われは大衆消費社会の子なのだと、澤田さんの『京都 知恵に生きる』を読んでいて突然思った。
少年時代は、10円玉を握りしめて、駄菓子屋に行ったり、自転車に装備一式をくくりつけた紙芝居屋の到着を待っていた。
ひもじい思いは一切なかったし、貧乏だとも思っていなかった。
高度経済成長社会は、自分の居場所を探せる社会だったと思う。
就職先に困ることはなかったし、自分がやりたい仕事にもつけたし、お金に困ることもなかった。
大学に入学した時には、両親がアイビールックのブレザーとスラックスをプレゼントしてくれた。
本は買うものだと思っていたので、図書館で借りることは全くなかった。図書館は勉強をするところだと思っていたのである。
高校2年からスキーに出かけ、自宅には卓球台もあった。
友人とかデートには喫茶店かパブを利用していた。
子どもが生まれてからは、頻繁にファミリーレストラン、回転寿司、不二家のレストランで、愉しく食事をしていた。
夏は那須高原に旅行し、冬はスキーにしばしば出かけていた。
つまり、人並みの生活を楽しむ経済力が用意されており、それを自由に使って、物を買い、サービスを利用してきたのである。
背伸びをしたことは一度もない。自分の身の丈に合った生活をしてきたわけである。
いま日本は不況にあえぎ、貧富の格差が激しい社会になってしまった。1億総中流であったわたしが生きてきた社会よ、もう一度と思うことはいかがなものであろうか。
今日は銀座の街を歩いてから新宿駅ルミネの飲食フロアに行った。そこには若い女性のグループだけしかいないお店が結構あった。いまの消費社会は「女性消費社会」ではないかと考えた。