連休明けの今週は、バタバタと仕事をこなした。
ある約束がある為、全ては書けないが、色々と変化があった。
前回のブログで、自身がエネルギーを持つ事について書いた。
強い想いや強い感情は、情熱となり、エネルギーとなる。
怒りや悲しみなどもエネルギーになり得るが、ベクトルを誤れば、負のエネルギーになってしまう。
愛情や欲望などは強いエネルギーだが、ちょっとした配慮や気遣いなども、強くは無いが、正のエネルギーなんだろう。
普段、人を気遣ったり、気遣われたりしている時に、嬉しく思うのは、エネルギーを交流させているからなんだろう。
人に何かをしてあげる時に、感謝されると嬉しくなる。
感謝されなくても、何か気遣いをするだけで、良い気分になれるが、感謝されると喜びが倍増する。
「ありがとう。」
と言われるだけで、嬉しくなる。
一時、見返りを求める事について考えていた時は、感謝の気持ちを求めるのも見返りだと書いたが、感謝の気持ちが無い人に気遣いをしていると、エネルギーが一方通行になり、エネルギーが交流されず、求めてはいないが、その交流があるとないのとでは、違いがある。
あれば、返してもらったエネルギーを嬉しく感じて、自身のエネルギーをより大きくする事が出来、また何かしてあげたくなる。
そうした、良いエネルギー循環の中に居ると、とても心地が良くなるが、ない場合は、相手を悪く思う事なくても、エネルギーは一方通行になり、エネルギーは循環する事無く、補給しなければ、いずれ枯渇してしまう。
ビジネスになると、エネルギーを形やサービスにして、対価として、お金というエネルギーをもらう事になる。
お金は、物々交換の為のツールだと思っていたが、ただ単に、肉や魚などの食物、様々なモノやサービスに替るだけでは無いと気が付いた。
愛や情熱や欲望などのエネルギーを、モノやサービスに替える事で、お金に替わると考えれば、モノやサービスがあるから、お金が生み出されるのでは無くて、元々の愛や情熱などのエネルギーが、モノやサービスを介して、お金に替わったと考えられる。
情熱や愛の無い、モノやサービスも世の中には有るが、大したエネルギーを持たないのだろう。
肉や魚などは、元々、動物や魚の命自体がエネルギーであり、それがお金に替わる。
そんなふうに考えると、世の中は、様々なエネルギーの交流や循環で出来ている事が分かる。
多くのエネルギーを産生する人もいれば、エネルギーを備蓄する人、エネルギーをただもらい、放出するだけの人も居る。
エネルギーを引き継いだりして、元々、持っている人もいるが、その人自体がエネルギーを循環させないと、やがてエネルギーは枯渇してしまう。
エネルギーとは、サービスやモノ、お金を介して流れているが、所謂、熱量であり、普段、自分達は、サービスやモノ、お金に触れて生きていても、そのエネルギーの流れを、あまり意識する事は無い。
エネルギーは、分子同士のぶつかり合いで発生する。
エネルギーを持つと、それに引き寄せられ、熱量はさらに増えていく。
お金は、そのエネルギーを介するだけのモノなのに、多くの人は、大元のエネルギーを産生する事無く、その介するだけのモノを追い求めている。
会社と言うエネルギー体から、そこで労働力を提供する事で、エネルギーを介するものを分け与えられ、それを消費する。
ギャンブルは、その介するものを、取り合うだけの行為であり、投資も、その介するものが流れる中で、多くなった、少なくなっただけの事であり、新たなエネルギーを産生する事は無い。
そんな事を考えていると、自分自身が、エネルギーを介する媒体である事に気付く。
エネルギーを産生する、もしくは、より多くのエネルギーが自身を介するようになれば、エネルギーを持つ事が出来る。
自らが愛や情熱を持って何かを産生し、エネルギーを生み出し、より多くの人達と関わり、エネルギーを交流する。
そんな事を考えていて、ある事に気が付いた。
自分自身がすでにエネルギーの集まりであり、実はこれまでの人生で、多くのエネルギーを貯めていた事に気が付いた。
これまで、仕事やプライベートで、たくさんの人達とエネルギー交流をして来た。
ギャンブルをやめられなかった頃にも、お金と言うエネルギーを介するものを放出し続けていたが、エネルギー交流は行なっていた。
たくさんの人と関わって来て、感謝し、感謝され、慕われたりして来た。
自分が、感謝されたり、慕われたりして来た事を、忘れていた訳では無いが、そうしたエネルギーが、その時々で消失していたと思っていて、実は、自分の中に貯められている事に気が付いた。
若い頃から、自己犠牲的に言動して、人を優先し、人の役に立つ事をやって来た。
時には、人に利用されたり、中には搾取されたと思うような事もあった。
そうした事を、何処損をしていたと、むしろネガティヴに捉えていたのだが、自分の中に徳として貯められている事に、今気が付いた 笑
そうした事に気が付いただけで、何かの蓋が開いたように、エネルギーが湧き上がるのを感じる 笑
若い頃から、人におごるような機会が多く、そうした事も、ただ散財して来たと認識していたのだが 笑、実はそうでは無かったのだろう。
