2011年3月11日午後2時46分に、マグニチュード9・0の東日本大震災が起こり、三陸海岸沿いの岩手、宮城、福島は大津波に見舞われ、多くの人命、財産が失われた。
今年の3月11日が来れば、丸2年になる。
遅々として復興は進まず、釜石では復旧した飲食店が市の復興計画を理由に立ち退きを迫られている、というニュースが流れている。
わたしは、地震が起こり、津波から人々がどのように逃げ、避難所での生活はどうであったのか、そして復興の現状はどうなっているのか知りたいと思っていた。
見つけた本が『被災後を生きる 吉里吉里・大槌・釜石奮闘記』(2013年1月10日初版発行、中央公論新社)である。このことで井上ひさしさんの吉里吉里が現実にあることを知った。岩手とは日本であって、やはり日本ではないと思った。
筆者は竹沢尚一郎さん。京都、国立民族博物館の教授職にある方である。文化人類学、宗教学などを専攻されている。
なぜ読みたくなったかというと、筆者は2011年4月8日から2012年9月21日までの間の合計242日間のほとんどを、岩手沿岸地区の吉里吉里・大槌町・釜石市で当初はボランティアとして、復興の道筋をつけられるようになってからは上記地区の支援と街づくりのアドバイザーとして活動してきた人である。
筆者は、震災発生後2週間たっても被災地の状況が変わらないことに危機感を持ち、家族三人で話し合って三人で被災地に行くと決めた。まず、行動を家族で決めたことに、わたしはこの筆者一家は、
「よき日本人」であると思った。
そのよき日本人である筆者は、自らの使命を被災地の人々の声を正確に記録し、この先に起こるかもしれない事態に備えようと考えたのかもしれない。
この本は、被災直後に、生き残れた人々の話を聞いた。
津波警報の1報は、3メートルの津波が来る、であった。この情報が避難する人々の判断を迷わせた、という。
高台にいる人を含め、大槌町の人々は伝え聞いていた情報とか、3メートルの津波警報で自分のところは安全と判断した。危機意識があったのもかかわらず、逃げなかった、逃げるのを止めた人が多かったと、この本からは読み取れる。
命を持続できた人の話からも、その避難行動にここまでは津波が来ないと思って逃げ遅れた人がいたのではないかと思う。
群馬大学の片田敏孝さんの
1.想定にとらわれるな
2.最善を尽くせ
3.率先避難者たれ
これを片田さんが教えた小学校、中学校の児童・生徒は高台に早期非難し難を逃れた。
槌田町、吉里吉里の人間も、避難すべきか、留まるべきか悩んだ方が多かったようである。
この時も、津波警報が3メートルからそれ以上になったときは、それを聞ける環境は失われていた。
さて、避難所生活である。
地域のコミュニケーションが、日常の生活にあった避難所では組織を立ち上げ、国、行政の助けを借りるよりは磁力で自分たちの命、生活を守ろうと活動した。
避難者が自分のことだけ考えて発言・行動した避難所は問題があったそうである。
わたしは、吉里吉里の中学生がすぐに大人の活動に協力して、成果を上げた話を読んで、涙をぬぐった。
この時点でも、情報の少なさが人々を動揺させていたことを忘れてはならない。
そして、復興に今は向かっていると思うが、、人々の想いはそれぞれ違う。その違いをまとめ、一つの方向性を出すのは非常に困難なことである。
筆者は、最後に大槌高校のブラスバンド部が、高校のグランドを宿泊所にしていた自衛隊に、感謝と励ましの演奏をしていたことに、
この心があれば、支援される側、支援する側という立場を超えた、新しい人間のあり方があり、それさえあれば、新しい社会づくりに向かえると予感している。
「よき日本人」がいる。この現実をわたしは知り、涙を流し、勇気づけられた。
