ようやく雨があがった♪





青空に緑が鮮やかに映える。





最近、「自己肯定感」に関する動画をよく見ている。




昨年末、長年に渡り、自己嫌悪や自己否定を抱えて来た事に気付き、それを解放しながら、自己肯定感を高めて来た。





それまでは、今の自分についても、過去の自分についても、





「何故、こんな状況にいるのだろうか?」





「何故、ずっと苦しいのだろうか?」





「何故、嫌な人と付き合って来たのだろうか?」





「何故、嫌な事ばかりの人生なんだろうか?」





なんて考えが頭から離れずにいたが、自己を肯定し始めると、変化が起こり始めた。





今の環境も、これまで歩んで来た人生も、自分の選択して来た事であり、それら全てを肯定したくなった。


 



これまで、環境や自分の人生に対して、否定的な感情を抱き、ネガティブに見ていたのは、自分の中にあった、自己否定感や自己嫌悪感が、そう見せていた事に気がついた。





いつかのブログに書いた事があるが、世の中は、自分を映す鏡であり、自分が怒っていれば、周りの人も怒り、自分が笑っていれば、周りの人も笑い出す。





同様に、自己否定感や嫌悪感を抱えていれば、自分の人生や環境に対しても、否定的に捉えてしまう。




コロナ禍に入った頃、世の中に対して愁を感じた事があったが、それも、自分自身の人生を否定的に捉え、自分に愁を感じていた事を表していたのだろう。





自己否定感や自己嫌悪感により、自分に鞭を打ち続けて来たのは、必要な事だったとは思う。





自分に無いものばかりを求めては、鞭を打ち続けていたが、今は、あるものに感謝出来るようになった。




そうなると、周りや世の中に対しても、あるものに感謝出来るようになった。





今の仕事や環境、そこで頑張っている自分に感謝すると、自然と肯定感が高まって来る。





自己肯定感が高まって来ると、同様に、周りの人や環境に対しても、肯定し、受け入れられるようになった。





そうなってみると、これまで、自己否定感、自己嫌悪感を抱えて来て、周りを否定し、嫌っていたのは、被害者意識を持って、自分の人生を、嫌々生きて来たからである事に気がついた。





「〇〇のせいで、やりたくない事をやっている。」




「〇〇のせいで、嫌な目に遭わされて、散々な人生になった。」





「〇〇がいたせいで、散々悩み、苦しみ、人生を遠回りしてきた。」





今の自分を肯定し始めると、自分に選択権がある事に気がつき、これまでの人生の全ても、自分の選択であった事に気が付いた。





自分の人生、自分が主人公であり、自分が選択をして来たのに、うまくいかない人生を、周りや環境のせいにしていた 笑





嫌なヤツと付き合って来たのも、自分の選択だったし、したくない事をして来たのも、自分の選択であった事を受け入れた時、実は、自分の意思で人生を生きて来た事を理解した。





最近、若い人の動画や歌で、





「親ガチャに失敗した(成功した)。」





という言葉を見る度に、違和感を覚えていたが、その理由が分かった。





どういう両親の元に生まれて来るかによって、人生が変わってくるという意味だと思うが、それすら、自分の意思で選んで生まれて来た事を、感覚として理解するようになった。





色んな事が有ったが、今こうして心身が健康に暮らせていて、様々な気付きに恵まれている、今の自分を肯定し、幸せを感じられると、これまでの人生全てに肯定感を持てるようになった。





実は、生まれるもっと前から、全てを自分が選択して来た事に気付くと、被害者意識は消え失せると共に、幸せを実感し、自分が人生の主人公であり、これからの自分の人生も自分で決められるという事が、ようやく腑に落ちた。





最近、そんな気付きがあり、たまたま、ニーチェの「ツァラツゥストラ」の解説を聞いていて、ハッとさせられた。





以前も聞いた事があったのだが、その時はよく分からなかった。





端折って申し訳無いが、話の中で、牧人と言う、ただただ流れに任せて生きている人が、口から入ったヘビを噛みちぎる場面が出て来る。





息絶え絶えだった牧人は、ヘビを噛みちぎった途端、スクっと立ち上がり、これまでの人生で無かったような高揚感に包まれる。





当時の西洋思想では、仏教の輪廻転生とは違い、同じ人生を延々と繰り返すとされていて、牧人は、被害者意識を持ち、自分の人生を生きておらず、延々と否定的に生きる人生を繰り返していた。





牧人が噛みちぎったのは、自分の人生に対するネガティブな意識であり、それを噛みちぎった瞬間、彼は、初めて自分の人生の全てを肯定する事が出来、高揚感に包まれた。





つまりは、同じ人生を生きていても、被害者意識を持って、やらされ感を抱え、嫌々、流れに任せて生きるのか、自らに選択権がある事を理解し、自分の人生を生き、やりたい事をやり、全てを肯定的に捉えるのかによって、人生の意味が変わって来る。





前者は、いつまで経っても、不幸な人生であり、生かされている〇隷であるのに対して、後者は、主人公として、自らの意思で生きる事自体が、幸せな人生、という事なんだろう。





ニーチェは、本が売れる前に非業の死を迎えたらしいが、時を越えて、大切なメッセージを受け取った気がした。





母親の卵子に着床した時の感覚を遡って想像してみると、この上無く、嬉しかったように思う。





自らの意思で、生まれて来て、その後も、自分の意思で生きて来た。





いずれ死ぬ時に、被害者意識で、全てを否定し、嫌な人生だったと思いながら死ぬのか、自らの意思で生きた人生に幸せを感じ、肯定感に包まれながら死ぬのかと考えると、間違いなく後者でありたい。


 



もしかしたら、死すら、自らの意思であると考えられると、それは怖いものでは無くなるのかもしれない。


 



怖いとすれば、否定感、嫌悪感を持ち、嫌々生きるような人生を繰り返す事だろう。





まだまだ波はあるが、自分の全てを肯定し始めると、自分の魂が喜ぶのが分かる。





自身に選択権があると気付くと、同時に、自分の人生に対する責任感を感じる。





考えてみれば、これまでも、就職、転職、結婚、離婚と、全て自分で選択し、決断をして来て、慣れない新しい職場の仕事で成果を出し、離婚してからも子供達を養育し、責任を負って来た。

 





最近、もうやりたい事で無くなった、目の前の仕事に追われ、養育費の支払いで余裕が無く、やりたい事も分からないままであり、ただただ、責任を遂行している感があり、気持ちに余裕が持てずにいたが、自分の人生を切り拓くのは、選択権を持った自分しかいないと気付くと、ようやく、意識が変わり始めた。





やりたい事は未だ分からないが 笑、貯蓄型の保険を解約し、退職した際に入って来るお金を、具体的に調べ始めた。





会社以外の人には、





「今年の九月に会社を辞める予定です。」





と、臆せず話している。






これまでも、自己否定や嫌悪感を感じながらも、自分が選択した人生を生きて来て、その責任を負って来た。





違うのは、これからは、自己を肯定しながら、自分が選択した人生を生きていくという事なんだろう。





いずれにせよ、自分の人生に責任を持って向き合う事には、変わりはない。






そう言えば、ギャンブル依存の掲示板に参加した頃、共に参加していた仲間から、






「ちゃんと自分と向き合いなさい。」






と言われた事を思い出した 笑






彼女が言っていたのは、そういう事だったのかもしれない。






そんな事を、ふと思った。