調子良く喋っていても、誰かの一言で、ふと落ちる時がある。




朝から調子いいなーと思っていても、仕事で出来ていなかった事の連絡などがあると、ふと落ちる。




周りから軽く見られている、尊重されていない、と感じると、やはり、落ちてしまう。





毎日の売り上げがいい時には上がるが、悪い日が

続くと、落ちる。





「真に受けない。気にしない。相手にしない。大丈夫 大丈夫♪」





と整える事は出来るようになったが、ある方のブログを読んでいて、自分の中に、





「無価値感」





があった事に気が付いた。





以前、自分の中に、自己否定や自己嫌悪がある事に気付き、それらを解放すると、自己肯定感が高まり、最近ではダメな自分も受容しようとして来た。




ただ、売り上げが悪い日や、嫌な一言で、すぐに落ちるような感覚があった。





その度に、自分の調子を上げて来たが、一日の中でも、上がったり下がったりしてしまっていた。





下がる時にはしんどくて、胸の辺りが少し苦しくなり、呼吸も浅くなり、酸欠のような状態になってしまう。





以前よりは、調子良い時が多くなり、ポジティブに、楽に過ごせるようになったものの、そうした事があるのは何故だろう?と思っていた。






今日、「無価値感」と言う言葉を見聞きして、ハッとした。





数字が悪い、周りから軽く見られる、など、そうした時に、自分の無価値感を感じていた事がわかった。





無価値感についての動画を見ると、自分が何故、そうした感覚を持って居るのかが、理解出来た。





子供の頃、親父はいつも呑んだくれていて、母親はいつも、親父を怒らせないようにと、気を遣ってばかり居た。





親父が7時頃に寝だすと、声も出さないように言われていた。



 


そんな状況の母親を、自分が少しでも喜ばせたいと、母親が喜ぶ勉強ばかりしていた。





高い点数を取った時や、中学受験に受かった時、母親は飛び上がって喜んでくれた。





勉強以外は、怒られてばかりで、望む遊びもさせてもらえず、不満を抱えながらも、母親を悲しませない為に、自分を偽って生きていた。





中学に入ると、周りは皆頭が良くて、点数が取れないようになり、母親を喜ばせる事が出来なくなった。




勉強以外は、何も出来なかった自分は、自信を失ってしまい、更に、周りからイジメを受けた。





以前のブログに、少年期から青年期に絶望感を感じていたと書いたが、それは、自分の無価値感に絶望を感じていた事が分かった。





その無価値感を解消しようとして、18歳の頃から、面白い自分を演出するようになったり、努力はしていたが、何処に居ても、根底の無価値感は無くならなかった。





仲良くなる友人が居ても、無価値感から、いつか離れられると危惧してしまい、完全に気を許して、信頼する事は出来なかった。





社会人になっても、そうした感覚は無くならなかったが、その無価値感に触れようとする人が居ると、立ち向かい、喧嘩をするようになった。





30歳を過ぎる頃には、少し落ち着いてはいたが、やはり、周りに対する劣等感があり、その根底には、常に無価値感が付き纏っていた。





この頃、仕事で成果を出すと、周りの人に評価される事が嬉しくて、そのうちに、がむしゃらに働くようになった。





数字をあげて、評価される事で、無価値感を解消しようとしていたのだろう。





仕事には、無価値感を解消出来る可能性があると

信じ込んでいて、そこから二度目の離婚をするまでは、家庭よりも仕事の方が大事だと、本気で思っていた。




ギャンブルをやめ始めて、二度目の離婚をしてからも、まだまだ自分に鞭を打って働こうとしていて、ふと、自分が可哀想に思えた。





この時の事を、初めて自己愛に目覚めたと書いている。




がむしゃらに働いている事に、疑問を感じ始めた。




家庭を顧みないくらい、がむしゃらに働いて、それが、自身の無価値感を埋めようとしていたとは、全く分からなかった。





それ以降、自己愛を高めるよう意識をして来て、自己否定や自己嫌悪を解放したり、自己受容も高めて来たが、冒頭に書いたように、たまに落ちてしまっていたのは、まだ根底に無価値感があったからだと分かった。





数字を出して周りから評価される事で、無価値感を克服しようとしていたのは、仕事のスキルアップに繋がったとは思うが、その為に、家庭を二度も失った。





幼い頃に感じた無価値感は、長い間、何かをしないと、何か成果をあげないと、自分には価値が無いと思わせていた。






最近、自身の愛を高め、周りから愛されている事を実感するようになったが、これまでは、いくら愛されていても、「無価値な自分は愛されない。」と愛を受け入れられなかったのだろう。






これも、脳のフッキングであり、根底に向けてフッキングしていた無価値感により、長きに渡り、絶望を感じていた。






この十年、様々な事に取り組む中で、自身の成長を実感して来て、最近では、魂の存在を、在るだけで価値があると思えるようになった。






最近の気付きにより、人が何を言ったか、何をしたかなどの表面的な事では無く、人=魂の価値を見るようになると、表面的な事はどうでもいいと思うようになった。






人の価値は、周りの人や外的要因、ましてや仕事の成果や資産などによって決められるものなどでは、断じて無い。






長い間、自身が知らず知らず、無価値感に苦しんで来たと思うと、抱きしめてあげたくなった。





年明け、実は両親から愛されていた事に気付いた事についてブログを書いてから、気付きが止まらなかったのは、長い間、抱えていた無価値感を手放そうとしていたのだろう。






どんな人であれ、無価値な人はいない。






例え浮浪者であろうと、犯罪者であろうとも、魂には価値があり、それを否定するのは、魂への冒涜だろう。






今日も気付きに恵まれた。






お導きに感謝したい。