更新が久しぶりになってしまいました


8月の初旬に1週間ほど秋田の山奥の子供たちと一緒に遊んできました

印象としては「純粋」

日本中どこへ行っても子供は子供で根本な部分では変わりは無いのだと思う。

しかし本当に純粋無垢と言う言葉が一番しっくりくる。


都会の子供たちは表面的な部分でどこか摺れてる部分がある。

大人をどこか拒絶して、どこかで大人を軽蔑して。

それは寂しさなのか。それは悲しさなのか。それはコミュニケーションの薄れなのか。


秋田の山奥で感じたのは大自然だけではない。大人達の温かさ、そして地区としての結びつきの強さだ。

何か僕の考える理想の社会だった。といっても特別な事ではなく、僕が小さい頃の近所の関係くらいだけど。

地方で当たり前に出来てる人間関係が都会では出来なくなってきている。

一人暮らしの増加による近所との関係の希薄さ、共働き&一人っ子による家庭内での子供の孤立、完全マニュアル化していくチェーン店etc 完全に私見であり、何も根拠は無いのだが、色々な要因があるのではないだろうか?


子供は子供。

育った環境で何かが変わる。

でも環境のせいにするのはあまりにも短絡的。


子供と大人の関係、家庭から見直すことで何かが変わる。これは疑いようのないことだと思う。


家庭での人間関係を再構築し、ご近所さんとの関係を再構築し、地域の自治体を再構築。

暖かい人間関係が築ける世の中を作りたい。その第一歩はまず家庭から。身近なとこから変えてみませんか?


人と触れ合う事ってとても素晴らしい事だと思う。

確かに人間だから疲れることもあるけれど、自分をさらけ出すと何か重荷が取れるはず。



先日冒険遊び場の一つ、池袋本町プレーパークにて体験プレーリーダーをしてきた。

これだけでは明らかに説明不足の為、補足説明をば。


まずは冒険遊び場について。

冒険遊び場というのは、子供たちが「自分の責任で自由に遊ぶ」遊び場のこと。

プレーリーダーという大人はいるが、プレーリーダーはあくまでもそこにいるだけで遊びを提案したり、遊び道具を作ってあげたりはしない。あくまでも子供たちが遊ぶサポートをする役目だ。冒険遊び場の詳しい成り立ちや理念は勉強不足のためまだ分からないが(分かり次第UPします・・・)、きっと最近の遊び力の低下した子供たちの遊び力(遊びを創造したり、遊び道具を創造したり、おもちゃがなくても遊ぶ事ができる力)を高めたり、合理化の下に進んだ都市化による遊び場の縮小に伴う自然体験やたまり場を子供たちに与えようというものだと僕は思う。現在都内には多くの冒険遊び場が存在するが、僕は家から近く、募集もしていた池袋本町プレーパークでお世話になってきた。


一言で言えば10時から18時までみっちり子供たちに遊ばれてきた。通常は2人のプレーリーダーで一日を運営するらしいが、今回は体験の僕を含めて3人。最初に代表の栗林さんに言われたのは「子供が危険なことをしても、ダメと止めてはいけない」「一番いいのはプレーリーダーが何もしないで一日を終える事」ということだった。


子供たちはどのような遊びをしていたかと言うと、お絵かきをしたり、麦茶にクッキーや七味唐辛子を混ぜてプレーリーダーに飲ませたり、麦茶をプレーリーダーにかけたり、小屋の中でずっとカードゲームをしていたり、DSをしていたり、竹をのこぎりで切って水鉄砲を作ったり、高鬼したり、釘刺ししたり、水遊びしたり…とりあえず本当に自由に遊んでいた。児童館でボランティアしたときと全く違うのはまさに無規制なところ。のこぎりを使おうが、水で遊ぼうが、お菓子を食べようが構わない。僕の求めている自由に遊ぶと言うものに近いものはあった。

