9連休も今日と明日になった。





三が日、掃除を終えてから、予定を全く入れずに、ほぼほぼウォーキングをして過ごした。





昨日は、朝4時過ぎに起きて、海沿いにある神社まで歩いて行った。





片道11.4kmの道を、ひたすら歩く。





車を手放してから、なかなか行けなかったが、年末から気になっていて、ようやくお参りする事が出来た。













神社まで歩きながら、一つずつ、執着を手放した。




年明け、三が日を掃除して過ごしてから、大学生の子供、今年15歳、13歳になる子供の事や、彼らへの仕送りの事、彼らの母親、元嫁さんの事、これまで付き合いがあった人達の事が、頭に浮かんで来る。





日々、仕事をしていると、新たな人との出会いや周りの人達と、都度向き合いながら、そうした事を考えないが、一人で何日も居ると、どうしても過去の事に思考が捉われてしまう。





ここ数年、昔からの人付き合いをやめて来た。



 


再び出会った人達とも、既に合わなくなっていて、付き合いが無くなった。





それと合わせて、遊びをやらなくなると、全くやる事が無くなった 笑





欲を抑えている訳では無くて、俗的な物、人に、興味を持てなくなった。





俗世を生きていて、俗なるものに興味が無くなると、何もやる事が無い 笑





ただ、昨年末に感じたような、虚無感は無くなった。


 


虚無感を感じていたのは、まだまだ、俗な付き合いや俗なる物や過去に、未練があったからなのだろう。





海沿いの神社まで、二時間半を掛けて歩きながら、再び子供達や元嫁さんや過去に対する執着を手放し、自身が今年、何をしたいのかと、自問自答してみたが、それすらも執着である事に気付き、神社に着く頃には、それも手放す事が出来た。





神々しい景色を見て、感動しながらお参りをしていると、





「全ては導かれているから、大丈夫だよ。」

    




と、心の声が聞こえた気がした。





理屈で生きない。





理屈で生きていると、理に合う事を求めてしまい、理に合わないと、理不尽さを感じる。      




理=ことわりは、思考によってもたらされる。





理を越えて生きるなら、思考=執着を捨てなくては成し得ない。


  



理を越えて生きる=感じるままに生きる。


       



そこには、善悪や良し悪し、損得や矛盾などの判断も要らないのだろう。



  


好きか嫌いか、自分か他人かの判断すら、どうでもいいのだろう。




 

全ての判断、ジャッジをせずに、感じたままに生きよう。





昨年後半、真夏に自転車で走り回っていた頃から、それを実践出来ていたのに、休みに入ってから、暇に任せて思考してしまい、年明けは、少し悶々としてしまっていた 笑


  


 

悶々とするのを嫌い、ギャンブルでもやって時間を埋めるか?と衝動があったが、やらなくてよかった 笑





今年は、三が日の大掃除に始まり 笑、4日、5日あたりは悶々とさせられ 笑、どうなるのか?と思っていたが、ようやく心が軽くなった♪





夜中に目が覚めて、ブログを書き始めて、再び眠りに就いて、先程目が覚めた👀



 


連休に入って、既に100kmくらいは歩いているので、今日はウォーキングをやめよう。

    




心が軽くなると、久しぶりに街に行ってみたくなった♪




彷徨うなら、過去の記憶を彷徨うのでは無く、新たな事に期待をして彷徨った方がいい 笑





きっとそう言う事なんだろう♪     





良い一日にしよう♪





最後に龍雲を♪