ビン 実際に収容所へ送られた人々への取材は、2005年頃、『無言歌』を作るためにスタートしました。『無言歌』は、原作の小説(楊顕恵『告別夾辺溝』)がありそれに基づいて撮った作品でしたから、取材はあくまでリサーチでした。それを使って一本の作品にしようとは当時は考えていませんでした。

――一人の女性の証言を延々と映し続けた『鳳鳴 中国の記憶』もまた、『無言歌』のリサーチとしてスタートしたのでしょうか。

ワン・ビン 『鳳鳴 中国の記憶』に登場するのは、夫がゴビ砂漠にある夾辺溝の再教育収容所に送られた女性です。夫に会いに、一度だけそこを訪ねたことはあるものの、鳳鳴さん自身が直接収容所での飢餓を体験したわけではありません。ですが、彼女もまた同じ時代、夫と共に右派とレッテルを貼られ、様々な苦難に見舞われた人です。だから彼女に自分の経験を話してもらった。決して『無言歌』の素材として話してもらったわけではありません。

――当初は『無言歌』のリサーチとして始めた取材が、『死霊魂』という壮大な作品へと変化していった経緯を教えていただけますか。

ワン・ビン 当時はまだこの事件について自分でもよく理解できていなかったため、作品を作れるという確信がありませんでした。しかし取材を続けるうち、作品として残しておかなければという気持ちが強くなってきた。そして2014年頃、自分にはこの人たちの証言を作品に仕上げる能力があるはずだという自信を得て、改めてドキュメンタリー映画として作る準備を始めました。収容所では非常に多くの人が死んでいったわけですが、我々はそこで実際に何が起きていたのか、何も知らなかった。それを知りたい、というのが最初の動機でした。彼らはどんな人でどのように死んでいったのか。生き延びた人々が、真実を語ってくれたのです。

――劇映画『無言歌』とドキュメンタリー『死霊魂』はまるで鏡合わせのような2作品だと思いますが、監督は、この2作品でやろうとしたことについてどのようにお考えですか。

ワン・ビン 『無言歌』は原作の小説をそのまま脚色したもので、基本的にその内容には手を加えていません。しかし『死霊魂』は、人間の本質や彼らの経験を映画という形で残すという目的を強く備えた作品です。ですから『死霊魂』を撮るときは、夾辺溝で起きた事件についてどう思うか、『無言歌』よりもずっと深く考えなければいけませんでした。自分自身の歴史観や世界観をより反映させたわけです。

彼らはずっと語りたいことを語れずにいた
――『死霊魂』では、収容所から生還した人々が、みな本当に見事な語り部として自らの体験を語りますね。どのようなアプローチで、あれほど雄弁な語りを引き出していったのでしょうか。

ワン・ビン まず前提として理解していただきたいのは、彼らは本当に凄まじい経験をしたにもかかわらず、長年その不幸な経験を物語ることができずにいた、という事実です。周囲の人々は彼らの声に耳を傾けず、もっといえば、どこかで見下してきた。そういう人々に囲まれて、生存者たち自身もまた、自ら口を開こうとはしませんでした。でも21世紀に入り、中国社会が大きく変化するなかで、彼らもまた自分の心の中にあるものを吐き出しておきたいと思うようになってきたのです。そこに私がカメラを持って会いに行った。純粋な気持ちで彼らの気持ちを聞きたいと望んだ私に対し、彼らはすぐに胸襟を開いてくれました。

――映画のなかでは監督の質問の声は入っていませんが、現場では質問を投げかけたりもしたのでしょうか。

ワン・ビン 私自身がよく理解できないことがあった際には質問することもありましたが、ほとんどの方は自ら熱心に語り続け、一度話し始めると止めようがないほどでした。基本的に彼らはどんなことでも話してくれましたし、私が何か誘導するまでもありませんでした。彼らはずっと語りたいことを語れずにいたわけですから、それは当然です。

