最近、欲望とは人が生き続ける為の物である、ということをふと考える。

何故ならその欲望とは、自分が意識を持って生きていること前提で抱ける、叶える事ができるモノであり、逆に言えば死んでしまえば欲望などというモノは抱きようも無いし、叶える事もできないのだから。

欲望を全て捨て去ること、即ち自死と同義であり、欲望を持ち続けること、即ち生き続けることである。

故に死にたいと考える、考え続けると言うのは、それは欲望などではなく、己の中の欲望を全て否定し、己の生を捨て去りたい、ということに他ならないと考える。

よく、欲望は悪、と捉えられがちではあるのだが、欲が無ければ人という存在は生き続ける事はできはすまい。

何で急にこんなことを書いたのかというと、人が生きている意味とは?という哲学を自身の中でよく考えること、先日「このまま俺は緩やかに朽ち果てていくのかなぁ、ならば今すぐ欲を捨てて朽ち果てても良いのかもなぁ。」とふと考えてしまい、次の瞬間「あ!!ヤバイな。このままのめり込んだら本当に死にに行ったかも知れん。」というやり取りが自分の頭の中で起きたからである。

何でそんなやり取りになったかは俺自身にも分からん。

 

非モテと呼ばれる劣勢と見なされる存在は何故生まれてくるのだろうか?

現在存在する生物は進化を遂げて現在の姿形に至るわけだが、何故繁殖に繋がる行動に不利となる要素の固体が生み出されるのだろうか?

何をどういう意図があってそのような風にしているのだろうか?

何故人間という存在は昆虫、野生動物のような優れた身体構造、身体能力を有していない、何で脆弱なんだろうか?

 

俺は人として生を受けてある意味不幸であると思う。

何故なら、俺が人間でなければこんな事を考える必要など無いのだから。

逆に、考える事ができる事は人として生を受けての幸運、なのかもしれんがね。

 

まあ、とりあえず言える事は非モテ=不幸だからモテるようになりなさい、という考えは思いっきり間違ってるということ。

恋人がいない?それがどうしたというのだ?

異性に相手にされない、嫌われる?だったら何だ?

一人が寂しい?で、何?

大切なのは非モテだからといって自分は不幸だとは思わず、むしろ異性の相手をする分の手間と金が浮き、誰にも邪魔をされずいつでもトイレに入る事ができる幸運を喜ぶべきだ。

 

欲望を持ち続け、精一杯生きて死ぬ。それこそ死を敬う事にも繋がる。

欲望を捨て、自死を選ぶ事こそ、生への冒涜、死への冒涜である。

 

書いていて気付いたが、何となく心に溜まったものを吐き出せた気がする。腹の中のモノは溜まったままだがな。ただしこっちはそのまま出したら非常にマズい事態になるので、素直にトイレに行く事にしよう。と思ったけど特に出たい、という訳でもないのでトイレにはまだ行かない。

 

おまけ

迷った時はこれらを読めばスッキリするかもしれない・・・トイレなだけに。

 

 

後、琉球にはトイレには神様(フールヌカミ)が宿っているという言い伝えがあるという。

興味があるのなら調べてみるのがいいだろう。