そう言えば、昨年くらいから、愚痴や悪口を言わなくなった。
元々、愚痴はあまり言わない。
上司のオカシナ指示に対して、同僚は、
「なんであんな意味のない事、落としてくるんですかね💢。たまらんっすわ。」
なんて言うが、自分は、会社の指示などまともに聞いてないので 笑、腹が立たない。
それに、オカシイと思ったら、その場で伝えるようにしているので、愚痴として出す必要が無い。
ただ、悪口は、言ってしまってた。
「あの人、人はいいんだけど、テキトウだよね。あまり物事を深く考えてないと言うか。あれではアカンよね。」
「何で、あんな雑な言い方になるかな? 笑。もっと普通に言えばいいのに。きっと自信が無いんだよね。」
愚痴は物事に対して、悪口は人に対して、納得行かない事であり、人に対してモノを言うのは、よほどうまく言わないと喧嘩になってしまう。
以前は、後輩だけで無く、上司にも、
「〇〇するべきですよね。なんでやらないんですか?」
「私は〇〇した方がいいと思いますが、、如何でしょうか?」
と詰め寄っていた 笑
それをやらなくなってからも、上司に対しては、あれこれ思うところが有り、悪口として出していたが、人に完璧を求めなくなり、足らずを足してあげようと思えるようになった。
十善戒を意識するようになって、邪淫な事をしなくなり、あらぬ妄想を持たなくなり、欲や怒りに振り回される事が無くなった。
悪口の類は、中々やめられなかったが、当時は、自分に対して完璧を求め続け、足らずを責め続けていて、それが、人に対しても現れていたのだろう。
若い頃は、自分の意思や感情を出す事も、許してこなかった。
そればかりで無く、自分にやりたい事をやらせない、自分は幸せを感じてはならない、自分はダメな人間なんだという思いが有った。
いつの間にか付いた自己否定感は、ずっと自分を苦しめて来た。
自分は幸せになってはならない、自分は欲しいものを手に入れてはならない。
周りの人が、自己肯定感に溢れ、むしろわがままなくらい欲しがる様子を見ては、羨ましいという思いと共に、卑しいと感じていた。
欲しいものを欲しがってはいけない、幸せになってはいけない、そうした縛りによって、自分が何をやりたいのかも分からないままだった。
劣等感や自己否定感に塗れ、それを悔しく思いながらも、欲しいものを欲しがらない、幸せになってはいけないと、自分で縛りを設け、がんじがらめになったまま、ギャンブルにのめり込んでいた。
訳のわからない縛りを、何故、自分に課して来たのかは分からないが、ギャンブルをやめ始めてから、ようやく、自分を大切にしたくなり、自己否定をやめ始め、自己肯定感を得て来た。
自己を肯定すると、周りの人も肯定出来るようになった。
「 I'm ok. You're ok.」
それを意識していると、人の悪口も言わなくなった。
紆余曲折を経て、ようやく、肯定した自分に、したい事をしてもいいよ、幸せになってもいいよと、思えるようになった。
ウォーキング中に、
「What do you want?」
と自分に尋ねてみるが、まだ声は聞こえて来ない 笑
以前、好きなシンガーだったジャニス・ジョップリンについて、書いたブログを思い出した。
「ママに教えて!あなたが欲しがっているものを!!なんでも叶えてあげるから!!」
と、叫ぶように歌う彼女の歌声に、魂を揺さぶられた。
改めてブログを読み返してみると、幼い頃、自分が何を求めていたのかを、突然、思い出した👀
自分は、ただ両親に甘えたかったのだ。
甘えられず、ワガママも言わず、そのうちに、幼い自分は、拗ねてしまった 笑
拗ねて、
「もう、いいよ。どうせ甘えさせてくれないんだろ? 欲しがっても、くれないなら、もう要らないよ。僕が欲しがらなければいいんだろ? 分かったよ。」
と思っていた事を、はっきりと思い出した。
ただ、甘えたいだけだった 笑
それをさせてもらえず、拗ねてしまい、「それならいいよ。」と、欲しがらなくなった。
何故、自分が子供の頃から、色んな事を抱えて来たのだろうか?と、ずっと疑問に思っていたのだが、ただ、甘えたいだけだった 笑笑
若い頃から、人に甘えるのが下手と思って来たが、子供の頃、甘えるのを許されなかったからであり、それに拗ねてしまっていた 笑
そんな事に気付いて、なんだか可笑しくなってくる 笑
自分は、考えられない事に、子供のころからずっと、何十年間に渡り拗ねてしまっていたのだ 笑
記憶の中で、下を向いてばかり居た、子供の頃の自分の意識にアプローチして、
「甘えてもいいんだよ。」
と言ってあげると、彼は初めて笑ってくれた。
ここ数年、自分の過去を掘り下げて、当時から抱えて来た事を解放して来たが、今回の気付きは、おそらく根幹であり、長年、築いてきた強固な壁が、音を立てて崩れ、まばゆい光が差し込んだ気がした。