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No Borders

格好良くなりたい。

焦りや不安な点はあるけれどもやるべきことはわかっているから、やれる全てのことをやって状況に身を任せようと思っている。
すべての事象は因果関係によりなりたっていると考える。

外敵や自然の危険から身を守るために体毛が生え、それでも足りない危険からの防衛、防寒のためにそもそもの衣服が生まれた。

軍服は軍事の際に動きやすくかつ機能的であるために開発が進み、農業着や作業着、作務衣も同様で、その系譜にスーツやデニムも存在する。

つまりこの系譜で考えると衣服というものはそれそのもので独立的に発展してきたわけではなく、仕事や宗教、民族文化などそれぞれの事象に伴って発展してきた副次的なものであると考えられる。

しかし今日において、全体的にみて圧倒的多数にとっては依然その立ち位置が変わらないままであるが、一部にとってはそうでなくなってきている。

着飾るための衣服。特に日本においてみられる、身に付けるものが持つ意味合いを消して単に楽しむためのものという立ち位置。

(ここまでの文章で、ヨーロッパ貴族文化のファッション論に突入して、171819世紀をやり過ごしシャネルのイミテーションだジャージーだああだこうだと続いて、その過程において日本でブームになった視覚的なファッションの楽しみ方の経緯などを省略し現代に話がうつる)

古着ブームの90年代、00年代のユニクロを始めとするファストファッションと呼ばれるものの台頭により、ファッション愛好家の裾野が多いに広がった。

(ここからまた良し悪しがあってああだこうだと続いて10年代後半以降について)

今後のファッションの流れについて、私は経済状況に伴う政治や思想と切り離しては考えられないと考える。

人口が減り、ピケティの21世紀の資本以前からの経済学者の研究に基づく先進国家の推移と似た経緯を辿りつつある現在の日本では、同一賃金同一労働を目指していくことになり、現政権下では国民皆正社員化を目標としているが、私は確実にそうはならず、現在のフリーター層が独立した個人事業主として働く路線を歩む未来が訪れると考えるが、
それと共に自由や独立した生き方について考えることがブームになることは確実である。(現になりつつある。)
そして各企業は人を抱えなくてすむことから個人事業主化した現アルバイトたちとの契約関係を現状の労使関係よりも軟化させることが考えられ、
好きな服を着たいからこの業界で働きたい、のような選択や、好きな服を着て生活したいからこのような選択をする。という働き方が出てくると考えられる。


そうなったときに求められる衣服とはどのようなものだろうか。

今あるハイブランド、ファストファッションは今後もその位置を崩すことはない。
そして現在進んでいるこの2極化とその内部での淘汰も極まっていくことだろう。

だが、今までとは違うアプローチで確実に生まれてくる市場が存在する。

ファストファッションの台頭から身なりに気を使うことが簡単に、そして当たり前になり、ある種以前よりもハイブランドまでの階段が見えやすくなり、かつそこに存在する人口が多くなった今、段階という意味での橋渡しの層、また、ハイブランドを頂点としないまでも趣味の良いものを集めていこうという層が新たに誕生する。(もしくは既存のものが成り代わる。)

これはブランド古着とは少し趣を異とする。
ブランド古着はあくまでもブランドへの憧れや知識ありきの、ファッション業界に寄った楽しみ方であり、お金があれば新品で買うであろうからである。

ここで今現在確かに存在する、ファストファッションではなく、かつハイブランド、クラシックブランドではない層、中間価格帯の層であるが、これらの存在は、トレンドを追いかけている限り淘汰されていくこととなる。

私の主張する新たに生まれる層と価格帯は同様であるが、ビジネスとしての着地点を据えていないがゆえに淘汰されることとなる。


途中途中区切って書いていたら散文になってしまった、このテーマはまた書きます!
人生を彩るコンテンツの一つだと思っている。


だからこそ、
何を着ておしゃれになるか
ばかり考えていることが多いと感じていて、それは間違いではないが半分くらいの段階ではなかろうか。


重要なのは、
おしゃれになって何をするか


おしゃれになって誰と付き合い、何をして楽しみ、生きるか。

ファッションは繰り返す。

 

同様に、自分の好みも繰り返す。

 

以前持っていて、要らなくなって売ったりあげたりした多くの物。その中には本当に要らないもののほうが圧倒的に多いのだが、未だに後悔を伴うものがいくつもある。

 

一生懸命集めたVANSの海外限定スニーカーたちや、古着のワイドパンツにシャツ。4年位スタイルが変わらない自分だけれども、それ以前に持っていたもので今のスタイルとして楽しみたいものがたくさんある。

 

未だに手元に残っているものは確かに精鋭だが、こんなことなら物は取っておくべきだと感じている。

 

それも含めて、この数年ひたすら考え続けて未だに答えの出ないものがある。

 

僕の場合は服が好きで、好きな服を好きなように着て過ごしたいと考えるのだけれども、僕が思うファッションやスタイルとはやはり他人在りきである。

大前提として他者とのかかわりの上で存在するのがファッションであり、そのうえでの個性やスタイルであると考える。

そこで、大切になってくるのが、

好きな服を着て、他者と一緒に、“何をして”過ごすのか。

 

何をするための好きな服で、その服で何がしたいがために欲するのか。

そのスタイルで何の話をし、どう生きていくのか。

 

ファッションは1度足を踏み入れ、好きでい続ける人にとって日常である。

1歩家から出る瞬間から気を抜けない。

ではそのスタイルで、何をしたいのか。

 

そこに境界のない面白いこと、面白いものが集まる社交場をつくることは目標だけれども、そこにおいても何をするのか。何を軸に交流を起こすのか。

 

僕にとってのファッションは目標ではなく、かといってツールでもなく、僕という人間のスタイルの一環である。

 

1番重要なのは何を軸にして、どのように生きるかということ。

人間誰しもが、
やりたいことがなくて、やることがなければいつでも寝ているんだと思う。

生きるためのすべての行動にはエネルギーを使う。そして、出来ることならいつでも回復していたいと反応するのがからだの本質だと思う。

すると、脳を刺激しアドレナリンやドーパミンを放出する何かや、働かねばならない、等の義務が無い限り、その時間を回復に充てようとするのは当然である。

つまり、やりたいことが無い人間は義務を増やさない限り寝続けることになるし、やりたいことがあると思っている人間も、寝てしまっているような状況ではそれは本当にやりたいことではない。

「寝る間を惜しんで」出来る何かがあるとしたら、それは人生を面白がる鍵だ。