見事な秋晴れだ。






新たな気付きがあった。





先に、本気で生きることの大切さに気付いた。






ある方の、死生観についてのyou tubeを見た。






死を意識して、そこから遡って今を生きると考えると、1日、1分たりとも無駄に出来ず、やりたく無い事のために生きるのでは無く、やりたい事を全力で楽しむ人生を生ききる、という話だった。






死生観については、数年前から、メッセージを受け取っていたのだが、なんとなく避けて来て、ようやく、それを受け入れる事が出来た。






死を意識していないから、なんとなく日々を生きてしまう。






「まぁ、明日やればええか。」






「ま、そのうちにね。」






「ま、いつか会えればいいかな。」






もしかしたら、明日が来ないかも知れず、そのうちも、いつかも、無いのかも知れないと思うと、焦る気持ちになる。






子供達にも、もう会えないのかも知れない。






大切なあの人にも、もう会えないのかも知れない。





自分がやりたい事も叶わず、それどころか、やりたい事もわからないまま、死ぬのかも知れない。






これまでの人生で、やりたいと思った事のうち、いくつ、叶えて来ただろうか?






格闘技をならいたい、プロレスラーになりたい、歌手になりたい、お笑いをやりたい、本を執筆したい、などなど、その時々でやりたい事を、ことごとくやらない人生を歩んで来た。






なぜやらなかったのか?と考えると、その時々で、様々な言い訳をして来たのだが、自分の人生を、本気で生きる事をして来なかったと言う事なんだろう。






本気で生きる事について、何が必要かと考えていると、言い訳をしないとか、やりたくない事をやらないとか、色々と対処的な事を思いつくが、最終的には、






「完全自分軸で生きる。」






と言う事に、辿り着いた。






たまたま、今、以前から好きだった女性と、不思議なご縁から再び繋がり始める中、彼女の真意はどうなんだろうか?と思う事があった。






自分が彼女をずっと愛していた事に気付き、それを彼女に伝えた後、彼女の反応に、一喜一憂しようとする自分が居て、それを良くないと感じた。






相手の反応によって、自分の愛が無くなる訳では無く、5年近くも音信を絶っていたから、彼女がどんな状況なのかも分からず、彼女の真意も分からないが、どんな状況であっても、彼女の真意はどうであっても、自分が、愛し抜けばいい事が分かった。






何があっても、愛し、守り抜く。






完全自分軸になると、状況や理屈は関係ない。






たまたま、先週末、仕事を終えて帰路についている時に、珍しく元嫁さんから連絡が入った。






LINEに送られて来た、娘と思われる膝に、あざが出来ている写真を見て、何事かと思いながら電話に出た。






「今、少しいいかな?前から、〇〇ちゃんに、覚えのない、あざがよく出来ていて、今日も担任の先生から、膝下のあざがあると連絡があったんやけど、、白血病やないかと思って!? どうしたらいい!? この子になんかあったらと思ったら、、」






みたいな連絡だった。







かなり動揺している様子であり、彼女に、絶対大丈夫だ、信じてあげなさいと伝え、おそらく、ダイエットによる栄養不足で貧血を起こしているだけだから、と話した。







来週月曜日に、血液検査の結果が分かる。







絶対に大丈夫だと、自分に言い聞かせているが、一抹の不安があり、少し落ち着かない。







だが、これも、状況に左右されようとしているのは良くないと考え、例えどうであっても、娘を守り抜くと考える事にした。







たまたま、そんな事があり、







「彼女の真意はどうなんだろう?」






「娘は本当に大丈夫なんだろうか?」






と考えるのは、他人軸や状況による思考であり、自分軸で考える事の大切さに気付かされた。






死生観も併せて考えると、結果はどうあれ、自分が死ぬ瞬間まで、本気で、迷う事無く、愛し、守り抜く覚悟が大切なんだろう。






やりたい事についても同様であり、完全自分軸で考えると、状況がどうのとか、出来るかどうかとかは、全く考える必要が無い。







考えている間に、確実に、死が迫っている。







死ぬ瞬間を迎える時まで、それこそ、死にものぐるいになって、何があっても、大切な人を愛し抜き、全力でやりたい事をやる。







死生観を受け入れると、そうした覚悟が芽生え始めた。





そうした事があり、完全自分軸で、今やりたい事を考えると、いくつか、やりたい事が明確になって来た。






それはすでに、日常生活の中で、自分が得意としている事や、好きで続けている事であり、それを形にしていくと決めた。






いまさら、プロレスラーにはなれないが 笑、今やりたい事であれば、自分の夢を叶える事が出来る。






自分が何をやりたいのか?と考えて来て、自分と対話を続けて来たが、これまでは、他人軸や他人目線で、それを考えてしまっていた。






例えば、愛する人を守りたい気持ちがあっても、相手が求めているかどうかと考えるのは、他人軸になる。






やりたい事の一つに、執筆があるが、自分が書く事にニーズがあるのか?と考えるのは、他人軸になる。






シンプルに、






「自分がやりたい事。」






を考えれば良いのだが、やはり、そこには自信が必要なように感じる。






自分の想いや思考、精神や人格、品格、それこそ、魂レベルで自分に自信を持てないと、ただのエゴになってしまうように思う。






この10年、様々な事に取り組んで来て、既に、自分の中には、理屈無く自分を信じ抜く、自信がある。






状況や理屈に左右されず、自分の本気の想いを持って、自分の人生を生き抜く。







それだけでいい事に気付くと、人生がシンプルになったように感じた。





今朝、ウォーキングをしながら、そうした事を考えていると、自分がやりたい事の他に、自分がずっと望んでいる事に、ふと気が付いた。






それは、恥ずかしながらも公言すると、






「ただ抱きしめられたい。」






と言う想いだ 笑






以前、子供の頃から、望む事が叶えられずに、拗ねてしまっていた事について書いたが、それが、「抱きしめられたかった」と言う想いであった事が分かった。






拗ねる前の時期に、病気で長期に渡り学校を休んでいた自分を、女の先生が、突然、抱きしめてくれた事を思い出した。






とても暖かく、気持ちが包まれるような感覚であったが、それ以降、そんな感覚を感じた事は無く、自分はずっと、それを望んでいた。






そんな想いに気付くと、長年、望みも叶えられずに、苦しい年月を過ごして来た事に、よくやって来たと自分を褒めてやりたくなった。






ようやく、素直な頃の自分が顔を見せてくれたと思うと、嬉しくなる。






以前から、周りに甘えるのが苦手だと思っていたのだが、幼少期に甘えられなかった事から、拗ねてしまい、欲しくても、欲しくないフリをしていただけなんだろう 笑笑






自分の事を、まるで子供みたいだと、可笑しくなった 笑






と同時に、これまで本気になれなかったのは、そうして拗ねて、諦めてしまっていた事に、気が付いた 笑笑






ようやく、これまで諦めるしか無かった思考が、変わり始めた。






望みを諦める思考から、叶える思考へ。






途端に人生が楽しくなって来た 笑






そんな事を考えていると、衝撃的な映像が目に飛び込んで来た 笑笑







還暦の方が、好きなデーモン閣下に扮している 笑笑





これこそ正に、完全自分軸だろう 笑






完全自分軸で、自分の人生を、生きて生きて生き尽くす🔥






きっとそう言う事なんだろう♪