年明け初日は、朝7時に得意先訪問から始まった。





金曜日、新年会に参加して、今週が終わった。





色んな人に会い、新年の挨拶を交わしながら、仕事を進めた。






要らぬ思考をせずに、アハハー♪と笑いながら、過ごしていて、気分良く過ごす事が出来ていたのだが、年末からパートナー会社の人を全く見なくなり、ずっと気になっていて、金曜日に連絡をした際に、ドッカーンとキレてしまった 笑笑






言葉を荒らしたり、詰めたりはしていないが、言いたいことを全て伝えた。






・仕事をやって欲しい

・真面目に取り組んで欲しい

・決めた事をやって欲しい

・メール返信で、アザース!とかはやめて欲しい

・嘘をついたり誤魔化したりしないで欲しい

・プロとして振る舞って欲しい

・パートナーとしてちゃんと向き合って欲しい






出てくる言い訳や甘さを全て否定し、安易に謝って済ませようとするのを簡単には許さず、ただ、詰め切らないように話をした。






営業も出来ない上に、やる気も無いので、論外であり、本当はパートナーを外れて欲しい。






「僕はokkey@さんの事が好きなので、本当に申し訳ありません!」






とか言うので、






「好きとか嫌いとか関係無く、プロとして、ちゃんと仕事をして欲しい。例え嫌いであっても、売り上げを互いに上げていれば、問題ないよ。とにかくちゃんとやってください。」






正直、もう、呆れ果てて居て、気持ちの中では彼を見切っていた。






そんな事があったが、言いたい事を全て伝えたので、スッキリとした。






あとは、彼が変わってくれればいいが、それは期待しない方がいいのだろう。





いつからか、人を見切るようになった。






人のネガティヴにも、同意をしなくなり、付き合わなくなった。






ある程度は、






「こうしたらいいよ。」






「こう考えてみたら?」






とアドバイスはするが、ネガティヴな人は、ネガティヴに生きようとしていて、なかなか変わらない。






そもそも、自分や周りの人や物事を、ネガティヴに捉えるのは、甘えのように思う。






言い訳や愚痴を言い、しなくて良い、理由を作る。





周りのせいで、自分が輝けないと言う。






何もやらない理由を作り出し、自分が輝けなくても仕方がないと考える事は、自分に対して最大の失礼をしているように思う。






同時に、自己肯定感を下げ、周りを嫌う事で、自己嫌悪も強めてしまう。






若い人や、何とかしようともがいている人であれば、まだ救いようがあるが、それが同年代だったり、開き直っていたり、完全に諦観していたりすると、もうどうしようもない。






先のパートナー会社の人は、開き直り、諦観しているところに、自分に檄を飛ばされ、面食らっていたが、50歳を過ぎてまで、そうした甘さの中で生きて来た彼は、そうそう変われないように思う。






若いうちに周りから指摘されても、自分と向き合う事無く逃げ続けて来たのだろう。





今日は、中学時代の友人から、10年以上ぶりに、飲み会のお誘いがあったが、断った。






友人の何人かは、数年前まで連絡を取っていたが、変わらない様に、幼稚さを感じて、連絡を取らなくなった。






10数年会わない間、彼らも、自分と向き合って来なかったのだろう。






自分とちゃんと向き合いはじめると、それまでの自分の生き方や在り方を、一度全て壊さなくてはならない。






自分を守って来たつまらないプライドを捨てて、嘘や言い訳を自分に許さなくなり、過去に犯した罪や、放置して来た事など、様々な問題と向き合わなければならず、その時期は、生皮を剥がされているような苦しみを感じる。






そこから、一つ一つの問題と向き合って、課題をクリアしていく。





11年前、ギャンブル依存の生活から脱却しようと、死ぬ思いで自分と向き合う事を続けてきた。






おかげで、今の自分を受け入れられるようになったが、人の嘘や言い訳、幼稚さや傲慢さを、すぐに見抜くようになった。






過去の人と会っても、おそらく変わっていない事を考えると、わざわざ出かけて会いに行き、嫌な思いをする、させる必要は無いだろう。





自分が変わっていけば、自分の世界が変わる。






これまでの経験から、周りはあまり変わらず、たまに変わらない中に身を置いていると、違和感を感じるようになった。






縁を大事にしないといけないと思いながらも、違和感を感じる中に身を置く事をしたくなく、やろうとしても出来なくなってしまった。






昨年、10年ぶりに元会社の大先輩二人とお会いした際にも、ある程度我慢をしたが、最後は、本音をぶちまけてしまった。






「人のやる事に、何をごちゃごちゃ言いよん?俺がどう生きようが、勝手やろ?違うんか?」






新たにお会いする人達は、最初から今の自分として、理解してくれるようだが、過去の人達は、okkey@の変化を受け入れたくないのだろう。






そうして、久しぶりに現れる人とお会いするのは、なんらかの意味があり、縁に導かれているように思うが、自分が会いたいか、会いたくないかで考えればいいのだろう。





過去にも、目の前の事にも執着をしなくなれば、やがて現実は変わっていくのだろう。






書いていて気付いたが、もしかしたら縁の正体は執着であり、執着が引き寄せているだけなのかも知れない。





友人が幼稚なままであっても、目の前のパートナー会社の人が言い訳ばかりをして変わらなくても、自分のこれからには全く関係がない。






彼らも変わっていけば、この先に再び繋がる事もあると考えると、見切る事で、縁を無碍にしている事にはならないと気付いた。






以前、導かれるように、昔の知り合いとお会いする事が多く、それをご縁と思っていたが、それは、自身の思考が引き寄せていたのだろう。






最近は、嫌な予感を感じられるようになり、その予感は、当たっている事が多い。






執着をせず、自身が良いと予感する人に会っていけばいいのだろう。






いつまでも、留まっている人に構っている暇はない 笑





今日は、筋トレと掃除、洗濯をしながら、そんな事を考えた。






迷わず過去を捨てて、先へ進もう。