さぁ、いよいよ大詰めだ。





365日✖️10年、3650日の修行が、もうすぐ終わる。





10年前、破滅が見えたあの日から、自分と向き合い続けて来た。





ギャンブルをやめられず、仕事も人間関係も、全て中途半端なまま生きて来た。





嘘や開き直りを繰り返しては、人のアドバイスは全て右から左だった。





一丁前に意地やプライドだけは有り、親身になって言ってくれる人に対して聞く耳を持たず、抑え付けようとされれば食ってかかり、喧嘩ばかりしていた。





パチンコにどっぷり浸かり、なんにも一生懸命になれずに居た。





どうしようもない人生に、開き直ってばかり居た。




女性と付き合っても、子供が出来ても、結局は、なんにも変わらなかった。





気が付けば、重度のギャンブル依存症になっていた。




全ての事から逃げ出し、パチンコ台と向き合う日々。




自分は欠陥人間だと思いながら、全てうまくいかずに、パチンコにのめり込んでいた。





30半ばに、二度目の結婚をして、子供が出来て、意識は少し変わろうとしていたが、やがて、仕事と家庭がストレスになり、再びパチンコにのめり込むようになった。





ある日、目の前に、破滅がハッキリと見えた。





ちゃんと生きたいと思っても、全てうまくいかず、それでもパチンコをやめる事が出来ないままの自分に、自分がコ○されると思った。





狂ったように叫びながら、車を走らせ続けた。





「パチンコごときに、俺の人生を潰されてたまるか!!」





生まれて初めて、腹の底から怒号のような声が出た。




狂ったように、泣きながら、車を走らせ続けた。





所謂、底つきだった。





その日から、もうすぐ10年になる。





あの日の自分は、死の隣に居た。





おそらく二、三時間は、発狂していた。





青年期を鬱屈として過ごし、19の頃からギャンブルに手を出し、やがて、どっぷりハマった。





いくら仕事を頑張ってお金を稼いでも、全てギャンブルに溶けて行く。





ちゃんと生きようと思っても、ギャンブル脳になっていて、まともに思考する事すら出来ない。





幼い頃についた、自己否定、自己嫌悪が有り、





「どうせ自分なんて、、」





と、いつも自分を否定していて、まともに努力もする事も出来ず、ギャンブルに没頭するしか無かった人生に、本当に嫌気がさしていた。





おそらく、精神病も患っていた。





自分が自分で無いような感覚は、遡れば、幼少期から有った。





青年期にいじめられ、鬱屈したまま、大人になった。





うまくいかない自分を、ギャンブルに負け続ける自分を、俯瞰で嘲笑っている自分が居た。





何かの罪を償うように、自分を否定し続け、自分を嫌い続けていた。





底をついたあの日、いつまでも、そんな生き方をしている自分に、初めて、激しく抗う意識が芽生えた。






それまでの自堕落な自分に激しく抗おうとして、そこから数年に渡り、自分に鞭を打ち続けるようになった。





こうするべき、ああするべきと、寝る暇を惜しんで仕事に打ち込むようになり、自分だけじゃ無く、周りの人をも追い詰めていた。




 


仕事に没頭し続ける中、全く家庭を顧みなくなり、家庭は崩壊してしまった。





その頃の自分は、仕事で成果をあげて、会社から評価されては居たが、尋常な精神状態では無かった。





離婚が確定したある朝、それでも早朝から会社に行こうと、車を運転している時に、ずっと我慢していた心が、突然、崩壊した。





「俺やって、一生懸命やってるやないか!!なんでうまくいかへんねん!!」





車を運転出来なくなるくらいに、声を上げて泣いていた。





ギャンブルをやめ始め、自分と向き合うようになり、数年に渡り、自分に鞭を打ち続けていた事に気付き、それでもうまく生きられない自分を、初めて可哀想に思い、愛してあげたくなった。





それは、45歳にして初めて目覚めた、自己愛だった。 





それまでの自分は、自分を愛する事を知らずに生きて来た。





自己愛を持たずに、自己を否定し、自己を嫌悪して来て、ギャンブルをやめてからも、自分に鞭を打ち続けて来た。





ようやく、自分を愛する事の大切さを知ったが、離婚してからも、まだまだ欲に塗れ、怒りに塗れている自分を、本気で愛する事は出来なかった。





その頃、何をしたらいいのか分からないまま、思い立ったように、伊勢神宮にお参りに行き、そこから、神社参りをするようになった。





まだまだ欲や怒りをコントロール出来ず、離婚後の孤独感にも苛まれていた。





神社参りを始めて、仏教の教えに触れ、十善戒を意識するようになった。





十善戒とは、仏教の戒めであり、欲を抑え、怒りを持たず、人の悪口を言わず、あらぬ妄想をせず、殺生をせず、人の物を盗らず、邪婬な事もしないという縛りであり、いつしかそれを意識して、生きるようになった。





さらには、コロナ禍に入ってから、圧倒的な孤独の中、自分の執着を解放したくなった。






まだまだ孤独を恐れていて、日々の孤独の中で、頭に浮かんで来るのは、欲や、過去の嫌な事ばかりであり、それが執着だと分かり、過去の意識にアプローチをして、執着を解放して来た。






