目の前に広がる景色をしっかり見つめる。





過去の刹那の記憶に、後悔を含む様々な思いを巡らせても、未来を悲観しても、それらは全く意味を成さず、更に、そうした事に思念を巡らせている時には、例え目は開けていたとしても、目の前の景色は頭には入ってこない。





過去の後悔や未来への悲観は気分を下げるだけでなく、目の前に広がる景色をも燻らせてしまう。






「どうせ、うまくいかないだろう。」




「どうせ、大した事は出来ないよ。」





時にそんな思いに駆られる。




そうした思いが頭を巡り出せば、気持ちは八方塞がりになり、気分が滅入っていく。




成功に基づく過去からの経験則に頼れば、時に新しい事にチャレンジする思考を遮ってしまう。




失敗に基づく其れであれば、新しい事にチャレンジする意欲を削いでしまう。




そうであれば、経験則など全く不要なものでしか無くなる。




過去の悲しい記憶も、やはり、失敗が原因となっている場合が多く、手足を縮こまらせてしまう。




運転している時や、ボーっとしている時、音楽を聴いている時には、ふと、過去の記憶が頭をよぎる。



一度、呼び覚まされた記憶は、関連する記憶を呼び覚まし、しばし、過去の記憶を辿る事になる。




そうした時間を全く意味が無いとは思わないが、少なくとも未来に向けての思考にはなっておらず、また、現在すら見ていない事になる。




かと言って、頭の中には過去の経験した事しか入っていないので、妄想の中に居ない限りは、そうした思考を断つ事は出来ない。




さぁ、どうしたもんだろう。


そうした事を考えた時、最近、新しいものに触れていない事に気がつく。




年をとったせいなのだろうが、新しい事を始める事が無くなり、新しい出会いも、若い頃と比べると少なくなった。




音楽だって、9割は過去慣れ親しんだ曲ばかりを聞いている。



趣味の釣りも、新しい魚種を求めて、行った事が無い釣り場に行く事をしなくなった。




基本、テレビを見ない様にしているので、新しいニュースも入ってこない。




新しい情報や、新しい物や場所、人に出会う機会が少なくなると、脳は刺激を受けなくなり、思考は過去の経験ばかりを辿る様になる。




年老いた母親が過去の話ばかりしていて、辟易としてしまう事があるが、自分もそうした状態になろうとしている事に気が付いた。




この土地に来てからというもの、月曜から金曜までは陸の孤島のエリアに居るので、土日は洗濯をしたり掃除をしたり、筋トレとギターを弾いて過ごす事が多くなった。




最近、ランニングを始めたものの、一人で走っていても、新しい情報など入ってはこない。




この土地に来て一年になるが、刺激的な情報と言えば、経営者セミナーに出た時に得た情報くらいであった。



一年の内、それ以外の多くの時間、過去の記憶を辿っていた事になる。




家族と住んでいた家から出る際には、そうした縛りから解放された様な気になったが、新しい環境になっても、記憶にまだまだ縛られていたのだろう。


これまでの物や人とばかり触れ合っていると、それらは記憶に紐付けされていて、過去の記憶を呼び覚ましてしまう。




昔の音楽を聞けば、当時付き合っていた彼女の事を回想し、昔の物を見れば、その当時の状況が、場面だけでなく匂いや感情まで伴って、脳裏に蘇る。



新しい物を取り入れ、新しい場所に行き、新しい人に出会う。




新しいそれらと触れ合う事により、それらは過去に紐付けされてないばかりか、新しい刺激、新しい情報となる。




過去の記憶は潰える事は無く、いつまでもその記憶に浸っていても、先へは進めない。




年をとった事で、新しい事に取り組む事に対して少し億劫になっていたのもあるだろうし、やはり、家族を失うという事が想像以上のショックになっていて、その回復に3年くらいを要したということなのかも知れない。




以前、1度目の離婚の際にも、3年くらいはひたすらギャンブルに没頭していた。




そんな自分を変えてくれたのは、新たなバーとの出会いであり、彼等と組んだ初めてのバンドであった。




こうした気付きは苦しい時に、必ず訪れる。




きっとそれも、偶然では無いのだろう。




新しい事にとりくみ、先へ進もう。




記憶はそっと仕舞っておこう。