先週はよく飲んだ 笑
飲み会は楽しいが、最近少し気になる事がある。
それは笑いについてだ。
普段、愚痴や悪口を、なるべく言わないようにしている。
多少嫌な事があっても、すぐに忘れたり、まぁ、仕方がないだろうと解釈をしたりすると、気に留めなくなり、言う必要が無くなる。
ただ、ネガティヴな人と酒を飲んだりすると、愚痴や悪口を誘われる時がある。
周りの人や会社について、何も思わなくなった訳ではないので、誘われると、
「確かにそうですよね。ただ、人は悪く無いので…」
とか、
「確かに嫌な事ありますよね。それでも、お互い、真面目やから、ついつい仕事やっちゃうでしょ?それでいいんじゃ無いですかー。」
などと返すようにしている。
以前は、愚痴や悪口、ネガティヴが強い人に対して、距離を取るようにして、付き合わないようにしていた 笑
ただ、みんな、どこかにそうした部分があり、それをあまりに嫌うと、人付き合いが出来なくなってしまう。
もちろん、自分にもネガティヴはある。
人のネガティヴを否定する事は、自分を否定する事にもなる。
いつからか、完璧主義をやめた。
自分の非を容認すると、人の非も否定しないようになった。
所謂、「ミラー効果」は、本当にあるように思う。
人を嫌いになる時、その原因を、その人では無く、自身の中に原因が無いか探ってみる。
例えば、容姿や性格をいじられたり、否定された時、嫌な感情を抱いたとする。
そうした時に、その相手を嫌いになり、責めたくなるが、自分の中に原因を探ってみると、それを密かにコンプレックに感じていたりする。
つまりは、自分が自分の容姿や性格を容認していないから、腹が立つ。
例えば、ネガティヴな事ばかりを言う人に嫌な感情を抱いたとする。
感情の裏側を探ると、ネガティヴを無理に排除しようとする自分が居たりする。
自分にもネガティヴがあってもいいと思えば、人のネガティヴさも、ある程度までは容認出来る。
朝一、起きた時は、何故か大概ネガティヴな思考になっていて 笑、嫌な気持ちになる。
ウォーキングをしたり、マインドセットをして、ポジティブに変換するのだが、ネガティヴを否定する気持ちが自分の中にあるから、ネガティヴを感じると嫌な気分になる事が分かった。
自分や人に、ダメなところや嫌なところ、ネガティヴがあっても、それを否定はせずに、「まぁ、ええやん。そんな事もあるやろ。」くらいに考えると、嫌な気持ちを抱かずに済む。
以前はよく、
「彼は、〇〇だからダメだ。」
とか、
「彼はいい所があるけれど、〇〇な部分があるからなー」
みたいに言っていたが、同時に自分に対しても、同じ事をしていたのだろう。
いつからか、
「I'm ok. You'er ok. everybody’s ok.」
の精神を持つようになった。
更に、
「That's was that.」
あの時はあの時と割り切れるようになると、人や自分を、ダメだとかこう言う人と決めつけたりしなくなった。
最近、そうした精神で望んでいると、起きた事を引きずらなくなった。
そんな風にしていると、ダメなところがあったとしても、「それはそれやし」、「まぁ、よかよか」と、人も自分も容認出来るようになり、許せるようになった 笑
ただ、笑いについては、ちと思うところがある。
結論から言うと、
「笑い1stをやめる。」
と言う事だ 笑
関西人である自分は、酒を飲むとついつい、人をいじったり、揶揄したりしたくなってしまう。
以前は、自虐的な笑いをとる事が多かったが、それをやめた。
自虐は、誰も傷つけていないからいいと思っていたが、実は自分が傷ついていた 笑
更に、そうしたスタイルでいると、人からも無碍にいじられるようになる。
あまりにプライドが高くて、全く隙が無いのもどうかとは思うが、自ら、ツッこまれる隙を作るのも、望んでいないイジリを呼び込んでしまう。
ネタはいくつかあるが、何度も飲んでいると、尽きてしまう。
ので、ついつい、人をイジったり、揶揄して、笑いを取ってしまう。
人をイジったり、揶揄して、笑いは取れるのだが、それは人を、意識してかせずかは別として、見下している事に気付き、それは良くはないと思うようになった。
