長渕剛さんが、引退だとか言う。
松本人志さんも、これから裁判になるが、もう戻って来ないかも知れない。
若い頃、お二人から、多大な影響を受けていたので、少し複雑な気持ちがある。
長渕さんの歌を聞いたのは、中2の頃だった。
それまで、歌謡曲しか聞いた事が無かった自分は、彼の歌を聞いて衝撃を受けた。
裕福で無い家庭に育ちながら、それでも、現実に立ち向かおうとする姿に、自分の環境を重ね合わせた。
「STAY DREAM」を聞いて、胸を震わせた。
「SUPER STAR」を聞いて、自分にも何か出来る気がした。
彼の歌を聞いて、ギターを弾き始めた。
「昭和」や「お家へ帰ろう」、「とんぼ」を歌ううちに、反骨精神が養われた。
当時、同級生の多くは、「BOOWY」や洋楽に夢中だったが、大学に入る頃までは、長渕剛の歌ばかり聞いていた。
同時期に、松本人志さんにも多大な影響を受けた。
「四時ですよ〜だ。」に始まり、「夢で逢えたら」、そして、「ごっつええ感じ」を見て来て、最近まで、彼の事を見続けて来た。
めちゃくちゃ笑わせてもらったし、著書を読んだり、ラジオを聞いたりして、物事に対する考え方も、彼の影響を受けている。
40年間毎日のように、ずっと、彼を見てきたので、今回の事を最初に知った時、最初は大丈夫だろうと思っていたのだが、やがて画面で見なくなると、かなりのロスを感じた。
彼等の是非を言いたい訳じゃない。
彼等を擁護したい訳でもない。
長渕さんが、女優とクスリを飲んで、どうのこうのとか、松本さんが性加害をしたかどうか、別に知りたい訳じゃない。
もし、それらが真実だったとしたら、いかに昔の事であっても、謝罪をするか、法に裁かれるか、自分のやった事に責任を負うべきだと思うし、彼等もそのつもりだろう。
元々、他人が、人の人生や生き方に、どうのこうの言うのは、あまり好きじゃ無い。
今の世の中は、悪い事をしても、逆に良い事をしても、所謂、人より目立つ事をするのを、叩く傾向があるように思う。
白血病を克服して再起を図る水泳選手に、ケチをつけたり、奥さんと子供を、訳もなく少年に殺されて、今でもその事件と戦っている男性までも、誹謗中傷したりする。
一部の人だけなのだろうが、そうした声がネットやメディアを通して、顔を見せないまま、世に出るようになった。
元々、人には、そうした部分があるのだろうが、そうした事が表に出る事で、人より目立つ事をやりにくい世の中になった。
それだけ、世の中に不満を抱えていたり、生きたいように生きれていない人が、たくさん居る事の表れのように思う。
自分の人生を生きていれば、人の事など気にならないし、逆境で頑張っている人であれば、共感して、応援したくなるものと思うが、そうでは無く、叩こうとする人がたくさん居るのは、悲しい事だ。
松本人志さんは、今回の事で、法を犯していれば、裁かれるのだろうし、当人同士のやりとりや、裁判で何を話すかなどには興味が無く、文春なんて読む気に全くならない。
人の裏側をほじくり返し、なんらかのゴシップを見つけて、それを報じる。
誰も読まなくなれば、そんな雑誌は淘汰されていくのだろうが、まだまだ売れているのは、世相を表しているようで、皮肉に感じる。
少し話は逸れたが、彼等に多大な影響を受けて来た。
彼等は、自分にとって、所謂、ヒーローであり、青年期の憧れの人だった。
たまたま、大きな影響を受けた彼等が、同時期に追い詰められていて、このまま引退するのかも知れず、時代の変化を感じる。
彼等の歌や笑いに望む姿を見て、カッコいいと思った。
自分の価値観は、彼等のパフォーマンスを見て、影響を受けた事は間違いない事実であり、長渕さんの歌を聞いて、反骨、反体制的な思想を持った。
松本さんには、めちゃくちゃ笑わせてもらって来て、人を傷つけないポジティブな笑いももちろんあったが、人をいじったり、真面目にやっている人を茶化したり、人をおちょくったり、いなしたりする笑いの取り方を見続けるうちに、自分もそうした事をやってしまっていた。
ここ数年、自身の価値観が変わり始めた。
以前は、反抗心や反発心が強かったが、最近では、周りと自分を共に認めて、受け入れられるようになった。
