続)3・11から6年、生と死を見つめながら講義に参加して今想うこと~福島の経験から~
お水取りも終わって、奈良はこれから本格的な春の到来を迎える。勧学院での講座も3学期が終了し、年度替わりの春休みを迎えている。お水取りのお松明を約60年ぶりに見に行ったが、見物人の多さと観光気分的な雰囲気に驚かされた。私の記憶には雪舞う寒さの中、松明の輝きと火の粉や灰を求めて集う人々の信仰心や、春を迎えるための決まり事としての生活感に満ちた雰囲気が刻まれていたのだが。(当時は東大寺2月堂は興福寺南円堂と並んで町場の人々の信仰を集めていたように思う。)12~14日に堂内でおこなわれる韃陀の行は、以前は韃靼の行という文字が使われていたように思うが、韃靼というのは中央アジアのタタール人の中国名であり、タタール人は古代ペルシャとのつながりが深く、ペルシャから興った火の宗教・ゾロアスター教を信奉していた。その意味で火の行である韃陀の行にはこのゾロアスター教の行法の影響を感じるのはうがちすぎか。そう言えば、始まった頃の正倉院展でみた「鳥毛立女屏風」とそっくりのものを数年後にペルシャ美術展で見たことがあった。中央アジアで発見されたものであった。天平はシルクロードを通じてペルシャへといざなっていく。
そういう想いとは別に、先日に書いたブログのことを考え続けていた。3・11から6年、生と死を見つめながら今想うこと、とくに福島の経験で今も答えを探し求めていることがある。それがこの間の講義に参加してどのように見えてくるのか、そのことを考え続けていた。
第1は3・11後の1週間に南相馬市民病院が、そこのスタッフが直面した現実である。(南相馬市民病院は真摯な反被曝医療で名を馳せた。)当時南相馬市民病院にいた若い医者が、1年何か月か前に愛媛の八幡浜市民病院で講演し私も参加した。その時の話では、市民病院は津波には十分に耐えた。その後に原発事故があり原発から20kmあまりの市民病院にも放射能がやってきた。市民病院は放射能を遮蔽する対策をしたが、医薬品・食糧の備蓄は1週間~10日間ぶんほどだった。しかも市民病院より南にある病院から患者さんたちが次々と市民病院に運び込まれた。だからスタッフのことは大問題となった。ところがスタッフの家族たちは次々と避難した。事故はさらに重大化する危険(東日本壊滅といった)をはらんでいた。スタッフは家族と共に避難するのか、残って患者さんたちと運命を共にするのか。院長は個人の責任で選択せよ、どちらを選択しても誰もそれを非難することはできないし、誰かが強制するものでもないと。(職業倫理を振りかざして強要しなかった院長は立派だ。残った後は院長の指揮に従えと。)
でもここでスタッフは自分はどの命に寄り添い、どの命とつながるのかという選択を強いられた。今すぐ一緒に避難するように呼びに来た家族も多かったという。結局かなりのスタッフが残ったそうだ。しかしどちらを選択したにせよ、スタッフたちはその後それがトラウマとなって苦しんだそうである。どちらかの命に寄り添い、つながって、どちらかの命には目をつぶりそれとの関係を切っていく、そういう選択を強いるというのは残酷な状況である。原発(事故)はそういう非人間的な状況を生んでいく。どちらの選択をしたにせよ、それは「仮」のものであり、そうして寄り添いつながった命との関係を大切にしながら、切ったということもまた「仮」のものであり、どこかでつながり支えあうものとしての慮りをもって、そういう非人間的な残酷な状況を強いる原因となるものに対峙しそれを除去していくということではないだろうか。
第2は浪江の「希望の牧場」である。300頭の肉牛を飼育する牧場の責任者として働いていた吉澤さんは、爆発の直後に「決死救命団結」とペンキで大書し、すぐ上京して東電に乗り込んだ後、「牛飼い」として牛を殺処分にできないと、国の指示に抗して牛を飼育し続けた。爆発地点から12㎞ほどのところで放牧されていた牛は当然にも被曝し、完全に商品価値はなくなった。それを牛たちとともに生きてきた牛飼いの意地として、また原発事故の生き証人として、そして被曝について研究材として役立つのでは、と全国から支援・協力を得ながら買い続けている。
数年前、私が経産省前テントにいた頃よくテントにやってきて、話をした。その時彼が言ったのは、いつも牛たちの命の意味、こうして牛を飼い続けていることの意味を哲学問答することを強いられている、ということであった。かってに原発事故を引き起こし、牛たちを被曝させておいて、放射性物質扱いして殺処分して済ませる、という生き物に対する、命に対する身勝手と無責任に対する抵抗として生かし続けるというのは共通の思いであった。しかし、牛は経済的価値をもって飼育されてきた。経済的価値をもって存在意義となしてきた。その意味で生業としての牛飼いは成立しなくなった。
「本性空なるものが縁をもって存在する。」とすれば被曝していてもしていなくても牛の存在それ自身に意味はない。ただ原発事故によって牛が被曝し、その命を大切にしたいと吉澤さんたちが飼い続け、それを全国の人たちが支え、つながっていく、そういう命のつながり、支えあいもまた縁であり、大切な尊いものである。それは原発とそれに体現されるものを克服していく力でもあり、被曝が生む差別を克服していく力でもある。
第3は2013年5月に開催された福島県民集会で林業組合青年部に方が語った言葉であった。彼は言った。自分たちは山で生き、山を愛し、山の恵みによって生かされてきた。その山が今、原発事故によって巨大な放射能の貯水池になり、人々に災いをもたらす巨大な負の塊になった。自分たちはこれにどう向き合えばいいのか。なすすべもなく立ちすくみ、心に苦しみを積もらせていく。・・・と。福島は大いなる農業県であったと同時に、大いなる森林県でもあった。山々は木材、キノコ、山菜という恵みだけではなく、保水等の環境保全、さらには海への養分の提供等、大きな働きをしている。その山が放射能の巨大な貯水池になり、そこから放射能が里に流れ込み、除染を重ねてもすぐ線量が元に戻るという事態を繰り返し、阿武隈川やその河口域を汚染し続けている。山にどんな罪があったというのか!山がどのような悪因をなしたというのか!山と共に生きる人々はその悪果を自分たちの肩に背負い込む。
原発を推進し、その安全を鼓吹し続けながら、事故と原発災害に責任を負わない人びとが今もな同じことを鼓吹し続けている対極で、こんなふうに悩み苦しむ人たちがいる。でも、同じ思いでもって自然に向き合っている人々の存在を四国の山里で見て、自然と人間をめぐる大きなつながりと循環を感じさせられることとなった。