お盆には伊勢神宮に行こうと考えていた。
伊勢神宮の鬼門を守る寺、朝熊岳金剛證寺
今年は年明けに明治神宮には行ったのだが、しばらく伊勢神宮には行けていなかった。
先週の木曜日、地元の神社に仕事中にお参りをした。
たまたま近くを通った際、唐突にお参りをしようと思った。
平日の朝、誰もいない神社をお参りした。
お盆に、伊勢に行こうと思い立ったのはその時なのかもしれないが、実はよく思い出せない。
お盆休みを二週に分けて取っていて、来週の後半の休みには子供に会う事になっていた。
お盆休みに高速で関西を抜けるのは、渋滞もあるので直前まで少し迷いはあった。
行きはフェリーで和歌山まで行けばなんとかなるだろうと思い、バーで朝まで飲んだ次の日の夜に和歌山行きのフェリーに乗った。
0時過ぎに和歌山港に到着し、車で高速をひたすら走らせる。
幸い渋滞に巻き込まれる事無く、4時過ぎには外宮近くに到着した。
神宮前の駐車場には、まばらに人がいる。
開場の5時になり、日の出の5時11分を待たずに、薄っすらと日が明ける中、外宮の鳥居をくぐった。
空が徐々に白ばんでくる。
玉砂利を踏みしめながら、敬虔な気持ちで外宮の中を歩く。
朝一、まだ心地よい気温の中、お参りをした。
次いで、内宮へと向かおうとしたのだが、日の登る二見を見たいと思い、二見に向かう。
太陽が昇る中、しばし海に映る陽の光を見つめる。
心が洗われる様だ。
そして内宮へと向かう。
7時頃には内宮に到着。
少しずつ気温が高くなる中、参道を歩く。
五十鈴川のほとりで座り込み、しばし目を閉じていたら、知らぬ間にそのまま眠り込んでいた。
目を覚まして、本宮をお参りする。
これまで、新年になんとなくお参りしたのをのぞけば、これで4度目の伊勢参りになる。
外宮を参り、内宮を参る。
伊勢市駅前のうなぎを食べて帰るのが、これまでのパターン。
今回もそうしようかと、内宮を参りうなぎ屋が開くまでの時間、待機しようと考えていた。
のだが、内宮参りを終わり駐車場に戻ると、そこにある月読宮の案内板が目に付いた。
前回、遠くから見るだけで、なんとなく畏怖してしまいお参り出来なかった月読宮に、これまた唐突にお参りしたくなった。
で、向かってみる。
前回は夕方辺りだったのだが、今は朝の9時頃。
何となく行ける気になり、鳥居をくぐった。
外宮、内宮と違い、人があまり居ないので、気温は高いのだが、なんだか薄ら寒い気になる。
鳥居をくぐると、程なくして神殿がある。
周りに人が居ない中、お参りをする。
結構な緊張感だ。
何故、神社や寺院をお参りする際、緊張するのだろう?
これまではよく分からなかったのだが、こうして神殿の前に一人でお参りしてみると、その意味がよく分かる。
それは紛いもなく、畏怖の心の現れである。
夏の照りつける日差しの中、鳥居に一礼し、神殿の前に立つ。
自然と、暑さからでは無い汗が噴き出てくるのが分かった。
二礼して、二拍手。
セミの鳴く声も聞こえなくなる。
しんとした静寂が訪れる。
ただ、お参りさせて頂けたお礼を申すだけなのに、畏怖に絶えない心持ちになる。
畏怖の中、お礼を申し上げて、深く一礼する。
4つある神殿にお参りするうち、暑さからでは無い、尋常じゃない汗をかいた。
月読宮でのお参りを済ませ、あとはうなぎを食べて、観光でもして帰ろうか?となったが、ふと、ほかのお参りが気になり始める。
ネットで見ると、実はこれまた知らずに居たが、たくさんお参りする先がある。
見た以上、気になって仕方が無くなり、一軒、一軒お参りに向かう。
神宮美術館近くにある倭姫宮にお参りして、外宮近くにある月夜見宮に向かう。
何となく通った道が、月夜見宮から外宮に神様が通る道である事を、道案内で知った。
真ん中を通ってはいけないそうで、端っこを歩く。
お参りして、帰り道。
恐る恐る道で立ち止まってみた。
外宮前、車が行き来している所までは、おおよそ200mくらいか。