怒りを持って戦うのでは無く、愛を持って、人や自分に足す事が出来るようになった。
今も、政治家に対する批判や否定が当たり前のようにあるが、その根源は怒りであり、以前は、自分も怒っていたが、結局、怒りは何も生み出さないと思うようになった。
反骨精神や反発心は根強くあったが、ここ数年で無くなった。
笑いに関しても、以前は、笑いさえ起きれば、多少の事はかまわないと思っていたが、それが、自分を傷つけ、人をも傷つけて来た事に気がつくと、それをやめるようになった。
自分が、嬉しさや喜び、思いやりや感謝、愛と平和の世界にいる事を、日々実感していると、そこには、イジリやおちょくり、茶化しや軽い裏切りなどによる笑いは、もう要らない事に気がついた。
自分の価値観の変化を感じ、奇しくも、それと同じタイミングで、多大な影響を受けて来た二人の方が、同時期に消えようとしていて、偶然とは思えないところがある。
最近、自分が子供の頃から青年期に掛けて、無価値感を抱えていた事に気が付いた。
反骨精神や笑いに魅力を感じて、それらを取り入れるようになった。
社会人になると、営業で数字を上げる事を評価されるようになり、そこに自分の価値を見出して来た。
根底にあった無価値感を克服する為に、気が付けば、寝る間を惜しんで、家庭も全く顧みず、がむしゃらに働いていた。
最近、自分の魂や体が、エネルギー体であると気付いた。
そのエネルギーを持って、人に共感し、人の役に立ち、人を喜ばせる。
日々、いろんな人と関わり、人を元気づけたり、笑顔にさせる。
自分がポジティブに居れば、そうした事を自然とやっていて、それは自分の喜びになり、エネルギーは輝きを増す。
いつからか、そうした自分に価値を感じられるようになった。
まだ小学校低学年の頃には、何が無くても、自分自身の存在に、当たり前のように価値を感じていた事を思い出した。
いつの間にか、無価値感が根付いていて、笑いや反骨精神、点数や営業成績などに価値を見い出そうとして、それらを求めて生きて来た。
低俗な笑いや怒りの精神性から離れると共に、会社の仕事や評価にも、数年前から価値を全く感じ無くなった。
全く同じタイミングで、これまでの自分が求めて来た価値は全て崩壊し、意味を持たなくなってしまった。
コロナ禍に入る頃、顧客と会えない時期にも、なんとかアプローチ出来る術を見出して来た。
けれど、その頃から既に、実は、会社の利益を上げる為の仕事に、価値を感じなくなっていた。
価値を感じなくなっても、お金を稼ぐ為に、それなりにやって来たが、もう限界なんだろう
考えでみれば、そんなだから、新製品の実績は上がらなくなり、ここ二年くらいは、誤魔化しながらなんとかやって来た。
価値を無くした仕事は、もうどうでもよくなり、いよいよ誤魔化しは効かなくなり、手につかなくなって来た。
自分を構成して来た、全ての価値は崩壊した。
これを、恐怖と捉えるか、チャンスと捉えるか、と自分に問うてみると、
「まぁ、なるようにしかならないよ。けれど、無価値感から、なんとか価値を見出して来て、よく頑張って来た。それらの価値が無価値になったけれど、その間に学んだ事は多くあるだろう。全ての価値が、同じタイミングで崩壊したのは、なんらかの意味があるんだよ。新たな価値を見つける為に、少し休んでもいいよ。また歩き出せばいいさ。」
と心の声が聞こえた。
今朝、寒い中、ウォーキングをして、神社参りをした際、そうした状況にいる自分を、俯瞰で見てみた。
今年53歳になる、バツ2独身男が、ギャンブルをやめてから10年以上、自分と向き合って来て、子供達への仕送りを続けながら、孤独を克服し、様々な執着や怒りを手放し、人付き合いもやめる中、ついに全ての価値観まで崩壊した 笑笑
もう、いつ仕事を辞めてもおかしくない自分がいるのに、この期に及んでも、未だ、やりたい事が分からない 笑
主人公は最大のピンチだ 笑笑
まともに考えると、煮詰まりそうになるが、そんな風に見てみると、可笑しくなって来る 笑
全ての価値が崩壊し、次に訪れるのものは何か?
次の展開を楽しみにしよう♪