自身が、すでにエネルギー体であるだけで無く、気が付いていない多くのエネルギーを貯蔵していた。
そう気付いただけで、なんだか喜びが溢れて来る。
以前、一日中、これまでお会いして来た人達を想い、「ありがとうございます。」と口ずさみ続けた事があるが、逆に、これまでお会いして来た人達から、たくさんの、「ありがとう」をもらっていた事を思い出した。
元嫁さんに、「そんなに金が欲しいなら、全て持っていけばいい。」と、全財産を渡した事も、何処で引っかかっていたのだが 笑笑、徳を積んでいたのだろう。
これまで、自己犠牲を払うような事が多くあり、最近は、それをやめるように意識していると、何処から、
「いや、小さい 小さい!! 笑笑」
と聞こえていた意味が分かった。
また最近、ふと、
「無いは有る? 有るは有る?」
みたいな禅問答が、頭に浮かんで来ることがあり 笑、その意味を理解した。
もちろん、たかられたり、奪われるのはダメだが、自分の意志でする事であれば、それは、徳となるのだろう。
何かをやる為に、エネルギーを産生しなければと
考えていたが、すでに持っている事に気付くと、なんでもやれる気になった。
そうした事と合わせて、思考にも変化がある。
なるべく、右脳で感じたままに過ごす事をやっていると、左脳が時々、水をさして来る。
これまで、何かをやるに際して、迷いや不安、恐怖や葛藤を生み出していたのは、左脳による思考で有った事に気が付いた。
例えば、脱サラをして何かをやりたいと思っても、
「いやいや、これまで会社でしか仕事した事無いのに、今の収入捨てて、、ヤバいやろ? 自分に何が出来るっちゅうねん?」
と、左脳が忠告をして来る。
あれこれ理屈を並べては、右脳が感じたままにやろうとする事に、一々水を差す 笑
先の5連休に、そうした事に気付くと、俯瞰的な自分の目線になり、左脳の自分に対して、
「私はあなたを司る存在であり、あなたは自分を愛して、自分を信じ、自分を幸せにする事をやりなさい。今後、自分や人を疑うような事や、自分や人の足を引っ張るような事は、しないで下さい。」
と言い聞かせている。
すると、これまで、左脳を自由にさせていた事から、不安や恐怖、迷いや葛藤、愁が生まれていた事が分かった。
左脳が、迷い、恐れ、不安や葛藤、愁を感じた時には、
「お前が勝手に迷う事を許さないよ。俺が決めた事やから、決めた方向でどうするだけを考えなさい。」
「恐怖なんて感じなくていいよ。決めた方向にいけば、必ずうまくいくし、必ず楽しくなるから。大丈夫だよ。」
そう左脳に言い聞かせるようにしていると、不安や葛藤をあまり感じないようになった。
先の会議を憂鬱に感じた時には、
「だから、憂鬱に思わなくていいよ!きっと成果が上がって、褒められて、必ずいい会議になるから!!大丈夫だよ!」
なんて、これまで、周りの人に言っていたような事を、自分に言い聞かせるようになった。
周りはどうあれ、この先がどうあれ、そんな風に楽観して過ごしていると、今この瞬間が楽しくなり、なんだかウキウキして、愁を感じなくなる。
これは、少し嫌いだと思うような人にお会いする際にも、同様であり、
「嫌いだと決めているのは自分だよ。相手がどうあれ、愛してやればいいよ。ほら、彼にはいいところもあるやろ?そこを好きだと思って、会ってみたらいいよ。」
なんて言い聞かせると、笑いながら話す事が出来て、相手も心を開いてくれたりする。
また、人生を苦しむのか、楽しむのかについても、自分が左脳に、
「どんな状況でも楽しめ!」
と命じれば、楽しめる事が分かった 笑
あれこれと要らぬ事を思考して、自分が自分を苦しめていた 笑笑
今朝、3時くらいに目が覚めて、ブログを書いていると、そんな気付きに恵まれ、テンションが上がったまま、ウォーキングに出掛けた。
いつもより、景色が色鮮やかに目に映る。
素晴らしい朝焼けに感動しながら、よさこい祭りの音楽を聞いていたら、感涙が込み上げて来た。
ギャンブルをやめ始めた頃は、嫌な事やトラブルばかりの人生に嫌気ばかりを覚えていた。
何から手を付けたらいいのか分からないまま、自分を信じて、この10年間を生きて来た。
自分のこれまでの人生が、全て無駄では無かった事に気付き、初めて自分の人生を、心の底から素晴らしいと思えた。
今生きているこの瞬間が、奇跡的な事であり、全てがありがたく思え、迷う事無く、この先の人生を楽しんでやろうと思えた。
素晴らしい景色を見ながら、音楽を聞いていると、嬉しさや喜びがどんどん溢れて来て、いつしか、号泣していた。
自分の人生で、嬉しくて号泣するのは、おそらく初めての事だ。
私は最高の人生を生きている!
私は最高に幸せだ!
生きる事を、生きて居る事を、初めて、腹の底から嬉しく感じて、嗚咽が出るくらい号泣した。
「無いは有る? 有るは有る?」
ふと、頭に浮かんで来た禅問答の意味を理解した 笑笑
全ては有るのだろう♪
有るのに無いと思い込んでいたのは、自分自身だった 笑笑
迷う事無く、恐怖心を捨て、不安や葛藤、愁を無くし、素晴らしい人生を全力で楽しもう♪
さもありなん♪