元来の子供好き&子供に好かれやすい(いじめられやすい)性質の為、暑い中常に子供達が離れなかったが、他世代間交流と言う意味で、僕が彼らと遊んだ事が彼らの遊び力を伸ばす起爆剤になればいいと思う。冒険遊び場という空間で一日中子供たちと触れ合っていた事は僕にとっても大きな刺激となった。


新宿区や国分寺の遊び場はもっと規模が大きいらしいので今度見学に行ってみたいと思った。


今回気になった事は、子供たちの暴言。「死ね」と言う言葉は僕を始め大人にとってはとても重い言葉である。しかし子供たちは簡単に「死ね」「殺す」という。きっと僕も小さい頃に安易に使った事があるかもしれない。子供たちにとってはとても軽い気持ちで言ったのかもしれないが、そのように言われた人の気持ちを考えるにはどうすればいいのか。そこをどのように伝えればいいのか。そこをこれから考えていきたいと思う。少なくとも僕は冗談でも「死ね」と言われれば不快であるし、言われて快く感じる人はいないだろう。とりあえず各家庭内でその重みを教える事から始めるべきではなかろうか。








積み木に関しても色々と思うところがあるが、今回は値段について。とりあえず話が広がりすぎて、収束が付かなくなってしまう危険性があるため、今回の積み木の使用者を3歳までの子供と限定して話を進めていきたいと思う。


ちなみに僕は子供に与える積み木は安くても高くてもどちらでもいいと思う。


先日おもちゃコンサルタントの講座において、青山にある玩具店granpapaの宮森さんが講師としてお話してくれた。


宮森さんが現場で働いていたときに、輸入玩具を「高いと」と言ったお父さんへの一言。

「あなたの大切なお子さんが使うおもちゃなんだから、いくらでも高いというものは無い。また高いのには理由がある(ex.良い材質を使っている、職人が手作り、限定品…etc)」

尤もらしいことを言っているが、良く咀嚼してみればこの言葉の真意は「高い物は良い」ということだ。

勿論セールストークだろうが何か釈然としなかった。


もともと僕は「輸入玩具=良い」と無条件にみなすのが良いとは思わない。

確かに安全性の問題もあるだろうが、僕は2万円くらいする輸入物の積み木も、トイざらスで売っているような2000円前後の廉価な積み木でも良いと思う。


重みが違う

ブナを使っている

木の香りがいい

色が綺麗


そのような理由で無条件で買ってしまうのは買い与える親のエゴだ。


実際に積み木を使う子供たちは輸入物のブナで手作りで重みのある積み木でも、2000円くらいの安い積み木でもそこまで気にはしないだろうし、積み木は積み木なのだ。つまり積み木の材質や重みや色合い等を「子供にいいおもちゃだ」という根拠にするのならば、それはあくまでも自己満足であるということだと思う。ただその自己満足というものも決して悪いものではない。子供と一緒に遊ぶ際に自分のモチベーションにもなるし、自分がそのおもちゃへの愛着が生まれる。また3歳以降で多くの経験を積んだ子供には今までの違いとして高級な積み木を与えるというのもいいと思う。


もしも僕が自分で遊ぶ積み木を買うのならば、勿論いい香りがしたり材質などにもこだわりたいと思う。でももしも僕が子供の為に積み木を買うのならば、ST基準などをクリアしている前提で、材質などよりも形、量などで決めたいと思う。その代わり色々な積み木(形、材質etc)を与えたいと思うし、積み木だけでなく様々なおもちゃや遊びを子供に与えたいと思う。


お金は大事

でも子供も大事


生活を圧迫するくらいまで子供にお金をかける必要は無い。お金をかけない遊びやおもちゃもいくらでもある。高級なおもちゃを買って生活が逼迫してお母さんやお父さんの心の豊かさが無くなる方が問題。余裕があるときには出来るだけ子供に使う、それくらいのスタンスが良いと思う。