彼らが経験したことはいわば同等なのです
――この映画のなかでもっとも心を動かされたのは、夫の横に黙って寄り添う妻の存在です。彼女たちを映そうと決めた理由を教えてください。

ワン・ビン 生存者たちの多くは、ほとんど外出もせず、夫婦二人きりで静かに暮らしていました。共に年老い、死を間近に控えた二人が、部屋に仲良く座っているシーンがとてもいいなと思ったのです。

――たとえ妻自身が何かを証言するわけではなくても、夫と一緒にいる姿を映すことが重要だったということですか。

ワン・ビン そのとおりです。年老いて二人暮らしになっても夫婦が寄り添って生きている。その事実が重要でした。長い年月のなかで、夫婦は多くのことを一緒に経験してきました。妻自身は収容所に行っていなくても、夫と同様に政治的な圧力を受け続けてきた。彼らが経験したことはいわば同等なのです。ですから、たとえ沈黙のままであろうと、夫婦二人が共にいるシーンをカメラに収めることは、映画にとって重要でした。

――撮影スタイルについておうかがいします。カメラはたいてい椅子やソファに座る人々の真正面にあり、そこから動くことはほぼありません。カメラの位置はどのように決めていったのでしょうか。

ワン・ビン みなさんとてもお年を召した方なので、彼らの家に訪問し、そこで撮影するのは当然の流れでした。人様の家にずかずかと入っていくわけですから、撮影の際に勝手きままに動き回ることはできません。それに取材の際はたいてい私一人か、多くても二人程度しか同行しません。撮影中、私は彼らの話に耳を傾けるのに必死でしたから、カメラを動かしている余裕はなかった。自然とカメラは正面に固定することになったわけです。

私はただ真実を語りたいのです
――本作は虐待から生き延びた人々の証言から成るドキュメンタリーということで、やはりクロード・ランズマン監督の『SHOAH ショア』(1985年)が頭をよぎるのですが、何か意識された部分はありますか?

ワン・ビン 『SHOAH ショア』はもちろん見たことがありますが、私の作品よりもずっと素晴らしい作品だと思いますよ(笑)。ランズマン監督とは実際お会いしたこともないし、映画について話をしたこともありませんが、彼の映画と私の映画との間には大きな違いがあると思います。『SHOAH ショア』は、社会的な環境という意味で、私よりもずっと自由に撮れている作品ですね。

――『死霊魂』では、環境における不自由さを感じていたということですか?

ワン・ビン そうですね。取材のたびに非常に慎重にハラハラしながら撮っていました。ランズマン監督は、撮影のテーマや対象に彼自身が深く入り込みながら撮っていますが、『死霊魂』は、もっと慎重に撮影しなければいけない状況に置かれていました。『SHOAH ショア』に見られる撮影の自由度が、私の場合にはそもそもなかったということです。

――中国では、現在も「反右派闘争」について口にするのはタブーだと捉えていいのでしょうか。

ワン・ビン そう言えると思います。

――『死霊魂』は中国での公開はまだされていませんが、今後も難しいとお考えですか。

ワン・ビン ええ、とても上映はできないでしょうね。

――監督はこの映画によって中国の過去の歴史を告発しているとも取れるわけですが、現在の政府に対して挑むといった意図もあるのでしょうか。

ワン・ビン 映画でもって何かを告発したり、批判につなげるつもりはありません。映画に、映画以外の目的を持たせることはしたくない。過去の歴史を見つめ実際に起きたことをきちんと語る。それが本作の大きな目的です。映画によって何をしたいかと問われれば、私はただ真実を語りたいのです。

王兵/1967年、中国陝西省西安生まれ。2003年、廃れゆく工業地帯・鉄西区を撮影した9時間を超えるドキュメンタリー『鉄西区』で国際的な注目を浴びる。監督作に『三姉妹〜雲南の子』『収容病棟』など。

INFORMATION

『死霊魂』
8月1日より、シアター・イメージフォーラム(渋谷)で公開
http://moviola.jp/deadsouls/

(月永 理絵/週刊文春)

文春オンラインから(引用)
2020/8/7