関西人には、人をイジったり、揶揄しても、それ以上に、笑いが起きればいいと言うおかしな文化があるが、すでに、今の時代にはそぐわなくなっているように感じる。
相手がコンプレックスに思っている事であれば、普通の事を聞いても、ハラスメントになってしまう時代になった。
ずっとダウンタウンのファンであり、松ちゃんは自分の人生に多大な影響を与えて来た。
以前のブログに書いたように、今でも、彼を支持している。
テレビで見なくなってから、ロスも強くある。
と同時に、ダウンタウンの笑いについて、思うところがある。
人をイジったり、人の嫌なところを攻めて笑いにしたり、暴力的な笑いもある。
ずっと見て来て、確かに腹を抱えて笑わせてもらったし、多大な影響も受けた。
時代が変わる中で、ダウンタウンだけは無茶をしても大丈夫なんだろうと思っていて、いつまでもテレビに出続けて欲しいと思っていた。
ただ、一度テレビで見なくなると、少し複雑な思いがある。
イジリや暴力的な笑い、中には差別による笑いで、沢山笑わせてもらって来たが、そうした精神性が、やはり、時代にはそぐわなくなってしまったように思う。
松ちゃんがボケまくっていた時代は、ホンマに面白かったが、いつからかボケが弱くなっていった。
ボケが弱くなってからは、イジリやスカしながらの笑いになっていて、それでも見ていたかった気持ちはあるのだが、一度、画面から居なくなると、なんだか、一気に今の時代とのギャップを感じてしまった。
テレビの中の一つのコンテンツ、創作の世界だと思えばいいのだが、漫才やコントのように、元々あり得ない設定と認識する笑いと違い、フリートークの中でのイジリやハラスメント的な笑いは、見ている人の日常に与える影響が大きいように思う。
戻って来て欲しい気持ちはあるが、自分のように見る目線が変わった、ダウンタウンのマジックが解けた人が多くいるのなら、復活したとしても、見る目が変わってしまっていて、難しいように感じている。
テレビに出続けているので、皆が、ダウンタウンは大丈夫と認識していたが、もう既に、ダウンタウンの時代は終わっていたのかも知れない。
今の自分が望むものは、喜びや嬉しさ、思いやりや感謝、愛と平和の世界であり、実は、そこに笑いも入れていて、未練を捨てきれずに居たのだが、それをやめようと思う。
以前、松ちゃんが映画でうまくいかなかった時に、その理由を考えた事があるが、テーマとしての「笑い」は、精神性やコンテンツとしての格の低さが否めず、それをメインのテーマとして映画にしてしまうと、粗末、貧相になってしまったからなのだろうと考えた。
笑い1st、笑い目線でいると、人の瑕疵やダメなところなどを見て、思わず突っ込んだり、笑ってしまう所があり、それも以前は良かったが、人の粗を探すのと同じであり、精神性の低さは否めないだろう。
とんでもない下ネタの類も、自分の格を下げてしまうので、もう要らないだろう 笑
と言う事で、笑いに対する執着も捨てる事にした。
歳をとると、昔の事にこだわりがあり、それにしがみつくと、それは固執となり、やがて、老害になってしまう 笑
若い人に合わせるのは、なんだか情けないような、悔しいような所もあるが、それは、若い人を知らず知らず、下に見ているからなんだろう。
今や、年齢、性別、人種などは、不問の時代になり、そうした感覚も捨てないと、これからの社会で生きていくのは難しくなる。
冒頭で書いた事と合わせると、自分と違う感覚を、嫌だダメだと判断せず、全てを認め、尊重し、受容した方がいいのだろう。
それには、自分と他人を分けてみるのでは無く、俯瞰で全てを見て、互いを尊重し、受け入れるような感覚が必要だろう。
それこそ、
「エゴを捨てる。」
事だと理解した。
エゴを無くす事で、他者を受けれる事が出来れば、より自己受容も高まるのだろう。
書いていて分かったが、全てを受け入れる事が、究極の「愛」であり、自分はそれを求めているのだろう。
「エゴを無くしたい」と半年くらい前に、ブログに書いていて、既に忘れていたが 笑、脳はフッキングした事をクリアしようとしているのだろう。
老害にならない為にも 笑、自分と他人を区別しない為にも、エゴは捨てた方がいいのだろう。
なんだか急に、究極の「愛」が魅力的に思えて来た 笑
そろそろゴールが近づいている♪
そんな気がした。