考えてみれば、最初の頃には、ギャンブルをやめる事しか考えていなかったのに、この頃から、テーマが変わり始めている。






神社参りや仏教など、全く興味が無かったのに、いつしか仏教の考え方、特に禅の教えを取り入れるようになり、神社参りを続けて来た。






その頃、まだまだ執着に捉われ、世の中に愁を感じたりしていて、それらを解放したくなり、大愚というお坊さんや、瀬戸内寂聴さんの説法を聞くようになり、たくさんの気付きを得た。





コロナ禍も相まり、人付き合いをやめ、膨大な孤独な時間を過ごす中、様々な気付きを得て来て、いつしか、執着に捉われなくなり、孤独を恐れなくなり、怒りを持たなくなり、欲に振り回されないようになった。





仕事以外は、ウォーキング、筋トレ、神社参りにギターを弾くだけの生活を、約三年間送って来た。





そんな生活を受け入れて来たが、昨年、ある満月の夜、歩いて買い物に行った帰りに、満月を見上げていて、突然、そこはかとない空虚さを感じた。





「この先の人生も、ずっとこのままなんだろうか?」





家庭を失くしてから、遊びをやめ、欲を断ち、人付き合いもやめ、全てを手放して来た。






まるで独房に暮らすような生活の中、たくさんの気付きを得て来たが、そろそろ、独房から自分を解放してやりたくなったのだろう。





年明け、様々な縛りを解き、密かに自分を独房から解放した。




様々な縛りと共に、まだ潜在意識の中に残っていた自己否定感からも、自分を解放すると、人生で感じた事の無いような、自己肯定感に包まれた。





いつからか、自分の人生を映画のように思うようになったが、主人公は、おそらく物心ついてから初めて、自分を認められるようになると、日々に、幸せを感じられるようになった。





自分を認め、受け入れると、周りも認められるようになり、日々を機嫌良く過ごしていると、目の前の景色が、明らかに変わり始めた。





自分の全てを認めると言うのは、今自分が居る状況についても認める事になり、これまでは、嫌だ嫌だと思っていた会社や、今の生活も悪くは無いと思えるようになった。





雨風を凌げる家があり、三食食べられていて、三人の子供達に仕送りが出来ている。





たまに外食やバーに行く事も出来て、良き人と繋がる事が出来ている。





何より、心身が健康であり、子供達、母親や妹家族、親しい人達も、無事に過ごしていて、何かの危険に晒されている訳でも無い。





そんな事に気付くと、今あるものに感謝する事が出来るようになり、日々を機嫌良く過ごす事が出来るようになった。





日々に幸せを感じ、機嫌良く過ごしていると、ようやく、潜在意識の自分が顔を見せ始めた。





これまで、自分を否定したり、嫌悪したり、後付けの顕在意識で、厳しく抑え込んでばかり居て、潜在意識の中の子供のような自分は、顔を出そうとはしなかった。



 



最近、機嫌良く過ごしていると、幼少の頃から、ギャンブルをやめられなかった時期の事も、これまであまり良く思えなかったのだが、家や食事に不自由する事無く、戦争などの危険に晒されるような事も無く、生きて来れた事に気が付いた。





そんな風に考えると、少し見方が変わった。





同様に、元嫁さんや、嫌な目に合わされた人に対する執着心からは解放されたものの、良き縁だとは思えずにいたが、彼等は、なんらかの気付きを自分に与える為に、現れてくれたと思えるようになった。




おそらく、彼等も気付いていなかっただろうが、

自分と必然的に出会っていた。





幼少の頃からの自分の環境や、様々な人との出会いは、全ては必然であり、全ては自分に何らかの気付きを与える為に、何かの縁によって引き寄せられていたと思えるようになった。





今の環境も含めて、過去からの全ての自分の人生を肯定し始めると、素晴らしい高揚感に包まれ始める。





情けなかった気持ちや悔しかった気持ち、悲しくて泣くしかなかった時や、どうしたらいいのか分からないような怒りや不安に塗れた時も有ったが、大きくは道を踏み外さずに生きて来た。





特に、ギャンブルをやめ始めてからは、手探りで、暗中模索しながら、ただ自分を信じるしか、先に進む術が無かった。





若い頃、何に対しても主体性を持つ事が出来ず、ずっと不安や不満を抱えて生きて来て、誰と付き合ってもうまくいかず、二度の離婚を経験し、ギャンブルで底を付き、欲や怒りに振り回され、めちゃくちゃ遠回りをして、あり得ない金額を使って来たが、全ては経験だろう。






最初の頃は、ただギャンブルをやめる事が目的であったが、途中からは、仏教の教えを取り入れたりする中、





「果たして自分は何処に向かっているのだろうか?」





と、目的が分からなくなっていたが、ようやく、それが分かった。






それは、






「自分の全てを肯定する」






と言う事だったのだろう。





今、主人公は、自分の全てを肯定し始め、生まれて来た意味を思い出そうとしている。





おそらく、全ては縁に導かれている。





縁の力を信じて、自分を信じ続け、全ての縁を大切にし、全てを肯定する事が、人生の意味を知る鍵になっている。





先を行く人が、





「何か大きな力に導かれている。」





と言っていた意味が、初めて分かったような気がする。





いよいよ今年九月に、10年に渡る修行を終えるにあたり、大きな気付きの予感をひしひしと感じる。




万感の思いで、新しいステージを迎えたい。