「清濁併せ呑む」





生きていれば、いい事もあり悪い事もある。

 


いい人に出会う事もあれば、悪い人に出会う事もある。




悪い事にも苦しまず、悪い人と出会っても対峙しない為には、俯瞰に意識を置けばいい。




悪い事が起きても、「あれ?悪い事が起きて、少しイライラしてますね。」



悪い人と出会っても、「彼は定期的に現れる、典型的な性悪タイプですね。」




と、俯瞰目線で見ていれば、腹が立つ事は無い。





「彼は幼稚さから、こんなことをするんですね。」




そんな風に考えると、腹は立つ事は無いが、怒りは少しずつ腹に溜まる。




幼稚さに呆れるくらい、怒りが腹に溜まると、関係性を断つ。




子供の頃からそうだった。




大人が考えている事が分かるので、教師や同級生に腹を立てたりする事は無かった。




親の理不尽な言動に対しても腹を立てることは無かった。




ずっと意識は俯瞰に居た。




俯瞰から、親も友人も、そして自分をも眺めていた。




いつしか、人の事を、浅はかで、足らないものだと愁う様になった。




自分の事も俯瞰で見ていて、咄嗟の感情に捉われる事は無かった。




怒り、喜び、哀しみ、嬉しさ、全ての感情は、俯瞰から見ている自分が持っているものであり、それを離人的に見ていて、感情に捉われる事が無かった。




怒りに任せて、言動する人の気持ちが分からなかった。




人を好きになるのも、どういうものか、分かっていなかった。




自分をも俯瞰で見ていたので、好意は現実感を伴わずにいて、それは、人に対する責任感にしか過ぎなかった。




責任感による言動というのは、気持ちを伴わず、いつも自分の本当の気持ちとは、乖離していた。




そしてそれは、相手に呆れ、相手を嫌いになる事によって、いとも簡単に無くなるものだった。





いつも理解者を求めていた。




いつも孤独を感じていた。




ギャンブルにハマったのも、きっと、そんな自分だからこそハマり続けたのだろう。



 
誰とも話さず、朝から晩まで台と向き合った。




体を重ねた女性とも、心を通わせる事は無かった。




一緒に居ても、孤独を感じていた。




誰かと一緒にいても、居なくなると、ほっとするように感じた。




独りが好きだった。




独りで朝から晩まで、台と向き合う時間が一番好きだった。


そうして、意識を俯瞰に置く事によって、全てから逃げ込む場所を作っていた。




自分とも向き合わず、人とも向き合わず、台とひたすら向き合う。




負け続け、経済的にいつも苦しんできた。




俯瞰で見て、苦しんでいる自分を、何処でバカにしていた。




お金を稼いでも、まともに使う事も出来ず、誰とも向き合わずに、ギャンブルに流し続ける。




そんな自分を、いつも嘲笑っていた。




嘲笑ってくれる、友人を探していた。




いつまでも自分はダメなままであり、それは一生変わらないと思っていた。
 

40歳になる頃に、ギャンブルを止めたいと思う様になった。




ギャンブルに負け続け、ギャンブルに殺されると思った。




いつまでもギャンブルをやめられない、自分に自分を殺されると思った。




ある日、その人もギャンブルに負けて、いつもの様にウチに帰ろうとしたのだが、いつまでも変わらない生活に、破滅を感じた。




破滅を感じながら、叫びながら、車を走らせ続けた。




初めて、自分の腹の底から出る、感情を感じた。




「破滅したくない!!ギャンブル如きに、俺の人生を破滅させられてたまるか!!」




頭が狂いそうになった。




腹の底から、生きたいと思った。




泣きながら、叫びながら、車を走らせ続けた。




所謂、底つきだった。


そこから、スリップを繰り返しながらも、ギャンブルを止め始め、9年の歳月が流れた。




ずっと俯瞰に居た意識は、俯瞰と仰視を繰り返す様になった。




怒りに塗れる時には、それを出す様になった。




素直に喜べる様になった。




今でも感情を直結で出す事は出来ないが、少し考えて出せる様になった。




感情をそのまま出す事への罪悪感は、少しずつ薄れてきている。




以前は、感情を持つ事にすら罪悪感があった。




 俯瞰でみる事によって、人も自分をも蔑んでいたのだろう。




ギャンブルを止め始めてから、自分と向き合っていくうちに、自分の事が好きになり、人もだんだんと好きになってきた様な気がする。




人に対する感情として、最優先するのは、好きか嫌いかだったのだが、嫌いな人に対しても間口を開ける様になった。




嫌な人がドカドカと間口から入り込んで来ても、対応出来る自信が付いたのかも知れない。




怒るし、時折説教もするが、また間口から入って来ようとしたら、それはそれで歓迎する。




それを繰り返しながらも、縁があれば繋がっていくのだろう。


俯瞰で見る様になった原因は分からないが、当時は、離人的な感覚が強かった。




おそらく、怒りや苦しみ、哀しみを避けようと、俯瞰に逃げ込み、離人的に自分を見ていたのだろう。



俯瞰で見る目線を持っている事は大事だとは思うが、常に俯瞰に意識があると、意識は浮世から離れてしまい、常に魂は孤独な状態になってしまう。



いつしか俯瞰から出て、自分と自分の魂が寄り添う様になり、感情を取り戻したのを感じている。




離人的な感覚は無くなりつつあり、自分の中に自己の存在を感じる。




その変化は、人に対する意識を変えた。




人が好きになった。




いい部分と合わせて、嫌な部分や幼稚な部分も持ち合わせているのが、人なんだろう。




昨年明けから、一人で飲みに出て、誰彼と話すのが好きになった。




俯瞰の目線は無くなりはしないが、嫌な部分が見えたとしても、拒絶する事は無くなった。




自分に自信があれば、嫌な部分が見えたとしても、毅然としていれば良く、それが出来る様になった。



いつしか、俯瞰で怒りや哀しみを避ける自分から、変化しているのに気付いた。




自身に湧き上がる感情を感じられる様になり、それを素直に出したくなった。     




そして、生きている事を実感出来る様になった。




「清濁併せ呑む」ということは、人とぶつかりながら生きる覚悟を持つという事なんだろう。