現在、鴨長明の『発心集』を読み進めている。
原文を読んでみると、なんとなくこんなことを言っている、とわかる。
俗世と厭世のように、世俗を嫌い世に隠れ住むことを長明は讃える。
わたしも、このような考え方は嫌いではない。
しかし、俗世間にどっぷりつかって生きているわたしはこの俗世間が好きであるため、とことん俗世を嫌えないのである。
厭世を志す職業は僧侶である。
平安から鎌倉の僧侶は、権力と結びつき、自らの社会的地位を上げるために自宗派の僧侶、他宗派の僧侶と争ってきたのであろう。
時によっては世俗の人間がする以上の権謀術策を弄したのではないか。
そのため、玄敏は厭世をせざるを得なくなったのであろう。
わたしは団塊の世代であり、仲間が多い。その仲間とさまざまなシーンで足の引っ張り合いなどはしたことはないし、穏やかに暮らしてきた。
俗世はそんなに捨てたものではないのである。
自らの価値観に従いながら、自らを高めていくしかない。
本を読み、仲間と話し、優れた人の話を聞く。
この繰り返しの中に充実を感じられれば、俗世も悪くないと思う。