五連休に入った。







最初の休みの昨日、朝からウォーキング、筋トレ、食事を摂り、洗濯をしてから、自転車でカロリーを消費した。






自転車に乗りながら、久しぶりにネガティヴな思考を辿った。






「実際、自分に何が出来んねん。」






「まだまだやりたく無い仕事が、目の前にあって、果たしてそこから抜け出せるのだろうか。」






「お金を稼いでいても、仕送りは仕方がないとして、浪費しているから、いつもお金が無いんやろ。この先も、ずっと苦しいままなんだろうか。」 






「周りの人間関係だって、愚痴ばかり言ってる人や、会社に洗脳されたような人ばかりで、もう繋がりたくないよ。」 






いくら、考えないようにしようと試みても、昨日は無理だった。






なので、自分のネガティヴを受け入れようと思い、ネガティヴを辿るまま、放っておいた。






昨晩、しっかり栄養を摂って、おバカ動画を見て、バカ笑いして、早めに寝たら、回復した。





今朝、ウォーキングをしている時、たまたま流れて来た動画から、ある事に気が付いた。






最近、ふわふわと、考えずに生きていると、日々、何は無くても幸せを感じて、調子が良かったのに、昨日は昼過ぎからあれこれと考えてしまい、ネガティヴを辿った。






動画は脳卒中を起こした方が、一時的に左脳の機能を失い、右脳と左脳の違いについて説明している内容であり、それを聞いていて、ふわふわと過ごしている時は右脳で生きていて、現実に捉われて、あれこれ考えている時は、左脳が優位に働いている事に気が付いた。






今朝、ウォーキングをしていたら、秋の始まりを感じさせるような心地よい風が吹き、登る朝日を見て、その瞬間に幸せを感じた。






それなのに、休み明けの仕事や、目の前の現実を直視して、この先も、状況が変わらないのかと考えると、一気に煮詰まり、不幸を感じた。






最近、ふわふわと右脳で生きていて、おそらくその反動で、左脳が働いたのだろう。






左脳は、年齢やお金の事、目の前の状況を捉えては、危機感や不安を生み出す。






最近、






「私は絶対に大丈夫です。」






と自分に向けて言っていて、それを、現実的な考えから、






「いや、全然大丈夫じゃないよ!どうするの?目の前の仕事を一生懸命にやらないと、やばいよ?」






と伝えてくる 笑







最近、顕在意識と潜在意識を意識していると、左脳は顕在意識を司るものであり、右脳は潜在意識の入り口になっている事が分かった。






顕在意識では、生まれてからの世の中やその変化、これまでの常識、資本主義の社会、自身の置かれている状況を全てだと捉えていて、その中で生まれたエゴを持って、いかに生きて行くかを考える。






最近、潜在意識を意識していると、見えている世の中が全てでは無い事を、感覚として理解するようになった。






自分が、この10年間、様々な事に取り組んで来ても、顕在的には、まだサラリーマンであり、子供達への仕送りに追われていて、余裕は無く、状況はあまり変わってはおらず、時に昨日のように焦りを感じる。






以前は、焦りから、目の前の仕事をがむしゃらに頑張ってみたりしていたが、今は、それを放置するようになった。






現実はこうで、それを突破する為には…と考えていたのは、自身の顕在意識のエゴの力を過信していたのだろう。






エゴにより欲に走りまわり、焦り、足掻き、落ち込み、不安になり、不幸を感じる。






顕在意識が捉えている狭い世界の中で、それが全てだと思い込んでいた事に気が付いた。






資本主義の世の中では、お金がほぼ全てであり、お金が無いと何も買えず、不幸になる。






会社で評価されたり、誰かに評価されていないと、不安になり、仕事をがむしゃらに頑張って、地位を上げて、収入を上げる事が、生きる目的になり、それが終わると、命が終わる。






作られた狭い世界の中で、足掻き、一喜一憂して、そこで一生を終える。






井の中のボウフラのように、そこが全てだと思い込んだまま。






改めて、生きる意味を考えさせられる。







「自分が目の前の現実を作り出している。」 






その言葉が最近気になっていて、その答えが分かった。





目の前の現実が全てだと思い込んでいるのは、自分の左脳であり、それが全てでは無いのだろう。






そこに自分を押し込めて、延々と変わらないと嘆き、絶望し、やがて諦める。






左脳は、自分と他者とは違うと認識していて、それは時にエゴとなり、利己的になり、人を羨み、人を蔑み、時に人の足を引っ張ろうとする。






そうして得たもので、自分が幸せになると思い込んでいるが、果たしてそうだろうか?






そもそも、お金や物は、人を幸せにしてくれるのだろうか?






そうした概念を、知らぬ間に、誰かに刷り込まれていて、それを盲信していると考えると、空恐ろしくなる。






書いていて気が付いたが、愛や幸せを感じるのは右脳の意識であり、左脳によって、そうした事を理屈で求めていても、いつまでもそれらを、感じる事は出来ないのだろう。







いよいよ、頭がおかしくなって来た 笑






そう左脳が伝えてくるが、それも無視しよう 笑






目の前の現実、世の中の常識、自分を作り出している意識、それらから生まれるエゴの意識、それらに捉えられず、右脳の意識の中で、ふわふわと生きる。






ふらふらと生きながら、愛や慈悲心を深め、幸せを感じる方向に向かえばいいのだろう。






左脳は、今日は何曜日かや、今日何を食べるか、はたまた、右脳が決めた、行きたい方向にどう行くか、くらいを考えていればいいのだろう 笑






ふと、物心が付く前、子供の頃には、そうした感覚の中で過ごしていた事を思い出した。






さして何も考えずに、会いたい友達に会い、行きたい所に行く。






理屈では無く、両親から愛されている事を実感していて、遊び、楽しみ、疲れたら何も考えずに眠る。





いつからか、理屈でばかり考えるようになり、左脳が捉えた常識の中に、自分を閉じ込めてしまっていた。





好きな人と会うのに、好きな場所に行くのに、好きな事をやるのに、人を愛するのに、理屈など要らないのだろう。





理屈でがんじがらめにした人生に苦しむのか、理屈抜きに人生を楽しむのか。






間違い無く、後者を選ぶだろう。






何故だか、彼女に無性に会いたくなった。