そこには車が引っ切り無しに行き来しているのに、その道だけは、不思議としんと静まり返っている。
真夏の暑さの中、ここでも、セミの鳴き声も無い静寂を感じた。
さぁ、いよいようなぎを食べようと、ネットを開いたら、気になる文言が目に付いた。
「お伊勢まいらば朝熊をかけよ」
伊勢神宮の鬼門を守る寺、朝熊岳金剛證寺
とある。
伊勢神宮を参って金剛証寺をお参りしないのは片参りらしい。
朝からおにぎり一個した食べておらず、腹は減って居たのが、ハンドルは自然と金剛証寺に向かっていた。
曲がり道が続く中、山道を登る。
約30分走って、到着。
神社にも畏怖はあるが、寺院にはまた別の畏怖を感じる。
けれど、ここまで来た以上、お参りせずに帰る訳にもいかない。
おそるおそる、門をくぐった。
老朽化で渡れない橋を横目に、本堂をお参りする。
で、帰ろうかと思ったら、こちら奥の院の案内がある。
ここまで来た以上、こちらもお参りするのが筋だろうと奥の院に向かった。
畏れ多く、写真は撮れなかったが、奥の院の雰囲気は別格であった。
門を一歩くぐり、先へ進むと、左には無数のお墓が並び、右側にはこれまた無数の、それぞれが2、3mはあろうかというお札がズラーっと並べられている。
お札は故人をまつるお墓の様な意味を持つのか、それぞれに故人の遺品であろう、帽子や杖がかけられている。
その間の細道を進む。
来た以上、引き返す事も出来ず、遺品やお札、お墓に礼をしながら、あまりじろじろと見るのも失礼にあたると思い、俯き加減に先に進む。
尋常じゃない汗と、次第に呼吸が荒くなるのを感じる。
前後には人は居ない中、生きた心地がしない様な、強烈な畏怖を感じた。
本堂までなんとかたどり着き、それこそ心から、お参りをした。
途中、アブかなんかに背中を噛まれ、チクッとした痛みが走ったのだが、構わずに、無心でお参りをした。
なんとか帰り道を辿り、寺院を後にした。
魂が縮こまる思いとは、この事だと思った。
外宮近くまで戻り、うなぎを食べた。
朝から何も食べてなかったので、あっという間に平らげた。
気が付けば、朝の5時から12時過ぎまで、おにぎり一個を食べただけで、いろんな場所をお参りしていた。
一路、地元に向かう。
渋滞に巻き込まれながら、6時間半を掛けて帰宅。
ふと、帰り際になり、奥の院の光景が脳裏をよぎる。
うちに入ったのだが、どうも落ち着かない。
いつもの部屋の中が、違った空気感になっているみたいだ。
一旦は、恐れているのかと思ったのだが、それは紛いも無く畏怖の気持ちであり、それを怖がるのではなく、受け入れる事にした。
奥の院のこの世とは思えない空気感、それと、ある神社にお参りしている最中に木の扉から、「コン!」と音がした。
周りには誰もいなかった。
それを思い出すと畏れ多い気持ちになるのだが、畏怖の気持ちを受け入れたら、恐さは無くなった。
畏怖するのが当たり前なのだろう。
ふと、神様の通り道の案内板を思い出す。
夜にその道を住人がどうしても通らなければならない時には、端を歩かなければならないとある。
神様が真ん中を通り抜けるので、人は畏れ、端を歩くらしい。
自分が歩いたのは真昼間だったのだが、しんとした静寂を感じた。
実に不思議な感覚を覚えた。
先のブログに書いた事がある、明治神宮の奥にある泉を思い出す。
こんこんと湧き上がる泉に、正とも負ともなり得る様な気に、吸い込まれそうな底知れぬ畏怖を感じた。
その際には強烈に畏れてしまい、居ても立っても居られなくなり、長居出来なかったのだが、今回同様に強烈な畏怖を目の前にしても、物怖じしながらも先に進む事が出来た。
泣きそうになる程の畏怖を感じながらも、先に進めた自分を褒めてやりたくなる。
これまでの人生であまり無い、実にスピリチュアルな日だった。
写真は金剛証寺の近くの展望台からの景色。
明日仕事前に、導いて頂いた地元の神社にお礼のお参りに行こうと思う。