朝からウォーキングに出かけた。





素晴らしい朝焼けに、気持ちが整う。





お盆あたりに、





「君たちはどう生きるか」





という映画を観た。






抽象的な内容、夢の中のような演出、展開に、訳が分からなかったのだが、途中から、何故か激しく感動し、最後は号泣していた。





ネタバレを避けるため、詳しくは書けないが、命の意味や無償の愛を表現するようなメッセージに、意味が分からないまま、激しく心を揺さぶられた。






昨日、原作の本を読んだ。






内容は全く違っていたが、作中に出て来るおじさんが、主人公の少年に、生きる意味や生きる上で大切な事について問いかけていて、共に、少年期に悩み、考え、葛藤し、勇気を持って行動する事で、成長していく様子が描かれている。






また、中に出て来る母親は、共に無償の愛を持って、少年を見守っていて、これも共通している。






原作に、全ては分子から出来ている事を知った際、少年が、自分の存在と周りの存在の違いが分からなくなるという場面が描かれているが、自身が幼い頃に、同じ事を感じていた事を思い出した。






一人、天井を見上げて、蛍光灯の薄暗い灯りの中、天井の木目を眺めていたら、自分と他人との意識の違いが分からなくなった。






意識だけを移せば、全く違う他人になるような気がした。






それから40年以上、紆余曲折を経て、何とか生き抜いて来た。






作中の主人公のように、湧いて来る疑問に向き合う事無く、周りとの違和感を常に覚えながら、青年期を過ごし、自分がどう生きるのかなんて、分からないまま、大人になった。






作中に出て来る、導いてくれるような人も無い中、生き方に悩み、葛藤し、そのうち、それらを避けるように、覚えた欲に溺れるようになった。






20歳の頃から、ギャンブルをやめ始める40歳を過ぎるあたりまでは、何も考えず、目の前の欲を貪るように生きていた。






ギャンブルをやめてから、自分と向き合い始め、覚えた欲を捨てるようになり、それ以外にも様々なモノを捨て去り、令和になる頃には、0になったように感じた。






孤独と向き合い続け、ひたすら無味無臭な日々を過ごし、儚さを感じた事もある。






ギャンブルはやめられていても、仕事で認められても、まだまだ自信が無かった。






自分と向き合い始めて、それまでの20年以上、全くする事が無かった、思考を重ねて来た。






神社参りを始める中、様々な気付きに恵まれるようになっても、まだまだ自己否定感や嫌悪感があり、自己肯定感を高めようとして来た。






コロナ禍には、過去に対する執着を解放し、ようやく孤独を受け入れるようになり、怒りや悲しみの感情や、様々な衝動に振りまわされ無くなった。





節目の10年を前にして、ようやく、自己愛を持てるようになると、様々な変化が訪れた。






自分を愛して、全てを受け入れる事で、周りとの関係性が変わり始めた。






ずっと信じられ無かった自分を、ようやく信じられるようになると、周りや世の中を信じられるようになった。





そうした意識の変化があり、最近、全ては同一という、onenessの意識が芽生え始めた。






そのタイミングで、先の作品と出会えたのは、偶然では無いように思う。






自分と他人の意識の違いが分からないと感じ、恐怖を覚えた7、8歳の頃から、欲に溺れる20年の空白期間を経て、この10年間でそれを取り戻し、ようやく何かに気付こうとしている。






最近の課題が、無償の愛であったり、現実と意識の世界の違い=顕在意識と潜在意識の壁をなくす事であったり、そうした中で、エゴを捨てて、どう生きるかと言う事であり、作中の主人公が、少年期に向き合って来た事を、ようやく、理解しようとしている。






欲やギャンブルに溺れ、失った20年間は、取り戻せないが、そこに後悔は無く、自分には必要な時間だったように思う。





この10年間は、それまでの時間を取り戻すように、自分と向き合い続け、寝ても覚めても、思考に思考を重ねて来た。






10年の節目を前に、思考自体が執着そのものであると気付き、思考をしなくなり、感じたまま、過ごしていると、ある変化があった。






これまで自己嫌悪や否定を無くし、自己肯定感を高め、自己愛を意識し、自信が持てるようになっても、何処に欠乏感を感じていたのだが、ただただ理由無く、自分を信じて、自分を愛せばいい事が分かった。






〇〇だから、〇〇をしているから、自分を信じる、愛するでは無くて、全てを受け入れ、全てを愛せばいい事を理解した。






これこそ、「無償の愛」であり、それを自身に対して持つなんてのは、これまで思いもよらなかった事であり、まさに目から鱗であった。






自分に対して、無償の愛を持つ事で、自分を理由無く信じられるようになる。






どんな状況にいようが、何をしてようが、自分を信じる。





そんな変化があると、周りとの関係性が変わり始めた。





自分と同じように、周りや世の中を見始めると、〇〇だから好き、〇〇だから嫌い、〇〇だからダメという意識が薄れて来た。






同時に、自分と他人の意識の違いについても、それを隔てる必要が無い事を理解した。






うまく言えないが、自分の意識だけが俯瞰にあり、自分も他人も、世の中も、同じように見ればいい事が分かった。






自分に無償の愛を持つように、周りや世の中に対しても、無償の愛を持って見る。






これまでも、愛を持って、人を見ようとした事があったのだが、すぐに愛が枯渇してしまっていたのは、自分に対して、無償の愛を持つ事が出来ていなかった事が分かった。






「人の為に何かをやってあげたい。」



 



「人の役に立ちたい。」






「困っている人を助けたい。」






そうした気持ちは、ずっとあるのだが、それを利用されたり、裏切られたりする中、いつしか、出し惜しみをするようになっていた。






好きな人には為になる事をやり、そうで無い人に対しては、壁を作るようになっていた。






最近、無償を意識していると、そうした自分の事を、





「小さい 小さい 笑笑」






と思えるようになった。






騙されたり、利用されても、






「騙すなら、騙せばいい。」






「(お金を)取るなら、取ればいい。」






と言う気持ちでは居たのだが、人の本質を見抜く力がついてくると、付き合う人を選別するようになっていた。






何処で、そうした自分を、ケチだと思う気持ちがあったのだが 笑、全てを無償の愛で包み込んで、全てを信じてやりたくなった。






自分が些細な事を気にしようとする度に、






「小さい 小さい 笑笑」






と笑い飛ばしていると、段々と、フトコロがガバガバになって来る 笑






以前は、利用されても、騙されても、弱気だったせいで、相手を責める事も出来なかったのだが、今なら、怒る事無く、対応出来る自信が付いた。






そうした良からぬ人を呼び込んで居たのは、自身が見返りを求めていたからだったのだろう。






無償で愛して、無償で信じる事が出来れば、そうした事も無くなる事を理解した。





幼い頃からの疑問、空白の20年を越えて、自分と向き合う中で遭遇して来た様々な課題、それらが10年の節目を前に、急速に収束していくように感じている。






「やりたい事をやり、人の、世の中の、役に立ち、お金を稼ぎ、豊かな人間関係を築く。」






10年前、ギャンブル依存の底から、涙を流しながら書いたビジョンを元に、それを目指してやって来て、これからどうするかばかりに頭を捉われていたが、既に、そうした人生を送れている事に気が付いた。






これまでも既に、周りの人を癒し、勇気づけ、仕事を通して役に立てていて、更にこれから、無償の愛を深めていく事で、よりフトコロはがばがばになり 笑、より多くの人の役に立てるようになり、豊かな人間関係を築いていけばいい。






何をするかにこだわって来たが、それはおそらく、導きによって、齎されるものである事を理解した。





10年前の9月7日、破滅を前にしたあの日を境にして、ようやく、




 


「自分がどう生きていけばいいか。」






を理解しようとしている。






憚らずに言えば、






「私は何者でも無いが、okkey@である。」






いつか聞こえた、魂からの声こそが全てであり、真理なんだろう。






何か大きな意思に導かれていて、これまでの気付きに感謝して、自分の全てを持って、世の、人の、為になる。






そう素直に思えた。






全てに感謝したい。